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カキ(柿)について
 以前、このコーナーに、モモユスラウメについて記述したが、私は、「終戦直後の日本中が貧しかった時代には果物が子ども達にとっては得難いおやつだった」と述べた。そうした中の一つとして、カキも例外ではなかった。
 終戦の年(昭和20年)の4月に、東京から群馬のこの地に転居した時に、我が家には数本の柿の木があった。我が家に限らず、ご近所のどの家にも柿の木が見られたものだった。つまり、柿の木は少しも珍しい存在ではなかった。
 我が家にあったカキは、「鶴の子」とか「筆の先」と呼ばれていた。我が家のそれが、その何れであったかは今では記憶の外となっている。隣近所にもそのいずれかがあったからである。形状としては、右の写真に見られるようなカキで鶏卵の先を尖らせたような形状であった。また、大きさも鶏卵よりも一回り小さい程度のものであったと記憶している。このカキは、あまり大きくはなかったが、とても甘いので子ども達には人気があった。現在のように皮を剝いて食べるというような上品な作法には従うことなく、木に登り、手で採ると、その場で皮ごと食べてしまったものだった。また、ポケットに入るだけ詰め込んで木から下りてきてそのまま遊びに出かけたものだった。
 子ども達は、上述の通り木に登って枝から直接採っていたのだったが、大人達は、柿の木に登るようなことはなかった。それは、柿の木が折れやすいことを知っていたからではないかと思えるのだ。子ども達の中にも、柿の木の枝が折れ、落ちて怪我をした者も多数知っている。大人達は、長い竹の先に木の棒を結びつけて、幾分斜めを向いたY字形のものをつくり、カキの小枝を折るようにして柿の実を採っていた。カキは、小枝を折った方が、その後の結実がよいとも言っていた。
 ご近所に我が家のカキとは大きさも形も異なるカキが見られた。右の写真のようなカキだった。所謂「富有柿」であったのだが、子どもの頃には、誰もが「フユガキ」と言っていたので、それを「冬柿」というものと思っていた。ただ、何故それを冬柿というのだろうと不思議に思って過ごしたものだった。
 ところで、この富有柿をいただいてご馳走になったことがあった。色といい、大きさといい、とにかくずっと憧れていたのだったが、初めてご馳走になったときには、どうしても自宅のカキと味を比較してしまったものだった。大きさや柔らかさや果物らしい瑞々しさなどの点では富有柿は確かに我が家のそれよりも優れていると子どもながらに思ったものだが、甘味は子どもの私には上品すぎるように思えたものだった。
 ある年、亡父が、我が家の柿の木の一本を自分の膝くらいの高さで切り倒してしまった。随分もったいないことをするものと、父に苦情を申し出たが、父は、今までよりも大きくて美味しいカキを食べさせてあげるからしばらく辛抱するようにと告げたたのだった。そして、父は、直径30センチ程度の太さの柿の木の外側に鑿(のみ)を入れ、そこに割り箸程度のカキの小枝を差し込んだのだった。つまり、父は、これまでの柿の木を台木にして新たな品種のカキを接木したのだった。しっかりと布で結びつけて後に、子どもだった私に、暫くは手に触れぬようにと告げたのだった。やがて、その差し込んだカキの枝から芽が出、葉が開いたときには、驚いたものだった。接木等という技術の存在を知る由もなかった子どもの私には、まるで、父が魔法でも使ったかと思えたほどだった。やがて、その木に見事なカキがなったときには、とにかく驚きとともに感動したことは確かだった。私が、接木と言う植物の増殖法を知ったのはそれが初めてであった。
 ところで、我が家のカキを食べてからというもの、カキの美味しさというものはすっかり私の脳裏に記憶として定着してしまった。また、等しくカキと申しても種類がたくさんあることが徐々にわかってきた。大きさも形状も様々であった。
 ある年、毎年見慣れていた私の祖母の生家の庭先にあったカキを一度食べてみたいと思い、おねだりをしてみた。皆が笑いながら、どれだけ食べてもよいという嬉しい言葉を返して来た。右の写真のようなカキだった。色と言い、大きさと言い申し分なさそうな実を一つ採ってそのままがぶりと食べてみた。親戚の皆はにこにこしながら私を見ていた。だが、私は、そのあまりの渋さに、皆が見ている前で、口の中のカキを吐き出してしまったものだった。その場に居た皆は大笑いしていたものだった。
 それまでに、カキは完全に熟していないと部分的に渋いことがあることは子どもながらに体験的に学習は済んでいた。上に述べた親戚のカキは、見るからに完熟していると見定めて手に採った筈だった。しかし、とにかくその渋さには大いに辟易したものだった。親戚の人が、それは渋柿で、そのままでは食べられないのだと教えてくれたのだった。やがて、一ヶ月程して再び親戚の家に向かった時に、お爺さんがカキをあげるから食べて行きなさいと言う。しかし、私は前回で懲り懲りしているものだから、思わず首を横に振ってしまった。するとお爺さんは、にこにこしながら私の手を引いて、お勝手に連れて行き、大きな甕の蓋を開けたのだった。そこには忘れもしない前回思わず吐き出してしまったあのカキがたくさん見事に並んでいた。お爺さんは今度は大丈夫だから食べてごらんと言ってお皿の上に載せてくれた。半信半疑で受け取っては見たが、やはり、あの際どい渋さは脳裏に焼き付いており、素直に食べる気にはなれなかった。するとお爺さんは、自分でも一つ手に採り、器用に手で皮をするりと剝いてそれを口に運んだのだ。そして、歯で噛むと言うよりも頬を凹ませながら吸い込むように食べたのだった。そして少しも渋そうな顔を見せることはなかった。そこで、私も見習って食べてみた。それまで、カキという果物は概して堅さを感じるものと思っていただけに思わず拍子抜けしてしまった。とても柔らかかったからである。それは、今で言うプリンやゼリーのような柔らかさであった。そして、とても甘くて、確かに美味しかった。同じカキなのにどうしてなのだろうと不思議に思ったものだった。帰宅して、父にそのことを告げると、父は、それは渋柿の食べ方の一つの方法で「樽抜き」というのだと教えてくれた。いずれにしても、形や色合いでは分からない、とにかくとんでもなく渋いカキというものがあると知ったのは小学校の1,2年生の頃だった。そして、樽抜きというカキの食べ方をも併せて学習したのだった。今にして思えば、大人になってからは一度も樽抜きのカキを食べたことがない。それだけに貴重な体験だったように今更ながらに思えるの。
 もう一つ、新たなカキの食べ方を知った。それは毎年1月に行われるだるま市の際に路上に出ていた屋台の中で、干し柿を売っていたのだ。父が買ってくれたそれは、とてもカキとは思えないような色をしており、しかも表面には白粉が吹いており、見るからにしわくちゃだった。それを「干し柿」というのだということを父から学んだのだった。名前などどうでも良いことで、食いしん坊な私は、その味が気になって帰宅するとすぐ食べてみた。生のカキよりも数段甘さを感じた。とにかく初めての味だったが、その美味しさはすっかりお気に入りとなったものだった。それ以降、毎年のように、だるま市には父におねだりをして干し柿を買って貰ったのを今も記憶している。
 私が初めて社会に出て働き出したのは、埼玉県秩父市内の企業であった。秩父市では毎年12月の3,4日には日本三大夜祭りと言われるお祭りが開かれたが、その夜祭りにも、たくさんの夜店が出ていた。屋台にはあの懐かしい干し柿が随分並んでいた。地元の方の説明では秩父の特産物の一つであるということだった。やがて、右の写真のような光景を何度も目にするようになったものだったが、その都度、私は子どもの頃のだるま市を想起したものだった。秩父市には8年ほど過ごしたが、今も懐かしい地である。
 いずれにしても、私がドライフルーツというものの存在を知ったのは干し柿が最初だったといえる。
 先日、ある新聞記事を読んでいると、近年、各家庭に見られる柿の木は不人気だと書かれてあった。その理由としては、大きな葉が落ちて困るし、実は誰も食べないので地に落ちてぐしゃっと潰れて地面を汚してしまう、更に鳥たちが柿の実を狙ってやってきて困るというようなことであった。
 確かにカキを我が家の孫達もあまり食べようとはしない。何故なのだろうと思う。恐らく果肉が堅いからではないだろうか。また、カキには、他の果物のように特有の香りが感じられないのも人気を得られない大きな理由の一つではないかと思っている。たとえば、ミカンにはミカンの、リンゴにはリンゴの、モモにはモモのと特有の香りがするものだ。スーパーなどでも、果物のコーナーには食欲をそそられる果物らしい香りがするものだ。だが、カキの場合は、カキ特有の香りというものをあまり感じられない。加えて、カキのジュースというものを知らない。(或いは知らないのは私一人なのかもしれないが・・・。)ジュースに限らず、缶詰も知らない。私が唯一知っているのは「柿羊羹」と一部の和菓子程度である。つまり、カキは生食以外にはあまり加工されることはなさそうである。おまけに、カキの出回る頃には、柑橘類やリンゴ、そしてブドウなどと言った果物が豊富な時期でもある。そうした中で、日本人の傾向として堅いものをあまり好まない方向へと推移し、リンゴもイチゴやミカンの需要に追いつけないという。その意味で言えば、カキはリンゴよりも堅そうだ。
 俳句の世界では「柿紅葉」という季語があるが、右の写真のように複雑な紅葉を見せてくれるので、私としてはとても楽しめるのだ。特に陽射しを受けた葉の裏側から見ると実に美しい。つまり、大いに楽しめる葉なのだ。子どもの頃には、地に落ちた柿の葉も欅の葉もまとめて焚き火をしたものだった。ちょうどその頃には、モズが来て甲高い声で自分のテリトリーを宣言したりもするし、オナガドリやヒヨドリ、ジョウビタキなどと言った野鳥たちも人家の庭にやってくるようになる。上述の新聞記事では、カキは大きな葉がばらばらと落ちて困惑するというようなことが書いてあったが、この頃のカキの葉は美しい色模様を見せてくれると思うのだが如何なものだろうか。子どもの頃から、秋のカキは食べても美味しいが、葉の紅葉も美しいなと思って過ごして来たものだった。
 俳句の世界では、上述の秋の季語としての「柿紅葉」ばかりではなく、夏には「柿若葉」という季題も存在している。我が国の先人達は随分細かい変化にも目を留めてきたものと感心する次第である。カキの若葉は、右の写真にも見られるように光沢があり、そして見た目にも十分柔らかそうである。この柿若葉は、天ぷらにしたり、また、サラダに加えたりと美味しく食べられるのである。柿若葉に限らず、柿の葉は何かと利用されるが、特に吉野の柿寿司はよく知られているところである。あの四角い柿の葉で包んだ寿司は、やはり日本人好みの食べ物と言えよう。また、柿の葉は、昔からお茶にも取り入れられて来たのだ。カキは、実ばかりではなく葉も生活に密着していたと言うことになる。後述のように、カキは、材としても、渋そのものも様々な用途で利用されてきたのだった。
 現代社会のように、化学物質の発達していなかった時代には、とにかくカキは重要な樹木であったようである。上述のように、先ずは、実は生食でも、保存食としても、貴重であったが、そればかりではなく、甘味剤としても重要な存在だったのだ。そして、これまた上述のように葉も食されたり、お茶にしたりと有益な存在だった。そして、カキの渋がこれまた有用な存在だったのだ。たとえば、我が国での草木染めの技法は、今もその技法が受け継がれているが、柿渋染めも今に残っている。柿の渋で染めた布は茶褐色になり、「柿衣」とかつては言われたようである。次に、江戸時代の市中に見られた民家の板塀は「黒塀」と呼ばれたが、防腐剤として柿渋が用いられたからであるという。今なら、防腐剤としては各種の科学塗料やクレオソート等の化学物質が用いられるが、そうした化学物質が登場する前には、専ら柿渋が用いられたのだった。上に述べた黒塀ばかりではなく家屋の建築材にも柿渋は塗られたという。防湿・防腐・防虫・防脂の効果があったからだという。また、漆塗りの下地にも塗られたという。柿渋は、そうした家屋に限って用いられたばかりではなく、漁網や雨合羽等にも用いられた。防水や防腐、そして補強の意味もあったという。
 実も渋も、葉も、とにかく有益だったということだが、それでは材としての柿の木はどうだったかというと、これまた、重要な存在だったのだ。家具やピアノ等に用いられることで知られている高級材の黒檀はカキノキ属の樹木である。右の写真は、インドネシアのバリ島で購入してきた彫刻である。本来は黒檀なのであるが、黒い部分がほんの僅かなので安くしておくと言われて購入してきたものだ。我が家の書斎に置いてあるものだ。色合いはともかくとしてとても重い。黒檀の偽物には、重さを出すために、中に鉛などを埋め込んでいるケースが強いので購入するときは気をつけるべきであると店の人が言っていた。とにかく重くて堅くて緻密であるというのがカキノキ属の樹木の特徴なのである。
 我が国の柿の木もその黒檀の近縁種だけに材としての有用性は高いということになる。特に、我が国の柿の木の中でも黒色のものは「黒柿」と呼ばれ黒檀の代用として珍重され、家具や楽器、器具等に用いられてきたのだった。
 つまり、カキは、何もかも有用な樹木と言うことになる。上には、述べなかったが、まだまだ民間薬としてもカキは、実も葉も実の蔕も珍重されたのだった。それだけに、我が国では、昔からの集落に入ると何処にも柿の木と竹藪は今でも見られることになる。恐らく、柿の木と竹藪が見られないのは北海道程度と思えるのだが、私の個人的な経験から申しているので不確かでもある。
 ところで、このカキという植物は、果たして我が国が原産なのであろうか?様々な参考図書をひもといて見ると、中国が原産という書と我が国が原産という書とに二大別されるのだ。私は植物学者ではないので、どちらとも決めかねている。弥生時代の遺跡からカキの種や杭等が発掘されているという。それでいながら、『記・紀』や『万葉集』には登場しない。登場しても、地名や人名として登場するだけである。しかし、東大寺の古い記録(『二部般若銭用帳:757~765年間』)にはカキを購入したと言う記述が見られるという。つまり、既にその当時には商品として流通していたことが理解できる。文学関係では『古今和歌集』辺りが初出ということになりそうである。やはり、『万葉集』に登場しないと言うことは、遣唐使がもたらした植物の一種とも考えられる。
 『延喜式』(927年刊)には、干し柿が登場しているので、我が国での生活にかなり密着していたことが知れる。
 果たして渡来植物なのだろうか?とすればいつ頃のことなのだろうと疑問は尽きない。
 隣国中国では、概して自国に存在する植物に一文字の漢字を充てることとなっている。逆に、外国からの渡来植物については、たとえばホウレンソウは「菠薐草」、ポプラは「風響樹」というように複数の漢字で表記されることになっている。とすれば、カキの場合は立派に「柿」という一文字の漢字が充てられている。つまり、中国にも自生していたことが理解できるのだ。ということは、中国にも我が国にも自生が見られたか、或いは、中国からの渡来植物ということの二つにひとつということになろう。また、「干し柿」についても、果たして我が国のオリジナルなアイディアとして登場したものかどうか疑問である。隣国の中国では、古くから、アンズナツメ等をドライフルーツにしてきたし、現在もそうした食し方は残っている。かつては、カキもやはり干し柿にされたとのことである。恐らく、我が国から中国に渡った遣唐使の人々が、そうしたアンズやナツメの乾燥果物のあり方や、梅干し等のような特殊な保存方法を学んでその技法を伝えたのではなかろうかとも思えるのだ。そして干し柿もそうした果物の保存方法の一種だったとも考えられるのだが、果たして如何なものだろうか。
 またしても個人的な経験で恐縮であるが、色々な書物には、カキは日本を代表する果物であり(そのことには少しも異論はないのだが)、その呼び名も”カキ”で通用すると記述されている。しかし、アメリカやカナダ、そしてオーストラリアの人々は、カキとは言わずパーシモン(persimmon)と言っていた。一度だけ目にしたことがあるのは、カナダのケベック・シティの果物店で、他のものがフランス語で記述されている中に、”Kaki”という表記が見られたことだけである。しかし、お隣の都市であるモントリオールに今も在住するポーランド系のカナダ人である知人はパーシモンと言っていた。ただ、名前はともかくとして、外国ではカキは人気のある果物であった。今日、パーシモンというと、ゴルフウッドを思い起こす方も多いのでは無かろうか。
 カキの学名はDiospyros kaki Thumb.である。属名のDiospyrosとは、「神々の食べ物」という意味になる。神々ばかりではなく、日本人はこのカキから大いに恩恵を受けてきたと言えよう。我が国の民俗学の書をひもとけば、そこにはカキにまつわる様々な記述に出会ってしまう。それだけ我が国では生活に密着した植物だったと言える。
 蛇足:まるで関係のないおまけ                          
 今回は、バッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータNo.1~3」と「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタNO.1~3」を聴きながらタイピングしました。メニューインであるとか、シゲティであるとか、ハイフェッツと言った往年の名ヴァイオリニストの演奏だ。録音が1935年というから随分古い。随分昔のことだが、一時期バッハに夢中になり、来る日も来る日もバッハばかり聴いていた。ドイツのアルフィーフ社から出された「バッハ統一研究」と題されたアルバムが懐かしい。30㎝盤でありながら常識を破って45回転を採用していたマニアックなレコードだった。バッハばかり聴いていた頃は、モーツアルトの音楽は何故か軽薄に聞こえてしまいとても飛び込んで行けそうになかったものだ。今回の音源はCD。
H.21.3.21