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ユスラウメ
 東京の家が空襲で跡形もなくなってしまったので、我が家は、東京から、現在の地まで転居することとなった。終戦直前の4月だった。この地には、父の家と敷地とが残されていたからだった。        
 それまで住んでいた東京とは環境も景観もまるで相違する地に辿り着き、今日からここで生活をするのだと言われたときには、子どもながらに大きなカルチャー・ショックを感じたものだった。4ヶ月後の8月には、終戦となった。
 歩いてほんの数分の地点に私鉄の駅があり、その駅前にお店が一軒だけ存在した。町までは電車で一駅下らなければならない本当に片田舎と言える地であった。
 敗戦後の我が国は、どちらのご家庭もおしなべて貧しさのどん底にあった。三度、三度の食事も覚束ない生活の中で、何より有り難いご馳走は、果物だった。自宅の敷地内で、自分の手で採ってきて食べられる、こんな有り難いことはなかった。こればかりは東京では体験できないご馳走だった。しかも四季折々に異なる果物を味わえたのだから有り難いことこの上なかった。
 この地に住み着いて、およそ2ヶ月を経過した頃、庭の片隅に植えられてある木に、真っ赤な実がたくさんついているのを発見した。直径は1〜1.5p程度の大きさで、太陽の光を浴びると透き通って見えた。父に名前を尋ねると、「ユスラウメ」と教えてくれた。ご近所の人々や友達は「ユスランメ」と言っていたように記憶している。いずれにしても、父は、それが食べられることを私に教えてくれたのだった。竹で出来た笊を持ってきて、2,30粒ほどを枝から採って、それを井戸端の桶に水を張って入れたものだった。そして軽く水洗いをしてから、父は自らその一粒を口に含んだのだ。私も初めての果物に興味津々であり、父に倣って口に入れてみた。甘酸っぱい味がした。中に一個の種があった。
 それからというもの、毎日、毎日、自分で採取して弟妹達にも分け与えて食べ合ったものだった。
 やがて、敷地内に自宅を建て替えた際に我が家のユスラウメは姿を消してしまったが、ご近所では、今も目にすることがある。しかし、それを食べているということを今では見聞きしなくなってしまった。飽食の世にあって、もっと口に合った味が楽しめるようになったからなのかもしれない。
 このユスラウメ、個人的にはいくつか疑問がある。まずその1として、サクランボとの関係である。ユスラウメは、サクランボが脚光を浴びる以前は「櫻桃」記載されていた。(それにしても、妙な話だと思わないだろうか。漢字では「櫻桃」と表記していながら、それをユスラウメと読ませる。「櫻」にも「桃」にも<うめ>という読み方はないからだ。)しかし、今日では、「桜桃」と表記した場合、サクランボを意味している。そしてユスラウメそのものは「山櫻桃」(中国におけるユスラウメの異名の一つが「山桜桃」である。)と記載されている。つまり、サクランボに名前を取られてしまって、自身には「山」という接頭語がついてしまったことになる。ユスラウメは、実だけを見れば、どこかサクランボにも似ているようにも思えるがどうだろうか。味は、サクランボに比較して酸味が増しているのかもしれない。しかし、あの透明度の優れた美しさは、サクランボと比較しても優るとも劣らないのではないかと思うのだが如何だろうか。サクランボは、ケーキその他デザート類に高級食材として登場する。味もさることながら、それは彩りの面からも利用されているとも言えよう。その点では、ユスラウメでも十分に機能すると思えるのだが、そうした用い方はされていない。ユスラウメが果樹栽培の対象とされたり、農産物として流通されたりということもない。サクランボは、明治初年に我が国に渡来しているが、もし、そうした歴史的な事実がなかったとしたら、ユスラウメももっと脚光をあびたのではないだろうか。
 ユスラウメに関する疑問その2である。中国では、原則として、自国に自生が見られる樹木には一文字の漢字を充てている。「梅」、「桜」というようにである。一方で、外来植物に関しては、原則的に二文字以上の漢字を充てるのが慣わしとなっている。例えば、ポプラは中国では「風響樹」と表記されるようにである。ユスラウメは、漢名では「英桃」と表記されている。ということは、外来植物扱いとなっているといえるのである。因みに、中国におけるユスラウメの異名はとても多く、25種類上も確認されているが、どれも二文字以上で表記されている。しかしながら、我が国のほとんどの書物では、ユスラウメの原産国を中国としている。ここに疑問を感じるのだ。個人的な推測としては、ユスラウメに「英桃」と命名した時点では外来植物と思っていたのだが、命名後に、自国にも自生が見られることを確認できたということではなかろうか。というのも、このユスラウメの英名はKorean cherry(Nankin cherryという言い方もある。=念のため申し添える。)というが、朝鮮半島に最も多く自生が見られるということである。そこで、中国での命名の時点では、朝鮮半島の植物と思っていたのではないだろうか。或いは、朝鮮半島からの渡来植物であるためなのかもしれない。
 それにしても、中国ではユスラウメに「英桃」と命名したように、その実を桃と見立てているが、一方の我が国では、「ユスラウメ」と命名したように実ではなくその花形に注目していることになる。このことは、両国の国民性に起因するものなのか、それともこの植物の有用性からきたものなのかということも疑問に残るところである。
 このユスラウメ、どうやら江戸時代には我が国に渡来していたようである。というのは、飯沼慾齊の著した『草木圖説』の中で、「江戸時代の初め頃より栽培が始まる云々」と記載されていたからだ。因みに、寺島良安著『和漢三歳圖會』や貝原益軒著『大和本草』、岩崎灌園著『本草図譜』等にもユスラウメは登場している。もし万一江戸時代の初期から栽培されていたとしたら、俳句の達人は、いち早く詠んだものと講談社版の『日本大歳時記』をひもとくと、一番最初に登場するのは、「花」に関しては正岡子規の句であり、「実」に関しては高浜虚子の句であった。他の俳句歳時記を数冊開いてみたが、やはり同様の結果でしかなかった。つまり江戸時代の俳人の作品は掲載されていなかったのだ。あれほど目立つ真っ赤な実に、当時の俳人達が注目しなかった筈はない。しかし、俳句に詠まれていないということは、恐らく江戸時代には、庭木としての普及は一般的ではなかったと言えるのでは無かろうか。
 また、どのような目的で我が国にもたらされたのかもはっきりしていない。つまり、食用としてか、それとも観賞用としてなのか、或いは、薬用目的であったのか、これまたはっきりしない。そこで、柏書房から出されている『図説草木辞苑』をひもといてみた。この書は、植物に関する各種のデータベースが網羅されているので、毎度お世話になっている。本書によると、江戸時代には、観賞用、救荒植物、薬用植物として扱われていたことが分かった。俳人池内たかしは自身の作品の中で、<ふるさとの庭のどこかにゆすらうめ>という句を残しているが、この植物を見事に詠んでいると思う。しかし、そうした一般庶民の家々に庭木として普及をみるようになったのは、恐らく明治期以降、或いはもっと後のことなのかもしれないと個人的に推測している。
 最後に、<ユスラ>の語源がはっきりしない。そこで、牧野の図鑑を見れば、「ユスラウメは、枝葉が繁茂して、少し風が吹いてもゆれやすいので、この名がついたと言われているが、正否は保証できない。私(牧野)は、枝をゆさぶって果実を落としてとるのでこの名がついたと考えている。」と述べている。だが、大槻文彦の著述による『大言海』をひもとくと、「朝鮮(ママ)ノ移徒楽ト記セシハ、ゆすらナリ、此の木ハ花ノ擧リテ動(ユス)ルルヨリ云ウトゾ」とあった。この文中にある<移徒楽>の文字に注目したい。韓国語で<移徒楽>とはイサラと発音し、移植して楽しむと言う意味である。和名では現在「ユスラウメ」となっているが、以前は一般的に「ユスラ」と呼ばれていたことからも、恐らく、「イサラ」からの転訛で「ユスラ」なったのではないかと思うのだが、如何だろうか。そしてやがて、上述のように花形から「ウメ」という接尾語がついてしまったというのが本当のところではないのだろうか。
 今回は、ユスラウメについて日頃感じていることを記述してみた。自分でも幾分しつこかったかなと反省しています。
 次回は、モモかナシについて触れてみたいと思ってます。次回は、力まずにあっさりと仕上げたいと思っております。
 蛇足:まるで関係のないおまけ                          
今回は、<Jacques Loussier Complete Works> の中から、”PLAY BACH IN JAPAN”を聴きながらタイピングしました。
 H.19.12.21