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モ モ(桃)について
 前回のユスラウメの項でも述べたが、東京の家が空襲で焼かれてしまったために、群馬のこの地に、父は戻って来た。親から譲り受けた土地と家屋とが残されていたからだった。我が家は、農家ではなかったが、敷地は昔流に言えば丁度一反歩、つまり300坪であった。その敷地内に、モモの古木が5本ほどあったことを今も記憶している。残念ながら現在では、1本も残っていない。
 私がこの地で学んだ中学校の校歌は、「桃の花、ほのかに開く~」という歌い出しであった。事ほど左様に、私たちが住み着いた地には、右を見ても、左を見ても、モモの木があったのだった。
前回述べたユスラウメと比較して間違いなく果物という実感が得られる果物だったことは間違いなかった。 
 どこの畑を見ても、そこには桃の木があり、どれもかなりの年数を経ていることは、幹の太さから理解できた。そして、桃の木の周辺を残して、畑には、冬場は麦、夏場は米が栽培されていたものだった。しかし、我が家ばかりではなく、現在、畑に桃の木はどこを見ても見られる事はなくなってしまった。すっかり景観は一変してしまったように感じて仕方がない。桃の木ばかりではなく、田畑が年々減少してしまい、逆に住宅が増える一方となったのだった。これでは、上述の中学校の校歌も、困ってしまうのではなかろうかと案じられたが、学校統合ということで、母校も無くなってしまったのである。登下校に見た光景は、今となっては、記憶の中だけに存在するばかりである。
 なぜこの地に桃の木がたくさん存在したのかについては、ものぐさをして未だに調べていない。因みに、隣の村(現在は町となっている)は、当時も今もナシの産地である。
 だが、なぜ桃の木が消えてしまったのかは、推測に易いように思える。はじめは、農業の機械化の進展が原因かと推測したのだったが、記憶を辿ってみると、どうやら、それよりも幾分早かったように思えるのだ。二毛作が行われなくなった時期と一致しているように思うのだ。どこの畑も、麦を作らなくなり、稲が中心となってきたのだった。それまでも、畑で稲を栽培することはあったが、それは「陸稲(おかぼ)」と呼ばれ、収穫量も、味も、水稲と比較して一格劣るものと見なされてきたのだった。ところが、畑に水を引き、「陸田」と称して、水稲を栽培するようになってしまったのだ。この「陸田」の登場の時期と桃の木が消えて行った時期とが一致しているような気がするのである。
 また、桃の木が消えて行った大きな要因としては、桃の木の寿命とも大きく関係しているようにも思える。桃の木の寿命は、一般的に20年前後と言われている。加えて、桃の木の場合、厭地(いやち:連作障害)が激しいことも知られている。したがって、モモの生産地は、少しずつ変化している。岡山県から長野県や山形県へ、そして、今は山梨県が一番の生産地となっている。私の子どもの頃に見た桃の木が既にかなりの古木であったことからも、寿命を迎えており、そこに来て、上述のような陸田耕作が普及をみたこととが関係しているようにも思えるのだ。
 子どもの頃は、桃の花を美しいと思うことはなかった。幾らか遅れて開花する桜の花の方が見事だと思ったものだった。サクラと比較してモモの場合は、花形も整っていないし、花の色もどことなく野暮ったい感じがしたのだ。加えて、サクラは満開時には樹木全体が一つの大きな花であるかのような姿を見せるのだが、モモの場合、果樹栽培のため、枝が剪定されてもおり、サクラとは自ずと樹形が異なって来ることも、子どもながらに不自然さを感じたのであろう。昔から「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」と言われるように、桜の枝は切られることがないだけに、ごく自然な樹形を見せる点でも、美しいと思えたのかもしれない。しかし、遠目に見ると、モモは花色が濃いので、サクラよりもしっかりと目に映ったものだった。
 モモは、ウメと比較しても、何よりも香りが無い点で大きく異なるように思う。ウメは、なんと申しても「花の兄」とも呼ばれるように、モモやサクラよりに先んじて開花する。しかも、芳香を有する。そして、きちんと整った花形も見事である。しかも、例えば「鶯宿梅」であるとか、「茶青花」であるといったように、品種名も味わい深いものが多い。それに、俳句や短歌の世界でも、ウメやサクラを詠んだものは今もたくさん記憶されているが、モモを詠んだものは記憶に少ない。しかしながら、この年になってみると、あの野暮ったいモモの花が懐かしく感じられるから不思議なものである。 
 春、まだ花の咲く前に、毎年父が枝を剪定していた。そして花後に、右の写真のような状態で結実を見ると、父は、たくさんの実を枝から落としてしまっていた。子どもの私には、何だかとてももったいないことをしているようで、一度その理由を尋ねてみたことがある。すると、やがて大きなモモに育ってくれるように、余分な実は落とさないと、それぞれが大きくならないのだというようなことを教えてくれたものだった。やがて大人になってから、「摘蕾」であるとか、「摘果」という言葉を知ったときに、父の作業を思い出したものだった。やがて、父と母は、新聞紙で作った袋を作り、それを枝に残った一つ一つの実に丁寧に被せたものだった。子どもの頃には、袋の中の実が見えないので、紙袋に穴を開けてみて、食べ頃かどうかを覗いたものだった。 
 真夏になると、毎年モモが食べられた。我が家には3種類の桃の木があった。一つは、今では名前も思い出せない。残りの二つは、「天津」と「水密」と呼ばれていた。前者は、今ではあまり見かけることのない種類であるが、果皮は緑でも、果肉は赤紫なのだ。先端が尖っており、昔の『桃太郎』のおとぎ話に描かれていたような形状をしていた。果肉は堅くて、甘味よりも酸味が強い味がした。後者は、如何にも桃らしい味のする種類だった。熟してくると、独特の甘い香りがして、しかもナイフを使わなくても果皮が薄く手で剥けるのだった。大人達は、後者を好んだが、子ども達は、歯応えがあり、しかも酸味が感じられる前者を好んで食べたものだった。また、後者は人気品種だったが、果肉が柔らかいために取り扱いが丁寧でないと直ぐに傷んでしまうと言う独特の欠点を持っていた。
  モモの語源については、諸説があり、どれが正しいものかは、勉強不足の私には判断しかねる。興味関心のある御仁には、八坂書房から刊行されている前川文夫著『植物の名前の話』をおすすめしたい。同書の中で、前川先生は「桃の信仰からみたモモの概念とその語源」と題した著述をかなりのスペースを割いて展開されている。古代の我が国における考察に始まりモモという語の概念に迫っておられる。
 また、同じくモモの語源につての考察では、深津正著『植物和名語源新考』(八坂書房刊)も参照されると良いと思う。この書の特徴は、朝鮮語との関連から我が国の植物名の語源を考察している点にある。文物に限らず民間信仰や宗教、そして文化全般にわたって中国のそれがダイレクトに渡来したのではなく、そのほとんどが朝鮮半島を経て来たと考えるのはごく自然なことである。それだけに深津先生の考察には、説得力があるのである。
 モモの学名はPrunus persica Batsch.である。属名の<Prunus>は、スモモ<Plum>に対する古代ラテン語から来ている。Prunusは、当然のことだが、スモモにも登場する。また、ウメにも登場する。モモの種小名は<persica>であり、その意味はご案内の通り「ペルシャの」ということになる。本来モモの原産地は中国である。モモは紀元前にペルシャに伝わったということである。西暦1世紀頃のギリシャやローマの人々はモモをとても珍重したという。当時は、ギリシャ語ではmēlon Persikon、ラテン語ではmālum Persicumと呼んでいたという。ギリシャ語に登場するmēlonとはリンゴを意味する。確かに形状からすれば、また、色合いからもリンゴに似ていなくもないと言えよう。つまり、「ペルシャのリンゴ」ということになる。この頃、ギリシャやローマの人々は、オリエントから渡来したものは、すべて大らかにペルシャ産と見立てていたらしい。やがて、それが学名にも用いられることとなったようである。(この辺の事情を詳しく知りたい御仁は、次の2冊を参照されたい。その1は、春山行夫著『花の文化史:花の歴史をつくった人々』講談社版であり、その2は、内牧政夫著『西洋たべもの語源辞典』東京堂出版である。前者は、総頁数860頁を超える大作であるが、様々な文献や人物が網羅されており、大いに参考になる書である。後者の著者である内牧氏は薬学博士号と言う肩書きをお持ちの御仁であるが、まるで言語学者、それも「比較言語学」の専門学者であるかのように、世界の言語に精通しておられる。特に、古代サンスクリット語や古代ギリシャ語、そして古代ローマ語からの現代ヨーロッパ諸国の言語の語源を詳細に展開されておられる。)
 上には、学名にペルシャが登場する点について触れたが、英語のpeachについても、その語源がペルシャにあることが理解できる。モモは、英語ではpeach、ドイツ語ではpfirche、フランス語ではpêcheである。その当初「ペルシャのリンゴ」扱いだったモモも、中世に至ると、リンゴとは別の果物と認識されたものか、リンゴが欠落して単にpersicumと言えばモモを意味するようになった。中世のラテン語ではpersicaとなったのであった。フランス語のpêcheは、ラテン語のpersicaからの転用であるようだ。フランス語経由で英語ではpeachなったことになる。ドイツ語もフランス語経由ということになることも推測に易い。
 モモの漢名は言わずと知れた「桃」である。この「桃」の意味するところ、また、読みも、旁の「兆」にある。「兆」という文字は、藤堂明保先生は、その著『漢和大辞典』(学習研究社版)の中で、本来亀甲文字から生まれた象形文字で、「二つに分かれる」という意味であると述べている。確かにモモは上の写真にも見られるように真ん中に筋があり、二つに分かれるのである。
 また、「兆」の文字は、別には「兆候」を意味し、我が国では「きざし」ということになる。そこで、加藤常賢・山田勝美著『字源辞典』では、「桃」の意味に「妊娠の始めに用いる果実のなる木」と述べている。つまり、妊娠初期にこの実が好まれたことによるというのである。そこで、妊娠とは「出生」につながることから、死を意味する「鬼」にとっては、モモは天敵ということになる。そこから、モモは邪気を祓うという信仰にもつながり、我が国の『古事記』に登場するモモの意味も理解出来ることになる。それにしても妊娠初期に食べたということだから、当時のモモは酸味が強かったのかもしれない。
 モモが邪気をはらうという信仰は、中国からきていることはご存じの通りであるが、朝鮮半島でも同様にそのように信仰されており、我が国も同様である。特に、朝鮮半島では、モモの果皮についている毛が邪気をはらうと信じられてきたという。(上述の『植物和名語源新考』を参照されたい。)ところで、『万葉集』にはモモが七首詠まれているが、その内の3首は「毛桃(ケモモ)として詠まれている。深津正先生は、朝鮮半島における桃の毛に対する信仰との関連を強調しているが、大いに頷けるところである。
 中国におけるモモに対する考え方、つまり再三にわたって述べてきた、邪気をはらうとか、西王母の不老不死の妙薬であるとか、陶淵明の『桃花源記』に登場する「桃源郷」なるユートピアであるとか、或いは、我が国の桃の節句の原形であるとか、モモにまつわる故事来歴は枚挙に暇の無いほどである。そのあたりの事情をお知りになりたい御仁には、以下の2冊の書を参照されたい。その1は、王敏著『花が語る中国の心:美女・美酒・美食の饗宴』(中公新書)であり、その2は、中村公一著『中国の花ことば:中国人と花のシンボリズム』(岩崎美術出版社刊)である。前者は著者が中国人ということで、我が国とは異なる中国人本来のそれぞれの花々に対する考え方が述べられており参考になる書である。後者の著者は東洋美術史を専攻された御仁であり、『小原流挿花』の編集長である。中国の古典を中心に、彼の国の花にまつわる思想を紹介してくれている。
 我が国におけるモモと言えば、何よりも御伽話「桃太郎」であろう。なぜ桃太郎はモモから生まれたかの考察、そして、モモとは何かについて掘り下げているのはやはり文化人類学者の石田英一郎の『桃太郎の母』である。不確かな記憶であるが、1960年代に筑摩書房から『石田英一郎全集』が刊行されているが、その中に収録されていた。残念なことに、知人が我が家から持ち出してそのままとなり、現在は音信不通の状態と化しており、とても困惑しているところである。我が家には、同全集は第1巻から第4巻までが残されたままとなっている。しかし、どうしても目を通されたい御仁には、これまた不確かな記憶で恐縮であるが、講談社の学術文庫に収録されていると思うのでご自分でお探し下さい。いずれにしても、モモが古代中国の西王母の逸話に見られるように、不老不死或いは、若返りの妙薬となる果物であったという思想が桃太郎話にはしっかりと受け継がれている。だからこそ、老夫婦にも子どもが授かったのであろう。そして、上述の通り、モモは鬼にとって天敵であるという中国古来の思想も桃太郎話にはしっかりと受け継がれていることになる。だからこそ、桃太郎の鬼退治説は成立することになるのだといえよう。
 我が家の蔵書の中に、小学館から刊行された『日本の文様』(全12巻)があるが、そのそれぞれでは、菊、扇、松、桜、蝶、竹、梅、唐草、蔓、牡丹、椿、藤、柳、菖蒲、百合、桐をテーマとして、たくさんの事例を紹介している。しかし、既にお気づきのように、この中には、「桃」は含まれていないのである。等しく小学館から刊行されている『色の手帖』をひもとくと、そこには、「桃色」が登場し、しかもかなり古い時代から、我々の祖先は<くすんだ赤>或いは<モモの花のような赤>を「桃色」と称していたことが分かった。また、俳句歳時記も開いて見たところ、「モモの花」は春の季語の部に登場するが、「モモの実」は秋の季題として掲げられていた。しかし、詠まれた俳句を見ると、「花」に関しては、江戸時代の俳人の作例はたくさん見られるのであるが、「実」に関しては、明治期以降の俳人の作例ばかりであった。講談社版『日本大歳時記』の中で、山本健吉氏は次のように述べている。
  
「万葉では、家持の歌をはじめ、桃は春の花を賞して、秋の実はあまり詠まれていない。『夫木抄』第五巻に「桃花」の題は出ているが、巻二十八、二十九植物に、「梨」「李」「杏」などは出ていても、「桃」は出ていない。(中略:江戸期や明治期に作例がないことを述べている)だが大正以降、水蜜桃の品種が作られ、秋果としての桃が一般化するとともに、好んで作句されるようになり、今日では「桃の実」は秋果を代表する、味わいのある季物となったようである。」(上掲書p.1079)より
 そもそもモモは、弥生式の遺跡からその核が出土しているほどであるから、かなり古い時代に我が国に渡来しているものと推測できる。しかし、上の俳句の事例や、文様の事例から推測するに次のようなことが言えるのではなかろうか、その1として、文様に登場しない点では、等しくバラ科のウメやサクラが登場しているだけに、花形や香りの点では、人々の注目に値しなかったのではなかろうか。サクラのように、野生のそれが身近に見られる存在ではないこと。また、ウメのように芳香を有しないこと。花形は、三者ほぼ同様であるが、モモの花は、両者に比べ、似て非なる存在ではあるが、これぞという特徴に乏しかったのではなかろうか。いずれにしても、「梅」や「桜」をテーマにした書はそれこそ枚挙にいとまのないほど存在するが、「桃」だけを中心に著述された書はあまりみかけたことがない。また、ウメやサクラの盆栽や鉢植えは目にするが、モモの盆栽や鉢植えにはこれまでお目にかかったことがない。
 荒垣秀雄編『朝日小事典:日本の四季』の中で、モモの項を担当した星川清親氏は、次のような記述をしている。
 
「モモは日本では始めから花木として栽培されたようで、江戸時代までに数百もの園芸品種ができていた。 実の方は、江戸時代から果樹園も出来ていたが、ピンポン球くらいで、、色づいても ガリガリに堅く、甘味も乏しかった。中国では、古くから食用のモモが素晴らしく発達し、それが日本へ本式に入ってきたのは明治になってからの天津水蜜と上海水蜜であった。」(同書p.43)
 果樹園としてのモモ栽培が江戸時代に始まったことは、たくさんの書物が述べている。しかし、星川氏の指摘のように、果物としての価値には、乏しかったようである。そこで、江戸期の俳人達は、俳句が見られなかったことになるのであろう。上述の山本健吉氏の指摘にもあるように、果物としてのモモが全国的な普及を見るのは、大正期以降となるのであろう。 
 星川氏の記述に見られるように、実ではなく、花を観賞用に品種改良は行われたことは確かであり、現代にもたくさんの品種が残されている。特に、ウメと異なり、香りを持たないことから、茶花には欠かせない花材として用いられてきた。右には、一例として「源平枝垂れ桃」の写真を掲載しておいたが、詳しい品種名とカラー写真を楽しみたい方には、世界文化社から刊行されている『別冊・家庭画報・この花のすべて:茶花暦シリーズ三 桃・牡丹』を参照されたい。また、花ばかりではなく、実の写真も添えられているので、大いに参考になろう。特に、ウメやサクラにはあまり見られない「箒性(箒桃)」の写真も見られる。右の写真にも見られるが、ウメやサクラと比較して、花の付き方が多いことがモモの花の特徴とも言えよう。そこから、モモの語源に「百(モモ)」が加えられていることも頷ける。
 ところで、モモと言えば、どうしても東洋の果物というイメージが先行してしまうが、西洋社会では、一体どうなのだろうという疑問がわいた。しかし、自宅にある蔵書、つまり「GKZ文庫」を頼りに調べるものだから、どうしても資料が乏しくなるが以下の通りである。
 先ず、始めに、”The complete book of FRUITS & VEGETABLES"を開いてみた。本書は、アメリカ・ニューヨークのCrown出版社から刊行されているが、原書は”I Frutti della Terra"としてイタリアで発行されたものを英語ヴァージョンとして翻訳したものである。つまり、ヨーロッパの事情が少しでも分かればと思って購入した書である。(それに、イタリア語よりも、英語の方が理解しやすいのも個人的な事情にある。)本来、イタリアの食材を調べたくて購入したものだった。写真ではなく、イラストで構成されているが、その美しさも購入の大きな要因となっていることは否めない。いずれにしても本書にはモモが立派なイラスト入りで2頁を割いて紹介してくれている。本来中国産の果物で、ペルシャを経由して西洋社会に渡来した旨の記述が見られる。そこに、面白い記述を見た。つまり、「モモはバラ科の植物であるが、とても経済的にも価値のある果物で、生色にも良し、ドライフルーツとしても良し、砂糖煮やジャムにしても良し、ゼリーにしても良し、缶詰にしても良し云々」と言うようなことが読み取れるのである。ここで、注目したいのは、ドライフルーツという言葉である。そもそも私個人が、ドライフルーツにこれまであまり関心を持たなかったからなのかもしれないが、モモのドライフルーツというものが存在するということだ。これまで一度もお目にかかったことがない。ただ、書名は忘れてしまったが、隣国中国では、モモを乾燥して保存すると書かれてあった事を記憶している。ということは、我が国で食しているモモとは相違した品種であると推測されるのである。我が国のそれは、果汁を多分に含んでおり、しかも果肉がとても柔らかいことが美味なモモとされているからだ。
 次に、フランスでは、モモは人々にどのように受け止められていたのかを知りたくて、我が家の蔵書から関連書を探してみた。ジャン=リュック・エニグ著/小林茂(他)訳『果物と野菜の文化誌:文学とエロチシズム』(大修館)が目に入った。本書の原題は”Dictionnaire littéraire et érotique des fruits et légmes"(『果物ならびに野菜についての文学的かつエロチックな辞典』)であり、本邦で翻訳出版されるにあたり、上掲のようなタイトルとなったものである。本書の著者は、相当な読書家であったらしく巻末に掲げてある引用した人物名のリストだけでも21頁にも及んでいる。本書には、しっかりと「モモ」が取り上げられており、フランス文学の中では、モモはどのようなシンボリズムを有していたかがうかがえる。モモの果皮に見られる毛に注目したり、我が国でもよく言われることであるが、モモを二つに割った時の形状が女陰に似ていることからの連想等とにかくたくさんの事例が紹介されている。モモがフランスの人々の中で歴史的に見ていつ頃から、どのような階級または階層の人々に果物として日常的に食されたかと言う点では、たくさんのデータを得られたように思えた。
 次に、イギリスでは、どうかと思って関連の書を開いてみた。手始めに研究社から刊行されている『英語歳時記』(全6巻)では、モモは掲載されていなかった。等しく我が国で刊行されている書の中で、冨山房から出された加藤憲市著『英米文学植物民俗誌』を開いてみた。上掲の『英語歳時記』では見出せなかったが、本書には、<peach>が項目立てて記述されていた。本書によれば、モモが英国に渡ったのは16世紀のことという。そして、北米へはヨーロッパ移民が伝え、現在では、米国中部の諸州ではリンゴと並んで人気のある果物で、栽培も盛んだと言うことである。英国では、かつては、モモの種子に青酸性毒物があるので、モモを食した後には毒消しにワインを飲む習慣があったとか、赤ら顔を治す効果がモモにはあると信じられていたというような記述が見られた。次に、ロンドンのDorling Kindersley社から刊行されている”Encyclopedia of Gardening"を開いてみた。この書には、果樹としてのモモの木の栽培方法が詳しく述べられていた。適する気候風土に始まり、剪定の仕方、人工授精法、摘蕾法等々が詳細にわたって紹介されていた。それぞれの品種名にも英名がつけられ、一般化していることが理解できた。
 ニュージーランドとオーストラリアではどうかと関連書を開いてみた。その1は、ニュージーランド・ウエリントンのBridget Williams社から刊行されている”Cottage Gardening in New Zealand"であり、その2は、オーストラリアのNew Holland出版社から刊行された”Food from your Garden”である。前者は、英国式のガーデニングの歴史に始まり、発達の経緯が前半には詳しく述べられている。そして、そうした英国式のガーデニングをニュージーランドでどのように取り入れるかといった内容が述べられている。その中で、モモもガーデン・プランツとして用いられていることが随所に紹介されていた。気候の点からは、日本、英国、ニュージーランドの3国は緯度的な点からも違和感なくモモが取り入れられても不思議はないものと思われた。後者はオーストラリアにおける家庭菜園のための入門書のような書である。しかし、家庭菜園と申しても、彼の国では、我が国とはまるで異なることは推測に易い。とにかく面積が広大なのである。本書は、かつてオーストラリアにホームスティしていたときに、ホストファミリーが私にプレゼントしてくれた書の一冊であり、思い出深い書でもある。それはそれとして、本書の中に、「モモは生色がベストだが、ジャムや瓶詰めにも出来る」というような記述が目に留まった。上述のイタリアで刊行された書にもあったが、モモのジャムとはどのようなものか想像が働かなかった。また、缶詰ならばお馴染みであるが、瓶詰めは、モモの場合、我が国では一般的ではないように思えた。加えて、本書に掲載されていたモモのカラー写真は、かつて我が家に存在した天津桃と同じ形状で、先端が尖っていたためにとても懐かしい思いがしたものだった。
 これからは、個人的な記憶の問題であるので見落としや記憶違いがあるかもしれないことを先に申し添えておきたい。外国に行くと、私の場合、必ず現地のスーパーマーケットストアやマーケットに出かける。大都市の場合には、現地のデパートの食品売り場にも行ってみる。また、朝食時にバイキングスタイルのホテルを選ぶ。現地での食材を見たいからだ。その結果、東南アジアの諸国では、台湾を除いて、モモを目にすることはなかった。例えば、シンガポールやマレーシアなどの場合、中国系の人々が多いので、当然のようにモモがあっても良いのではなかろうかと期待していたが、残念ながら目にすることはなかった。私の探し方が悪かったのかもしれない。しかし、東南アジア諸国には、我が国では珍しいような果物がたくさん存在するので、そちらが売り物になってしまっているのではなかろうかと推測しているのだが、如何なものだろうか?
 アメリカやカナダでは、スーパーの店頭でモモが販売されているのを目にしたことがある。アメリカのデラウエア州の州花はモモとなっている程であるから、現地ではよほど一般化されていることが推測されるのである。
 子どもの頃、夏場には、汗疹や湿疹にはモモの葉がよいと言って、母がお風呂によく入れていていたことを記憶している。今では、そんなことをする人も少なくなってしまったと思うのだが、昔の人は物知りだったなと思うものである。また、漢方薬で「桃仁(とうにん)」と言っているのは、桃の核を割って中の種を乾燥させたものである。
 冒頭にも述べたが、我が家には、桃の木は1本もない。だが、有り難いことに、山梨県塩山市(現在の甲州市)出身の知人から毎年名産のモモが届けられて来ている。そのモモを見る度に、中学校(母校)の校歌を思い出したり、東京から転居したばかりの頃には、どこを向いても春には桃の花ばかりであったことを想起している。
 今回は、モモについて記述したのか、書物の紹介をしたのか区別のつかないような内容となってしまって、誠に恐縮です。次回には、ナシかケヤキについて記述してみたいと思っております。
蛇足:まるで関係のないおまけ                          
今回は、タイピングの時間が長かったので、次の3つのアルバムを繰り返し聴きながら記述いたしました。
 1 Oscar Peterson/”Oscar Peterson Dejital at Montreux” 1980 Pablo records
 2 Marian Andeson/"Negro Sprituals"1979 RCA Recods
 3  Mahelia Jackson/”Queen Of Spirituals
 H.21.04.08