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ウメ(梅)について  
 
 私が小学校に入学した時には、3学級平行で、「松組」・「竹組」・「梅組」に分かれていた。つまり、クラス名は、すべてが植物名だった。それも誰もが馴染みのある植物名ばかりであった。私は、その中で、「松組」に在籍することとなった。今は亡き私の母は「マツ」と言う名前であった。因みに、母の妹は「タケ子」、その下の妹が「梅子」だった。それだけに、母と同じ植物名のクラスに入れたことをとても嬉しく思ったものだった。それにしても、母や叔母達姉妹の名前も「松・竹・梅」であり、学校のクラス名も同様であることに不思議な感じを抱くと共に妙な親近感を覚えたりもしたものだった。しかし、学校では、校門の傍らにクロマツの古木が見られたが、竹や梅は見られなかった。しかし、自宅に戻れば、どの家にも竹も梅も必ずと言って良いほど庭に見られたから、別段違和感を覚えるようなこともなかった。やがて、進級して後に、今度の新入生は4クラスになるという情報が子ども達の間で話題になった。子ども達は、「梅組」の後には「何組」が続くのだろうと気になって仕方がなかった。やがて新学期になって、それが「桜組」であることを知ったのだった。サクラならば、校庭に数本の古木があったから、少しも違和感がなかった。中学校に入ると、「A組」~「D組」とアルファベット名に変わった。それまでの日本語のクラス名ではなく、外国の文字が使われていることに、自分たちが小学生とは違うステージへと進んだような誇らしさを感じたものだった。高校生になって、漢文等を学ぶようになって、初めて「松竹梅」というものが「歳寒三友」という中国での典型的な画題であること、そして何故この三種類の植物が選ばれたのかという意味も知るようになったのだった。しかし、我が国の古文をも学ぶ中で、「桜」と「梅」についても学ぶようになった。特に、万葉集では、ハギに次いで多く読まれた植物がウメであることを知った。そしてウメが中国からもたらされた植物であることも学んだ。やがて、それが、平安時代に入り国風文化が盛んになるにつれて、ウメはサクラに取って代わられる結果となったということも学んだ。そのような事柄を学んだ時点で、私は、小学校時代のクラス名で、我が国古来からの植物でもあり、我が国の国樹でもあるサクラがウメよりも後に続いたことにあらためて違和感を覚えたものだった。それに、サクラは、どこの学校でも校庭に普通に見られるに対し、ウメはあまり校庭では目にすることはなかったからだ。 
マツ:皇居にて↓
タケ:京都嵯峨野にて↓ ウメ:群馬県立つつじが岡公園にて↓サクラ:群馬県館林市・善長寺にて↓
   
  しかし、上にも述べたが、当時、どの家にも決まってウメとカキは庭に定番のように見られたのだった。特に、梅干しとは一年中接していたように思う。当時、梅干しは、どの家でも自家製であることは少しも不思議ではなかった。そのために、自宅の敷地内にウメの木は必要不可欠だったのだ。そして、お弁当にも、お握りにも必ず梅干しが入っていたものだった。小学生の頃、毎年5、6月頃になると朝礼時に、校長先生が、「青梅は、食べてはいけません。」と言っていたことを思い出される。しかし、校長先生からの教えが無くても、子ども達は、体験的に、青梅を食べると腹痛を起こすと言うことを知っていたから、青梅ばかりは手を出さなかったものだ。当時は終戦直後のことであり、食料に乏しい時代だったので、子ども達は口に入るものならば、何でも試してみたものだ。そして、仲間から仲間へと青梅は宜しくないというタブーが口(クチ)コミで伝わっていたのだった。  
ところで、わが家でも、母は生前毎年梅干しを作っていた。そして、梅干しに色をつけるために用いたシソの葉を乾燥させては、それを粉々にしてご飯に振りかけたり、お握りにまぶしたりしたものだった。所謂「ゆかり」というものである。それはそれとして、その母が、それまで自分の使命であるかのようにも自家製の梅干しを作っていたが、ある年から、すっかりそれを行わなくなってしまった。  
  ある年、お歳暮に梅干しを頂戴したのだった。母は、何だ梅干しかと言うような顔をして、こんなものもお歳暮商品になるのだねと違和感を感じたようにつぶやいた。だが、その夜、その梅干しを食卓に載せてみると、母は自分の作った梅干しとどのように味が異なるかと試してみたのだった。それは、見た目だけでも大きな相違点があった。何しろ、粒が大きいのだ。しかもふっくらと柔らかそうに膨らみを見せていた。口に運ぶと、肉厚で、見た目ばかりではなく柔らかい。しかも、それまでの梅干しと異なり、味も大きく異なっていたのだった。酸っぱさや塩辛さは感じられず、むしろほんのりと甘味すら感じられるのである。母にとっては食生活上での一大カルチャー・ショックだったようだ。母は、すっかりその梅干しの魅力に取り憑かれてしまったのだ。それまで、梅干し等というものは購入するものではないと信じて疑わなかった母が、以降、店頭で手にすると購入して帰るようになってしまったのだった。自家製の梅干しは、もっと小ぶりで、皮も厚く、果肉が薄かった。甕から取り出すと、果皮の表面が皺だらけになっていて、古いものになると表面に塩の結晶が見えたりしていた。随分見栄えが異なる。加えて、味も現代のそれはお上品である。それ以来、梅干しは立派な商品価値があると認識を改めたのだった。 
 ウメは、中国からの渡来植物であると言われているが、いつ頃我が国にもたらされたのだろうか。縄文時代の遺跡からは出土してないが、弥生時代や古墳時代の遺跡からはウメが出土しているという。そこで、稲作農耕文化とともに渡来したと多くの書は推測している。ふと疑問に思うのは、上述のように青梅の場合には上述のように青酸を含む関係で腹痛を引き起こすし、黄色く熟したとしても、アンズモモのように果物としての用途には向いていない。もし、弥生時代に中国から渡来したとすれば、食用としての価値が認められてしかるべきであろう。もし、仮に薬用価値が認められて渡来したのであれば、『古事記』や『日本書紀』にウメが登場してもおかしくないと思えるのだ。ウメの文献上の我が国での初出は『懐風藻』や『万葉集』と言うことになるからだ。
 本家本元の中国でのウメの初出は古く紀元前3千年前の詩集『詩経』であるという。ただ、当時の中国では、花を観賞するというよりも、果実を得る目的で栽培されていたということである。中国で観梅が流行するのは唐の時代に入ってからと言う。「冬の寒気にもめげることなく、百花に魁けて香り高い美花を開き、潔白貞節を表徴して君子の操あり」として所謂「歳寒三友」に列するとの位置づけが成されたのも唐時代に入ってからと言う。そうしたウメに対する思いは文学・絵画・工芸等の分野での題材と化したのであった。つまり、隣国でのウメに対する文化が生まれたのは唐時代以降と言うことなる。
 とすると、我が国に伝来した稲作農耕文化とともに我が国に渡来したとされるウメの場合、どのような経緯で我が国にもたらされたものかと訝しく思えるのだ。
 
 ウメと言えば、万葉集ではハギに次いで多く詠まれた花としても知られている。全部で119首詠まれている。それだけ当時の人々の心をとらえたものと推測できる。集中でサクラを詠んだ歌が42首であるから、ほぼ三倍程度となる。だが、先人が詳しく調べた所によれば、ウメを詠んだ歌も、32首は太宰府で詠まれたものであり、東国で詠まれたものは一首もないということであるから、広く遍くウメという植物が知れ渡っていたのではなさそうである。そもそも、薬用として我が国に渡来したと言うことであるから、恐らく、九州の太宰府辺に最初に上陸し、その後、徐々に北上したのであろう。しかも、薬用ということからすれば貴重な存在でもあったことだろうから、当時の高貴な人々の間でしか知られていなかったのであろう。
 現在京都御所、紫宸殿前の庭には「左近の桜、右近の橘」が植栽されているが、その初めは、「左近の梅」だったという。桓武天皇が平安遷都(794年)を行った際に、「左近の梅」として植えられたということであるから、大宮人達の間で如何ほど珍重されたものか推測に易い。因みに梅に代わって、「左近の桜」が登場するのは天徳4年(960年)ということであるから、166年も「左近の梅」は紫宸殿前に存在したことになる。
 万葉集が詠まれた頃、ウメが何故サクラよりも人々の人気を得ていたのかは、次のような事情によるのではないだろうか。
 先ず、第一に、サクラよりも先に開花するからではなかろうか。厳しい冬の寒さの中で、人々が待ち焦がれていた春の到来を告げてくれたのがウメであったのだろう。しかも、ウメの開花する時期は、春の到来とは申せ、まだ寒気が勝っている頃でもある。つまり、そうした寒気を断ち切るかのように健気にも花開くウメをとても愛おしく思ったのではなかろうか。
 

 第二に、中国から伝来の植物ということで、唐風文化に憧憬の念を抱いていた人々にとって、これまた歌に詠む題材としては格好の存在ではなかったのではなかろうか。また、身近にウメがあり、それを歌に詠めるという自分の立場を誇らしくも思ったのではなかろうか。それは、長塚節や北原白秋、そして若山牧水と言った歌人達がこぞってアカシアを題材にして歌を詠んだ心情にも相通ずるのではなかろうか。  

 
 第三に、サクラには無く、ウメに備わっている大きな特徴として、馥郁たる香りを有するという点も見逃せないのではないか。ウメの場合、その芳香から、真夜中でも開花を知ることが出来るほどである。つまり目に見えなくても開花を知ることができるのだ。たとえば、それが塀や垣根で目隠しをされた屋敷内にあったとしても、通りを歩いている人にはウメが開花していることを知ることができたのではなかろうか。  
 ウメは、上述の「左近の梅」から「左近の桜」に取って代わられたように、平安朝後期の頃になると、やがて芽生えた和風文化の中で、さくらに人々の目を奪われるようになってしまったのだった。しかし、人々の鑑賞の対象としてではなく、実用的価値は、徐々に浸透して行ったようだ。鎌倉時代には、武士の食膳に梅干しが登場しているという。室町時代には、梅干しが贈答品として用いられてもいるという。食膳に肴として梅干しを添えたり、贈答品として用いたりとは、限られた階級の人々の間でのことと推測できる。しかし、江戸時代に入ると、一般の人々の間にも梅干しの効用が広まっている。江戸時代に著された『農業全書』を初めとしてたくさんの農業関連の書に多数著述されているという。ということは、梅の実の需要が大いにあったこと、そして当然流通もあったことが推測される。そして江戸時代の農民にとっては貴重な副収入となったのではなかろうか。我が国に渡来した当初の頃は梅の実の未熟なものを燻製にした烏梅を薬用として用いたことはよく知られている。しかし、利用面は、それ以上には発展していなかったようである。だが、江戸時代の頃には、一般的には梅干しが主流となっている。そればかりではなく、梅漬け、梅酢、梅酒、梅菓子等が庶民生活にも普及しているという。もちろん、烏梅も普及を見ている。また、染料としても樹皮や梅酢が用いられてもいる。また、花も切り花として用いられるようになっている。つまり、実を得るばかりでなく切り花にも用いられるほどにウメはたくさん栽培されていたことが推測されるのだ。まさに梅は「花も実もある」植物と言える存在だったと言えよう。 
 江戸時代という太平の世には、御案内のように園芸文化も大いに盛んとなっている。その中で、梅の盆栽も急激に流行している。つまり、実用的な面ばかりでなく、鑑賞対象として再び我が国で注目されることとなったのである。そうした園芸文化の中で、ウメの品種改良も大いに進み、江戸時時代には多くの品種が登場している。現代でも、ウメの盆栽は人気が落ちることはない。ウメの盆栽の場合、当然花物盆栽の範疇に入るのだが、幹肌にも味わいがある。特に古木感を醸し出しているのは、幹そのものである。また、昔から「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」と言われるように。剪定に十分耐える性質を有しているので、樹形を整えやすい点も盆栽愛好家の人気を失うことがない要因でもあろう。  
 ウメは御案内のように中国の国花である。ウメと決まる前には、ボタンとウメのどちらがよいかと議論があったという。結局、ウメの持つ芳香性に軍配が挙がったということである。中国では、花色や花姿よりも、その花に香りがあるか否かで価値が決まってくるのだった。たとえば、東洋蘭と言われる一連のランの場合、花色は葉と同じ緑色であっても、したがって少しも目立たない花であっても、その芳香が求められて価値ある存在と化している。
 ところで、我が国でも、昭和初期にウメとサクラのいずれを国花とするかと言う議論があったという。結局は、ウメは渡来植物であり、サクラは我が国に自生が見られることから、サクラに軍配が挙がっている。
 
 ウメは、中国が原産地であると言われているが、現在では、隣国でも自生地を確認できないという。また、かつてのように観梅をするという行為も行われなくなってしまっているという。
 ところで、ウメの学名はPrunus mumeである。命名にかかわったシーボルトやツッカリーニは、ウメが中国からの渡来植物であることを知らなかったのだろうか。日本語名をそのまま学名に用いている。また、英語でも、ウメはJapanese apricotである。こちらも日本産であるかのような誤解を招く命名となっている。学名や英名を見て、外国の人はウメを日本の特産植物と思うのかも知れない。
 
 蛇足:まるで関係のないおまけ                          
 すっかり秋も深まった。雲一つ無い青空だ。面倒でもレコードを聴いた。ネヴィル・マリナー指揮するアカデミー室内管弦楽団の演奏で、モーツアルトのピアノ協奏曲K.459とK.488を聴いた。ピアノは旧ユーゴスラビア出身のアルフレッド・ブレンデルだ。それにしても、昔は、バッハばかり聴いていてモーツアルトなど自分から選んで聴こうとは思わなかったものだ。徒にやたらと装飾音符の多いモーツアルトの作品は軽薄に聞こえたのだった。だが、なれてみると、モーツアルトの作品はどれも軽快であるし、なによりも他の作業をしながら流すには少しも邪魔にならないのだ。今回のレコードは、1971年の録音である。
 
 H.21.10.21