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「リンゴ」は、果たして「林檎」なのだろうか?
 以前、この<植物回想録>の「カキについて」の項で、子どもの頃にはよくカキを食べたと記述した。あの頃は、フルーツナイフ等という気取った存在は一般家庭では見られなかった。あるとすれば、日常的にお料理に使う包丁もしくは出刃包丁や柳刃包丁といったものでしか無かった。しかし、あの頃は、包丁を使って果皮を剥いて食べるというようなお上品な食べ方はしなかった。何しろ、柿の木の枝の上に登って、そこで食べられるだけ食べるのだから、果皮ごと丸かじりと言うことになる。<植物回想録>では、他に「モモについて」や「ナシについて」も記述したが、モモナシは果皮をつけたまま丸かじりをすることはなかった。正確には、自宅の敷地内にモモの木が数本あったので、果肉の堅い品種の場合には、カキ同様に丸かじりをしたものだった。モモの場合、果皮の表面に白色の産毛のような柔毛が生えており、それが皮膚につくと、その部分に痒みをもたらすので、一旦、井戸端で水洗いをして果皮表面の柔毛を落としてから丸かじりをしたのだった。しかし、例えば、水蜜桃のように甘くて果肉が柔らかい品種の場合、果皮も一緒に食べてしまうと、口中で果皮が邪魔に感じるのだった。やはり、丸かじりをするためには、果肉がある程度の堅さが無いと宜しくないと子どもの頃に学び取ったものだった。では、ナシの場合には、ほど良い堅さがあるではないかということになる。だが、ナシも丸かじりをした経験はあるにはあるが、果皮の味が良くない。苦味というか渋味というか、とにかく厭な味がして、折角の果肉の美味しさを打ち消してしまうのだ。これも経験的に子どもの頃に学び取ったものだった。その点では、カキは、丸かじりをしても、果皮が邪魔にはならないし、本来的なカキの味のような気がしたものだった。ただし,カキの果皮は幾分堅さがあると言えば言える。
 ところで、本項では、リンゴについて記述する予定なのだ。上述の果物の丸かじりという点では、リンゴこそは最適な存在だと言えよう。まだ、若かった頃には、リンゴを丸のままズボンの太腿部分でよく擦って、表面に光沢が出て来ると、そのまま口に運んだものだった。リンゴの果皮は、口中に違和感を持ち込むことは無かった。我が家の妻は言う。
 「ナシの皮は厚く剥け、リンゴは薄く剥け」
と。そういえば、ある程度の年齢になった頃、リンゴの皮を薄く剥きながら、誰が一番長く剥くことが出来るかといったことを競って遊んだこともあった。
 最近は、あまりリンゴを丸かじりしている光景を目にすることが無くなってしまった。自分自身でも昔のように丸かじりをするようなことはしなくなってしまった。恐らくそのひとつの原因は農薬に対する懸念がそうさせるものと推測される。だが、もう一つには、個人的に、リンゴの大きさが大きくなったことが要因ではなかろうかと推測している。さらに、品種も大分増えて、果皮を剥いた方が果肉の味が爽やかになってきたからなのではなろうかと思う。
 それはそうとして、個人的に回想を巡らせてみたが、果たして、何歳の頃に初めてリンゴを食べたかの記憶が定かではない。子どもの頃に体調を崩したりしたときに、母が、リンゴを摺り下ろしてくれたものをスプーンで掬って食べた記憶がある。しかし、終戦直前にこの地に住み着いた次第だが、当時は、リンゴの花も、実も、肝心のリンゴの木すらも目にすることはなかった。敗戦後の経済的に困窮していた時代であり、物流も今のようには盛んでは無かった。したがって、八百屋さんの店頭に並ぶリンゴはある意味で高級な果物だったのだ。やがて、大人になる過程で、リンゴとは、西洋から導入された果物であり、我が国では比較的寒冷な地で栽培されるというような知識が朧気ながら理解できるようになったのだった。
 リンゴという果物を初めて目にした記憶は定かでは無い。また、日常生活の中で、リンゴそのものばかりではなく、リンゴの木を目にすることはなかった。つまり、私の生活範囲内にはリンゴの木は存在しなかったのだ。したがって、その開花時の様子も、結実時の様子にしても、ただひたすら想像の世界の中に存在したということになる。ただ、「リンゴ」という果物の名前を耳にしたのがいつのことなのかは、はっきりと記憶している。それは、昭和20年の秋のことである。ラジオから流れて来る「リンゴの唄」(サトウハチロウ作詞、万城目正作曲、歌は並木路子)からだった。大人達が、口ずさみ、ラジオからは流れて来る、とにかく終戦直後に大ヒットしたこの歌謡曲からが最初なのだ。その後、美空ひばりの歌う「りんご追分」(作詞:小沢不二夫/作曲:米山正夫)が大ヒットした。昭和27年(1952)のことだった。この中で「白い花びらを散らす」という台詞があり、リンゴの花というのは白いのだと言うことを知ったのだった。それから3年後の昭和30年(1955)に、マンボの王様とまで呼ばれたペレス・プラド楽団が演奏する’Cerezo Rosa(=It's chery pink and apple blossom white)'なる曲が、これまた大ヒットした。このタイトルからもリンゴの花は白いということを再認識したものだった。だが、それれぞれの音楽を耳にしても、哀しいことにリンゴの花びらは脳裏に浮かんでは来なかった。仕方が無いので、勝手に、ウメやサクラの白い花をイメージしたものだった。実際に、本物のリンゴの花を目にしたときに、自分が脳裏に描いていたイメージとさほどかけ離れていなかったので、安心したものだった。
 リンゴというものが外国から渡来した果物である事は、成長の過程で自ずと知れてきた。例えば、旧約聖書の中でアダムとイヴが初めて食した果物がリンゴであったり、ウイリヤム・テルの矢の標的がリンゴであったり、ニュートンの万有引力発見のきっかけがリンゴの落下であったりと、西洋の故事逸話や物語には枚挙に遑のないほどリンゴが登場したからだ。
 因みに、西洋文化史の中でのリンゴはどのような存在であったかを知りたい方には、我が家の書斎からは、次の書をお勧めしたい。
1 西洋社会全般
 ・北嶋廣敏著 『林檎学大全Ⅰ 林檎の社会学』(アディン書房 1981年)
 ・北嶋廣敏著 『林檎学大全Ⅱ 林檎の現象学』(アディン書房 1982年)
 ・北嶋廣敏著 『林檎学大全Ⅲ 林檎の神話学』(アディン書房 1983年)
2 英文学に関心のある方には
 ・加藤憲市著 『英米文学植物民俗誌』(冨山房 1976年)
 ・成田成壽編 『英語歳時記(全6巻』(研究社 1968年)
3 仏文学に関心のある方には
 ・ジャン=リュック・エニグ著 『[事典]果物と野菜の文化誌:文学とエロティシズム』
  (大修館書店 1999年) 
 以前、妻と二人でオーストラリアに出かけた事があった。目的地は、インド洋に面した、つまり、西オーストラリアのパースという都市だった。以前、パースにホームスティをしたこともあり、知人がたくさん居たからだ。知人達から、クリスマスから正月にかけてオーストラリアで過ごさないかと招かれてもいたからだった。ところが、出発を予定していた日には、成田からパースへの便が無かった。そこで、一度シドニーへ飛んで、そこでトランジットをしてパースに向かおうと決めたのだった。シドニーからパースへと向かうと、オーストラリア大陸を東西にわたって横断することにもなるし、空の上から、大陸を眺めることも出来ると考えたのだった。当日、便は、シドニー空港に午前0時少し前に到着した。パースへの便は午前6時だった。季節的にも現地は真夏でもあり、空港で過ごせば良いと計画していたが、どうも考えが甘かったようだ。空港内の店のシャッターが徐々に下ろされるの見ながら、ふと、
「しまった!」
と思った。当時、我が国では、国内便の東京空港は羽田であり、国際便の東京空港と言えば成田であった。とすると、シドニーでも同様の事情にあるのではないかと地図を開いてみた。案の定、国内便のシドニー空港と国際便のシドニー空港とは大分距離的に離れていた。慌ててタクシー乗り場に向かい、
 ’Domestic airport please!'
と叫んでみたが、どのタクシーからも拒否されてしまった。数台のタクシーに拒絶された時点で、一人のタクシードライヴァーが声をかけてきた。
 「国内便の空港は、この時間帯にはフライトが無いので、ロックアウトされていて中には入れないヨ。」
というのだった。
 私は、
 「とにかく、国内便の空港まで行って欲しい。
  現在午前1時頃だし、明朝の6時の便なので、5時にはチェック・インをしたいので、空港で夜明けを待つ  積もりだ。」
と述べたのだった。
 すると、彼は、
 「そこまで言うのならば、空港の前まで行って上げるけれど、私は、時間が来るまで近くのホテルで時間を過  ごすのが賢明だと思うヨ。」
と言って、私達の荷物をトランクに収め走り出した。
 実際に、国内便の空港の前に到着してみると、真っ暗だった。全ての照明が落とされていた。しかも暗闇の中に、鬱蒼と樹木が茂っていた。
 さすがにこれには恐れを成して、彼の言に従うことにした。
 彼は、親切なことに、紙袋の中からリンゴを一つ取り出して、
 「シドニーは、大都市だが、この時間帯では、店は閉まっているから、このリンゴでも食べなさい。」
と言って手渡してくれたのだった。そして、近くのホテルに車を止めて、事情を説明した上で、ホテル代の交渉までしてくれたのだった。
 ホテルでは、ほんの数時間だけの滞在だけであったので、二人で先刻手渡されたリンゴの皮を剥いて、
 「親切なドライヴァーに逢えて良かった。」
と語り合ったものだった。
 その時に食べたリンゴは、今も記憶しているが、昔、よく食べた「国光」という名のリンゴのような幾分酸味のある味で、大きさも日本で食べ慣れたリンゴとはかけ離れて随分小さかった。オーストラリアでリンゴを栽培しているとは思えないので、何処かの国から輸入されたもの思われるが、それにしても、日本の店頭では、あんなに小さなリンゴは並んでいる光景を目にしたことが無い。
 リンゴの話ではなく、オーストラリアでの失敗例を披露したような結果となってしまったが、オーストラリアに限らず、外国で目にしたリンゴはどれもあまり大きくなかった記憶がある。
 上とは、逆に、アイルランドから、知人がご夫妻で日本に訪ねて来たことがある。娘さんが日本で働いていたので、様子を見に来たのだった。(その娘さんは、やがて、日本人と結婚している。)ご主人はとても体格の良い御仁だった。奥様が言った。
 「主人は、日本の食事は物足りなくて、いつも2人前注文するのですよ。」
と。
 そのご主人が、
 「その通りでして、先日は、日本の伝統的な懐石料理というものをご馳走になりました。しかし、器ばかり立派で、整然とテーブルの上に並べられましたが、中味はほんの少ししか入っておらず、しかも、一度に出てこないで、少しずつ出て来るのには困りました。私には、口で味合うよりも、目で楽しむための料理のように思えました。
  だけど、一つだけ、大きさと言い、味と言い、びっくりしたものがありました。それは、日本のリンゴです。とにかく、その大きさに驚きました。私の国では、リンゴはあんなに大きくはありません。食べて見て、これまた味が良いので驚きました。」
と述べておりました。
 やはり、日本のリンゴは、大きいし、味も良い。これは外国に行って初めて分かった事である。
 ところで、上に「国光」というリンゴの品種名を記したが、果たして今もあるのだろうか?昔は、よく目にしたものだった。他にも「紅玉」とか「祝」など言う品種名も記憶している。リンゴと言えば、果皮が光沢を持ち、紅色をしているのが典型的である。しかし、最近はあまり目にしなくなってしまった「印度」という品種があった。色が赤くないリンゴだった。だが、とても甘味が強が果肉はとても硬かった。果皮の色はほぼ緑色であるが、部分的に赤味がさしていた記憶がある。だが、果たしてインドでリンゴが栽培されるのだろうかという疑問があり、一度調べたことがある。「印度」は、明治8年(1875)に青森県で教師をしていたアメリカ人のジョン・イング氏が故郷から持参したリンゴの改良品種であるという。彼の故郷はインディアナ州だったという。そこで、「イング」或いは「インディアナ」の名に由来していると言うようなことが述べられてあった。更に、これまた、最近はあまり目にしなくなっている「ゴールデン・デリシャス」というリンゴがあった。これも「ゴールデン」という名にふさわしく黄色いリンゴだった。このリンゴは香りが良かったことと、果肉が「印度」と比べたら随分柔らかだったような記憶が残っている。この「ゴールデン・デリシャス」と上述の「印度」の交配によって出来たのが「王林」というリンゴだった。この「王林」が出現してから、「印度」リンゴがあまり見かけなくなってしまったのではないかと思われる。この「王林」は「印度」の色を受け継いだのか果皮の色は、緑色から黄緑色である。
 我が家では、毎年秋に沼田市にリンゴ狩りに出掛ける。一つには、奥日光の紅葉を見ることも目的の一つなのであるが、りんご園にも必ず立ち寄るが、いつも買って帰るのは「ふじ」である。この「ふじ」という品種は、「国光」と「デリシャス」との交雑によって得られた品種であるというが、秋から冬にかけてスーパーの店頭にならんでいるのはほとんど「ふじ」が多いように見受けられる。
 記憶を探ると、まだまだたくさんのリンゴの品種名が浮かんでくる。「つがる」、「陸奥」、「スター・キング」、「北斗」、「ジョナゴールド」、「北斗」等々と、中には「世界一」などと言うのも存在する。どれもアメリカからの導入種並びにそれとの交雑によって国内で得られた品種と言うことのようである。これらの我が国で作出された品種が、今では海外で生産されるようになっている。上述の「ふじ」の場合には、韓国のリンゴ生産量の80%を占めているという。また、赤道を越えたブラジルでのリンゴ生産量の40%を占めているという。(ブラジルでもリンゴを生産しているとなると、オーストラリアでも生産しているのだろうか?)
 ところで、個々の植物の頁の中で、リンゴの頁では、私は、リンゴの漢字表記部分に「林檎」と記述した。(現在は修正済みです。)そして、「リンゴ」とは漢名の「林檎」の音読みからであると語源の項で記述した。最近になって、ふとそのことに違和感を覚えてしまった。というのは、昔、中国語を学んでいた頃に、「リンゴ」は「苹(蘋)果(píngguŏ)」と学習したことを思い出してしまったからだ。そこで、「林檎」と「苹(蘋)果」とはどう違うのかを調べて見た。こうした時には、毎度お世話になっている加納喜光著『植物の漢字語源事典』(東京度出版)を開くことになる。また、今井敬潤著『くだもの・やさいの文化誌』(文理閣)も開いて見た。
 「林檎」とは、先ず何よりMalus asiatica種に対する漢字表記なのである。このMalus asiatica種は中国原産のリンゴであり、我が国では西洋から導入したリンゴが栽培される前には、つまり、明治期以前には、リンゴと言えば、このMalus asiatica種であった。このリンゴは、既に平安時代には我が国に渡来していたようで、源順の編纂した『倭名類聚鈔』では、「リウコウ(利宇古宇)」と訓ませている。加納氏の説明によれば、「林檎」の呉音が「リムゴム」であったものが、「リウコウ」、「リウゴウ」等と転訛して「リンゴ」となったのではないかという。このリンゴ(林檎)は、上掲の今井敬潤氏の書によれば、江戸時代まで栽培に至ることはなかったという。また、どのようなものであったかというと、
 「
形状は扁球形、径3~4㎝程度、7~8月に熟し、多甘微酸であり、セイヨウリンゴより水分が多く、貯蔵しにくいものであったようである。」(今井敬潤著『くだもの-やさいの文化誌』(文理閣 P.37)
とある。このリンゴ(林檎)は、アメリカからセイヨウリンゴが導入されると区別するために「和林檎」とか「地林檎」と呼ばれるようになったという。
 現在、私達が食べているリンゴは正確には「セイヨウリンゴ(中国名:苹(蘋)果 英名:apple)」であり、リンゴ(林檎)ではないということになる。つまり、私はリンゴ(林檎)という果物は食べたことがないということになるし、この駄文をお読みの方のほとんどがリンゴ(林檎)を食べた経験はないのではなかろうか。 
 この中国から渡来したリンゴの手がかりとして講談社版『日本大歳時記』の「林檎(りんご)」の項に山本健吉氏は次のように述べていた。
 林檎は江戸時代も元禄以降になって季語とされたが、当時の俳書はすべて夏六月としている。(中略)林檎を夏とは明治になっても踏襲されている。林檎についてまだ知るところが少なかったのであろう。今は早く出荷される「青林檎」を夏とし、「林檎」は普通秋に分類されている。(上掲書1084~85)
 そこで、古典ではどうかとついでに調べて見た。以下の通りである。
 先ず、文学関連では『近松浄瑠璃集』のみであった。
 本草書関連では以下の通り。
 『本草和名』、『倭名類聚鈔』、『伊呂波字類抄』、『下学集』、『多識編』、『本朝食鑑』、『大和本草』、『和漢三歳図会』、『東雅』、『薬品手引草』、『物品識名』、『本草綱目啓蒙』
 何故に原産国である隣国の中国では「林檎」という名前がつけられたのだろうか。この疑問に対しては、上掲の加納喜光著『植物の漢字語源事典』(東京度出版 P.138)が明快な答えを用意してくれていた。同書には次のように記述されていた。
 
語源については広志(晋・郭義恭)に「もとは来禽といい、甘く熟して禽(とり)を来すことから名づけられた。
 つまり、鳥を来させるほど甘く熟する果実の生る木ということになる。初めは「林禽」と表記されたが、やがて、「禽」に木偏がつけられて現在の「林檎」となったと言う。

 同書では、この他に、中国では、リンゴに対する次のような別名を紹介してくれている。
 「來禽」、「林禽」、「花紅」、「朱柰」、「五色柰」、「沙果」、「蜜果」、「文林果」、「文林郎果」、「聯珠果実」、「冷金丹」、「臨檎花」
 この中で、「文林郎果」については、次のような故事がある。
 唐の高宗の時に、紀王の李謹が五色の林檎を献上したところ、皇帝は大いに喜んで李謹に「文林郎」の位を賜ったという。それ以降、林檎を「文林郎果」と呼ぶようになったという。
   またまた話を戻すと、中国から平安時代に「林檎」が渡来した。
 我が国では「りうこう」と呼ばれたがやがて「りんご」と呼ばれるようになった。
 しかし、アメリカからセイヨウリンゴが渡来すると、「林檎」は「和林檎」あるいは「地林檎」と呼ばれるようになった。
 その後、中国から渡来した「林檎(りんご)」は栽培されなくなった。
 その結果、「セイヨウリンゴ」の「セイヨウ」が消えて「リンゴ」だけが残ったということになる。
 中学校に入学して直ぐに、英語の時間に「リンゴ」は「apple」と学習したが、本来は、appleとは「林檎(林檎)」ではなくて、「苹(蘋)果(へいか)」ということになる。だが、英語の先生に罪はない。英和辞典にもappleを「林檎(りんご)」と日本語訳をしているからである。

 では、欧米ではリンゴをどのような名前を持っているのか。
 大きく3つのグループに分かれている。
 1 英語:apple ドイツ語:Apfel 
 2 フランス語:Pomme
 3 イタリア語:mela スペイン語:manzana ポルトガル語:macā
 1の英語・ドイツ語のグループは御案内のように共通のゲルマン祖語を有している。ゲルマン祖語では、リンゴはaplu-であったという。やがて上掲の単語となり現在に至っている。
 2のフランス語の場合、ラテン語で果物全般を意味するpomumを語源としている。
 3のグループはギリシャ語のmālon(果物)を語源とし、ラテン語に入りmālomとなり、それぞれ上掲の単語として現在に至り定着をしている。
 本来果物全般を意味する単語がリンゴに特定されたということは、リンゴが果物の代表的存在であったことを物語っているようである。
 さて、今日、私達が何の疑問も持たずに「リンゴ」と称しているセイヨウリンゴ(学名:Malus pumila)が我が国に渡来したのは幕末の文久年間(1861~64年)であるという。武蔵国豊島郡巣鴨の越前・松平春嶽の別邸に植えられたのだという。その後、明治4年(1871)に政府がアメリから74品種を導入している。一説には、もともとリンゴ栽培のきっかけとは明治維新で職を失った士族に自立の道を与える意味からだったという。加えてキリスト教が普及につとめた遺産でもあると言う。我が国で初めてリンゴが採取されたのは明治10年(1877)だったという。第二次大戦後には、国内品種が各種開発され、今日に至っている。現在、リンゴの生産高は世界第9位ということである。
 このセイヨウリンゴ、我が国の詩歌の中では島崎藤村の詩「初恋」が初出ではなかろうかと思うが如何だろうか。
 なお、蛇足になるが、事典の「ヒメリンゴ」の頁で、学名をMalus ×cerasiferaと記載してあるが、この園芸用のヒメリンゴが作出される前に、本来の「ヒメリンゴ」が存在し、こちらも名前が移行してしまったことになる。本来のヒメリンゴの学名はMalus prunifoliaであり、「狗林檎(イヌリンゴ)」、「丸葉海棠(マルバカイドウ)」の別名を有した。
 蛇足:まるで関係のないおまけ                          
 上掲のリンゴは、私には大物過ぎて調べるのに時間が掛かりそうだったので、外付けのハードディスクに入れてある音楽をランダム再生してみた。正直申して、ランダム再生は、調べ事をするには、手間が省けて助かるが、どうも脈絡のないシーケンスで再生されるので、ぎょっとさせられることもある。たとえば、パブロ・カザルスのチェロの後に、レイ・チャールズが出てきたりしたりするからである。やはり、その日の気分で、自分なりに選択すべきだったと反省したものだった。PCまかせでは大いに困惑するということを学んだ次第である。
 H.24.05.25