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マダケ(真竹)について
 随分以前に、知人から、GKZ植物事典には「マダケ(真竹)」の頁がないとのご指摘を受けたことがある。そのご指摘を受けた時点では、マダケ等いつでも写真が撮れるであろうから、撮影後にマダケの頁を新設すればよいと考えて過ごしていた。ご指摘をいただいた知人からは、一年後に、まだマダケの頁がないとのご指摘をいただいてしまった。そこで、今度こそマダケの写真を撮ろうと意気込んで市内をあちこち車で走り回っては見たものの、なかなかマダケは目に入らなかった。知人から二度目のご指摘を受けてから、ほぼ半年を経て、やっとマダケを目にすることが出来た。その間、市内ばかりではなく、国内のあちこちに出かけていたが、その都度意識的にマダケを探し続けたのだったが、なかなかマダケは私の目の前に現れてはくれなかった。いつも目にするのはモウソウチクばかりだった。
 実は、私にとって、マダケはとても馴染みの深い植物の一種でもあった。何度も同じことを記述して恐縮だが、我が家の宅地の広さは昔流に表現すれば、およそ300坪である。もっと昔的な表現をすれば一反歩ということになる。昔も今もその広さで、増えもしなければ減りもしていない。我が家は農家ではなかったので、私が子どもの頃には、ご近所と比べて随分狭い敷地内に住んでいるように思えて、幾分引け目を感じたものだった。このコーナーの別項「ケヤキについて」でも記述したが、私が終戦直前の頃に、東京からこの地に転居した頃には、我が家の並びはどの家も北側の街道沿いには竹林があった。それもどの家もマダケの竹林だった。我が家も例に漏れなく敷地の50坪程度はマダケが生い茂っていたものだった。したがって、私にとっては、マダケという植物は少しも珍しくもない植物だったのだ。むしろ、ご近所のお宅にモウソウチクを目にしたりすると、随分立派なタケだなと子どもながらに思ったものだった。また、時折メダケも目にしたが、子どもの私には、わが家のタケよりも細くて、まん丸で、素性の良いタケだなと思えたものだった。事実、子ども達の遊びの中では、マダケやモウソウチクよりもメダケが用いられることが多かったのだ。
 我が家のマダケで先ず最初に思い出されるのは、垣根が竹垣だったことだ。タケを切る度に、枝を垣根に差し込んで隙間を埋めていた。また、庭や露地を掃くための箒も竹箒であった。もちろん自家製であったことはいうまでもない。昭和20年当時は、私の住む地域は、どの家も掘り抜き井戸であり、まだ水を汲み上げるための手動のポンプすらも設置されていなかった。マダケの先に桶やバケツを結びつけて、深く掘り下げた井戸の中にそれを下ろして水を汲み上げるのだった。今にして思えば、あの水汲みの作業に用いたタケがマダケであったことは十分に頷けるのである。大人の手で握りしめるのには丁度良い太さだったからだ。また、重さもさほどのことはなかったのだ。あれが、モウソウチクであったとしたら、太すぎて、とても用に供しなかったのではなかろうかと思える。また、モウソウチクでは重すぎて作業に困難を来したのではなかろうかと思えるのだ。つまり、マダケは太さと言い、重さと言い、どちらの面でも人間生活に密着できる要素を備えていたように思うのだ。だからこそ、当時、どの家にもマダケの竹林があったのではなかろうかとの推測も易い。以前ケヤキについて触れた時にも記したが、敷地内にカシノキが植えられていたのも、各種の用途があったからこそと推測できるのだ。マダケも昔の生活の中では必要不可欠の用材であったと言えよう。逆に言えば、冒頭に述べたように、現代ではマダケをあまり見かけなくなってしまった要因は、何よりも現代生活の中では、人々がマダケを必要としなくなってしまったからではなかろうか?
 マダケの用途について、上に二、三触れたが、思い起こすままに以下に述べて見たい。
 先ず、当時の生活の中で、必要不可欠な日用品に笊と籠をあげることが出来よう。笊も籠も必ずどの家にも欠かさず存在したものだった。そして、笊や籠等は、自宅の竹林から竹材を切り出して、自分たちで編んだものだった。現代の日常生活の中では、笊も籠もほとんどプラスティック製というのが当たり前のようになってしまった。岩波書店の『広辞苑:第五版』で「ざる(笊)」を引いてみると、<竹の薄片やプラスチックなどで編んで円く窪んだ形に造った器>と解説されていた。ことほど左様に今ではすっかりプラスティックに取って代わられてしまったと言えよう。そもそも笊とは、容器であることは勿論であるが、何よりもその大きな用途は水切りということになろう。竹製の笊とプラスティック製の笊とを比較すると、大きな違いがある。先ず、笊は、概して食品を入れる容器であるだけに清潔でなければならない。そのためには、カビや細菌が付着しやすいことは不可とされなければならない。その点では、水切りが良いことが第一条件である。この点では、使って見ればどちらに軍配が挙がるかは明白である。近年、アルミ製やステンレス製の笊も登場し実用に供されている。しかし、重さ、可塑性、水切りの良さ等々の面で竹製のそれには劣ると言えよう。プラスティック製品の良さは、各種の彩りを加えることができるということであろう。加えて、廉価であるという点でも魅力を添えていると言える。金属製の場合には熱に強いという点がその魅力なのかも知れない。金属製の最大の欠点は可塑性がないから、形状が歪みやすいということである。
 現代の日常生活の中で、各ご家庭に、籠と呼ばれる容器はどれほど存在するであろうか。精々思いつくのは「屑籠」といった言葉と実体程度でしかない。その屑籠もほとんどがプラスティック製品が主流と言えよう。昔は、大小様々な籠が存在し、用途に応じて使い分けられていたのだった。笊にしても、籠にしても、竹製であることが当たり前であったことの大きな理由は、先ず第一にフレキシブル(つまり、可塑性があるということ)であるということであったのではなかろうか。そして、第二には、非常に軽量である。そして丈夫で長持ちする等の特性を有するのが竹製品の特徴ではなかろうか。もっと言えば、原材料が身近にあり、自分でも加工が可能であるということも大きな特徴であるともいえよう。丈夫で長持ちし、しかも、変形に耐えうるという竹特有の性質を昔の人々は巧みに生活に取り入れていたといえる。ただ、今日では、竹製品の最大の欠点は高価であるということであろう。
 竹籠と言えば、思い出すことがある。中学生の頃に、ハクサイを出荷する時に用いる籠編みをした想い出である。当時、ハクサイは、竹製の籠に詰められて出荷されていた。その籠を編むアルバイトをしないかと友人に誘われて、市内の籠屋さんに、籠の編み方を学びに出かけた。籠屋さんには、様々な籠が店頭に並べてあり、目を見張ったものだった。とにかくあまりにも複雑な作品ばかりで、果たして自分でも出来るのだろうかと考えたからだった。しかし、ハクサイ出荷用の籠は、目も荒く、さほど複雑な作業ではなかった。店の奥には、別棟で作業場があり、そこでは、数名の中学生が楽しそうに籠編みを行っていたのだった。(因みに、当時、中学生のアルバイト禁止というような規制がなかったことを申し添えておく。)作業場には、竹材を細かく割ったり、薄く剥いだりするための機械が数台置かれてあった。
 籠編みは、基本的には三つの作業行程で行われることになる。その一は、籠の底に相当する部分を作る。次に、籠の側面を作成する作業。そして、最後に、口縁部分をまとめる作業ということになる。私達は、第一の作業行程を「下挟み」、第二の作業行程を「おっ立て」、第三の作業行程を「縁取り」と呼んでいた。私達が編んだ籠は専門家から見れば、非常に単純で、初歩的なな籠であった。しかし、ほとんどの籠はこの三つの作業から出来ていることが当時の私には理解できた。その後、社会人になってから、日展を何度も見に出かけた。その都度、工芸の展示室も見学したが、そこには様々な竹の工芸品が出品されていた。当然籠も出品されていた。それも私が中学生の頃に編んだハクサイ出荷用の籠とはおよそほど遠い編み方も形状も複雑なものばかりであった。しかし、上述の基本の作業はやはり欠かせないものと理解できた。私が編んだ竹籠の形状は、長楕円状であった。分かり易い表現をすれば、小中学校の体育の時間に使用する跳び箱の一番上の部分を逆さにしたような形状であった。つまり、底の部分よりも、上の口の部分の方が大きいことになる。そうすることにより何個も重ねることが出来るからだった。
 ところで、その籠屋さんのアルバイトをする中で、籠の編み方を覚えることが出来ただけでなく、竹の扱い方を学ぶことが出来たのだった。籠屋さんのご主人から「木元竹裏」という言葉を教えていただいた。それは、木材を割る時は根元に、竹材を割る時には、逆に竹の細い方に鉈(なた)を入れなさいと言う意味だった。そうすると、割った時にうまく二等分できるということを教えた言葉だった。確かに、その逆に鉈を入れると均等に割ることが出来ないのだった。その他、竹切り鋸の扱い方や、竹材を薄く剥ぐ方法なども学ぶことが出来た。冒頭に述べたように、我が家には竹林があったものだから、竹には不足はないということで、見様見真似で自分なりの籠を編むことが出来るようになったものだった。上述の笊について触れた部分で、竹製笊の最大の欠点は高価であることだと述べたが、近年、外国製の竹製笊がたくさん出回っており、価格もとても廉価である。ただ、私の見る限り、最後の仕上げに当たる口縁部のまとめ方が幾分粗雑な感じを受ける。したがって、口縁部が直ぐに外れてしまう結果となる。これを防ぐには、購入したら、針金で口縁部から底の部分を経て反対側の口縁部へと補強をすると良いのではないかと思われる。それも1本だけではなく、少なくとも2~3本を均等な角度で補強をすれば良いのではなかろうか。
 上には、笊や籠について大分スペースを割いてしまったので、話をマダケに戻したいと思う。マダケの筍の皮についての話題を二、三述べて見たい。子どもの頃、筍が育ち始めた頃になると、何処からか自転車に乗った小父さんが訪ねて来て、その皮を売って下さいと言うのだった。それも、どうやらマダケの生えている家ばかりを回っていたようだった。子どもの頃には、どうせならモウソウチクの方が大きいのに、なぜモウソウチクの皮は手に入れようとしないのだろうと思ったものだった。両親にその旨を伝えて、果たして何に使うのだろうと聞いてみたが、両親も分からないということだった。当時、おにぎり等を持ち運ぶ時には筍の皮が用いられてもいた。また、筍の皮で編んだ草履も使用されたりもしていた。しかし、そのどちらも大きさの点で言えばモウソウチクの方が適していると言えた。だが、その小父さんはマダケのある家ばかりを回っていたのだから、別の用途に用いたものと推測された。大人になってから分かったことだが、どうやら版画を刷る時に用いられたばれん(馬楝・馬連)に用いたようである。本来は、マダケの中でもカシロダケと呼ばれる竹の皮が最上品とされたということである。恐らく、そのカシロダケは福岡県星野村という所にだけしか産しなかったという。そして、分根を拒み、門外不出ということだったために、その皮は非常に高価なものだったという。そこで、それに代わって用いたのがマダケの皮だったようだ。そう言えば、何度か馬連を手にしたことがあるが、中に丸く切った厚紙が入ったものがマダケの皮で包まれていたのを記憶しているが、この駄文をお読みの方々もご記憶があるのではなかろうか。
 もう一つ、子どもの頃に、筍の皮で遊んだ記憶がある。筍の皮の内側に梅干しを入れてなめるのだ。そして誰が一番早く筍の皮を赤くすることが出来るかと競ったのだ。当時、戦後間もない頃で、日本中が貧しく、子どものおやつはそのような他愛のないものだった。当時は、どの家でも梅干しは自家製だった。たっぷりと塩を使って、色合いを良くするために赤ジソの葉を用いて梅干しを作ったものだった。その赤ジソの葉の色が筍の皮に転移する或いは浸透する早さを競うという遊びだった。こちらの遊びに関しては、ご存じの方は少ないのではないだろうか。当時は、梅干しは貴重な食品だったものだから、親に、「梅干しは勿体ないから、味噌にしなさい。」とよく言われたものだった。しかし、味噌では筍の皮は赤くならないのを子ども達は知っていたから、誰もが、親のその言葉を嫌ったものだった。遊びに参加できなくなるからだった。

 この他、竹馬づくりもマダケであった。手で握るのに丁度良かったからだ。モウソウチクでは、太くて、重くて、とても子どもには向いていなかった。また、川や沼で魚を捕るための罠を作ったものだった。私達は、それをウケ(どのような漢字表記をするか分からないが、恐らく「受け」ではないだろうか)とド(「筌」)と呼んでいた。また、子どもの頃の工作材料には決まって竹籤(たけひご)が用いられたものだったが、我が家の孫達の遊びの中には竹籤など登場していないようだ。この駄文をお読みの方々の中には、子どもの頃に竹籤に紙を貼った模型飛行機を作ったご記憶をお持ちの方もたくさんおられるのではなかろうか。
 上には、子どもの遊びの中でのマダケとの関連を拾い出したが、昔の家屋には、竹は必要不可欠の素材だった。先ず、壁である。昔は土壁だった。始めに、竹を縦横に組んで網目模様に細かく張った下地の上に土を水で溶いて、粘性を出して、鏝(こて)で塗って行くのだった。これを粗壁と言った。粗末な家屋の場合には、粗壁がむき出しだった。少し気取った家屋の場合には、その上に上擦りと言われた化粧砂を塗利上げて見た目を美しくしたり、粗壁が見えないように板を張ったりしたものだった。つまり、昔の家屋の場合に、竹がなければ壁が出来なかったことになる。
 続いて、屋根である。当時は茅葺き屋根が主流だったが、茅を押さえるにもやはり竹が用いられた。恐らく弾性を持った竹特有のしなやかさが最適だったのだろう。この場合にも、モウソウチクも利用されたが、マダケが多く利用されていた。恐らく作業がしやすかったからではないだろうか。
 また、生活用品にも竹はたくさん用いられた。それらを列挙すると、一冊の書ができあがってしまうのではなかろうか。それほど密着した用材だっただけにどの家にも竹林があったものと推測されるのだ。
 子どもの頃に、地震が起きたら竹林に逃げ込めば安心と教えられて育ったものだ。竹の地下茎が縦横に張り巡らされているからというものだったが、地滑りの起きるような斜面の場合には、それも安心できないのではなかったろうか。
 ところで、現在の地で、私は、祖父の建てた家屋、父の建てた家屋、私が建てた家屋と、それぞれ移り住んだ。祖父の家を取り壊し、新たな家を建てるにあたり、父は竹林だった場所に家を新築すると家族に言った。私は、あの竹林を除去するのはさぞかし大変だろうなと思案したものだった。だが、事は簡単に処理されてしまった。建築業者の方が、ブルドーザという文明の利器を持ち込み、それこそほんの1、2時間程度の間に全部処理してしまった。竹の場合、確かに縦横に根茎が張り巡らされてはいるものの、根の深さはあまりないので表面の土をほんの数十㎝程度削ってしまえば、竹は根こそぎ倒されてしまったのだった。しかし、あの作業を人力で処理するとなると随分労力を要しただろうなと思える。いずれにしても、半日もしないで竹林はあっという間に消えてしまったことになる。
 ところで、父が何故竹林のあった場所に家屋を新築したのかを考えた時に、やはり、竹林を処分したかったからではないかと今にして推測されるのだ。祖父の建てた家屋は茅葺き屋根だった。父の建てた家は瓦葺きの家屋であった。この屋根の構造と竹林とが大きく関わっていたのだ。茅葺き屋根の家屋には雨樋がなかった。ところが、瓦葺きの家屋には雨樋が付く。その雨樋に竹の葉が入ると困るのだ。たとえば、ケヤキの葉等の落葉樹の場合、濡れると時間の経過と共に腐植して、やがて流れてくれるのだったが、竹の葉は容易に腐植しないのだ。そのために、樋の中で水の流れが悪くなってしまうのだ。放置しておくと、そこに土誇りや植物の種子等が蓄積され益々水が流れ難くなってしまう。やがて、雨樋の用をなさなくなってしまうのだ。そこで、父は竹林を撤去すべきと考えたものと推測できるのだ。因みに、その後、私が現在の家屋を新築する際にも、ご近所に未だ竹林があったので、私は、建築業者に相談したところ、ステンレス製のネットを雨樋の上にかぶせるとよいと教えて貰ったものだった。生活用品の中に竹製品が消えて行く中で、今度は、竹林そのものも迷惑な存在と化すこととなってしまったのではないだろうか。
 若い頃に、尺八に夢中になったことがある。現在も2本ばかり所持している。あの日本独特の尺八という楽器も、詳しく調べてないのだが、太さから言ってマダケの根元部分を用いたものではないかと推測される。尺八は古代雅楽に既に用いられているということであるから、随分昔から楽器として用いられたことになる。一説によると、聖徳太子も尺八を愛奏されたということである。とすれば、既にその頃、我が国にはマダケが存在したのだろうかと疑問に思えてくる。マダケは、一時期日本に自生があったという説もあったが、今では、中国からの渡来植物という扱いになっているからだ。
 古代と言えば、様々な我が国の古典の中に竹は登場している(詳細については、個別の植物の解説頁の中で、「タケ」の頁を設けてあるので、そちらを参照されたい。)最も最初に登場するのはご存じ『古事記』である。イザナギノミコトが黄泉の国のイザナミノミコトに追いかけられた時に投げたのが竹の櫛だったとある。植物文化史の第一人者である斉藤正二教授は、古代、中世の文献に登場する竹は、現代社会で一般的に竹と称している竹とはイメージが大きく異なっていたのではないかと言っている。教授は、マダケが我が国の景観に美趣を添えるようになったのは16世紀以降であったのではなかろうかと推測しておられる。それにしては、『万葉集』や『竹取物語』等々と、様々な古典文学にタケは登場している。そこで、教授は、8世紀当時に中国から輸入されたマダケは、真に貴重な植物として律令宮廷の中だけで栽植され、貴族階級の人々のものでしかなく、庶民にはほど遠い存在だったというような説を唱えておられる。(以上の斉藤教授の説は、『週刊朝日百科 世界の植物』(P.2141より引用。)斉藤教授の説に従えば、一般庶民がマダケを生活必需品として用いるようになったのは随分後の事のようである。
 上には、マダケの用材として利用ばかりを思い起こしてみたが、食材としてももちろん重要な存在であった。今ではタケノコと言えば、モウソウチクと言うのが定番のようになっているが、マダケも十分食べられる。上述のように我が家には、マダケしかなかったので、専らマダケのタケノコを食べて過ごしたものだった。モウソウチクの場合は、地表にタケノコが顔を出すか、その直前の頃に掘り出さないと硬くなってしまう。だが、マダケの場合には、地表30~40㎝程度のものを掘り出しても十分食用になったものだった。
 室井綽氏の著した『竹・笹の話:よみもの植物記』(北竜館発行)にとても興味深い逸話が掲載されていた。終戦直後の昭和21年(1946)に農地解放令が公布された際に、竹林或いは竹藪は畑か山林かという争いが生じ、小作人側は、タケノコのように農産物を得る場であるから畑であり、したがって農地として解放すべきと地主側に迫る。地主側は、竹林は用材としての竹を育てる場であるから山林であって農地とは言えない、従って解放の対象には出来ないと主張したのだった。結局両者の争いは裁判沙汰にまで発展したのだった。世間の注目する中で、次のような大岡裁きを示したという。当該山林を二等分し、片やタケノコ等を栽培する場であり農地であるから解放の対象とし、もう一方は、竹という用材を育てる場であるから山林とし、農地解放の対象外としたと言うことである。
 この文の冒頭に、なかなかマダケの写真を撮れなかったと述べた。そして、現代生活の中では、あまり竹が各種用材として必要とされなくなったために徐々に消えていったのだろうというようなことを述べた。最後に、タケの寿命について触れておきたい。タケの寿命は、20年程度であり、地下茎は10年程度と言うことである。そして、タケは、開花の時期が来ると、一斉に開花してその後は枯死してしまうと言うことである。ただ、タケの開花の条件については未だ解明されていないということである。一説に60年周期説があるが、これは中国からの干支の思想から生じた説であり、科学的な根拠は無いとのことでもある。最近では、1965年頃にマダケが一斉に開花したということである。マダケは、開花してもほとんど結実しないという、つまり種子を残さないということであるから、この点でも、マダケが最近では目に入らなくなってしまった大きな要因でもあったように思える。
 蛇足:まるで関係のないおまけ                          
 今日は、つい最近この世を去ったChris Connorを偲んで彼女の歌声をずっと聴き通した。音源は、外付けハードディスクに収録してあるたくさんのアルバムの中から、彼女の曲目だけをピックアップしてランダム再生してみた。白人女性ジャズ・ヴォーカリストと言えば、彼女も5本の指の中に入る存在ではなかろうか。彼女は、その初めはクラリネット奏者としてスタン・ケントン楽団に所属していたという。しかし、本来の目標であったジャズ・シンガーとして世に出ることが出来たのだった。彼女の最大のヒット曲はといえば、何と申しても" Lullabies of Birdland"ではなかろうか。彼女のあのハスキーで、しかも女性にしては低音に張りのある歌声は、やはり、お見事の一言に尽きる。彼女は、1927年生まれと言うから、82才だったことになる。往年のジャズイストがたくさん他界している。あの世でそうしたかつての仲間達と再会し、昔は良かったと話しているのだろうか。いずれにしても、彼女のために合掌!
 H.21.09.21