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ケヤキ(欅)について
 子どもの頃からこの地に住み着いてしみじみと思うことは、随分景観が変わってしまったということである。田や畑が随分少なくなくなり、逆に住宅ばかりになってしまった。そして、その住宅の様相もすっかり変わってしまった。
 私がこの地に住み着いたのは、昭和20年(1945)の4月のことだった。御案内の通り、その年の8月には終戦を迎えている。当時、この地では、ほとんど家の屋根は茅葺き屋根だった。そして、敷地の北側並びに西側には、決まってカシノキが植えられていた。そのカシノキの垣根の内側には、ケヤキが数本植えられているというのがお定まりのようになっていた。ケヤキは、カシノキよりも遙かに大きくなるから遠くから見ても、それがどこの家のケヤキかがよくわかった。小学生の頃には、何処に出かけるのも徒歩だったが、自宅に帰る時に、我が家のケヤキが目に入るとほっとしたものだった。
 上述の通り、我が家は終戦直前に現在の地に移り住んだのだったが、既に、その頃には、ケヤキの大木が4,5本あった。新緑の頃には、若葉がとても美しかった。若葉が開くと同時の頃に、枝先に雄花が垂れ下がるのを良く目にした。目立たない緑色の花だが、雌花と違って、花後に、雄花は樹下に落ちているので、開花を知ることが出来たのだった。夏には、セミが来てうるさいほどだった。晩秋になると、落ち葉がたくさん降ってくるので、それを箒で掃き集め、焚き火をするのだった。この落ち葉と、茅葺き屋根との関係があるようにも思うのだ。茅葺き屋根の家には雨樋がなかった。もし雨樋があったら、木の葉が詰まってしまって雨がスムースに流れなくなってしまったのではなかろうか。ところで、カシノキの葉等の常緑樹の落ち葉は、その当時どちらのご家庭でも堆肥にしたものだったが、ケヤキのような落葉樹の場合は、葉が薄く堆肥には適さなかったために専ら焚き火されたものだった。焚き火をするとあちこちで煙があがるのでよく分かった。子供達は、サツマイモやサトイモ等を持って集まってくる。そして焼き芋を作るのだった。それがおやつだったのだ。現代社会のように、スーパーやコンビニで販売されているスナック菓子と異なり、無添加・無着色、化学薬品は一切含まれていない、また無農薬で栽培された作物であり、とにかく自然そのものだった。たとえば、サツマイモにしても、サトイモにしても、煮たり、蒸したりしたものとは異なる美味しさがあったようにも思う。また、クリの実を焼くことも多かった。季節的に丁度よかったのだ。ただ、クリの場合、そのまま火の中に入れると、弾けて焚き火から飛び出して危険なので、焚き火の中に入れる以前に刃物で傷をつけてから入れたものだった。焼いたクリは格別美味しかったと今も思っている。大人は、キノコを焼いたり、スルメイカを焼いて食べたりもしていたものだった。サツマイモの場合は、現代でも焼き芋として販売されているが、サトイモを焼いて食べるというようなことは今日では滅多に見聞きしなくなってしまった。第一焚き火をするという行為そのものが行われなくなってしまったのだ。家屋の構造が茅葺き屋根から瓦葺き屋根に代わるに従い、当然雨樋が備わることとなる。すると屋根に落ち葉が舞い降りてくることは迷惑ということになり、屋敷林は消えることとなってしまったのではないだろうか。
 我が家も、戦後数年経過した時点で、敷地内に家屋を建て直した。その際に、ケヤキの大木は切り倒され、建築材として用いられてしまった。父は、その内の1本の根元の部分で餅搗き用の臼を作った。それまでは自宅では餅搗きが出来なかったので、自宅で搗いた餅でお正月を迎えられるようになった時には、やっと他所様と同じような生活が出来たように思えたものだった。その後、何年もその臼で餅搗きが行われたものだったが、私自身が成長するに従い、それは専ら私の仕事となってしまったが、楽しい反面、予想以上に餅搗きという仕事は重労働だったことを今も記憶している。ただ、搗きたての柔らかい餅を細かくちぎって、納豆や大根下ろしに入れて食べるのは何とも言えない年に一度のご馳走だったとも言える。
 建て替えた家屋に我が家にあったケヤキを建築材として用いたと上に述べたが、家の外から家の内へと移ったと言うことになる。柱材や床板材として用いられたのだった。特に、玄関から家屋に最初に足を載せる「上がり端」に父はケヤキ材を用いた。また、二階に上がる階段にも、床の間や廊下の床材にもケヤキ材を用いた。最初の頃は新しい床材の感触を楽しむだけだったが、やがて、年数を経るに従って、ケヤキ独特の艶が出てきて、しかも表面には美しい木目の模様が見られるようになると、より一層親しみが増すようになったものだった。今は亡き母は、床材に艶が出始めると、お掃除にも張り合いが出たのか、よく布で拭き掃除をしていたのを記憶している。現在私が住む家屋は、そのケヤキ材を使った家屋ではなく、同じ敷地内にまたまた建て替えた家屋である。現在の家屋を建て替える際に、何処から聞き及んだのか、父の昔からの知り合いだった大工さんが我が家に訪ねて来て、是非、取り壊す前に、ケヤキ板だけは譲って貰えないだろうかと申し出てきたのだった。聞けば、料亭等には、そうした使い込んだものが好まれるというお話だった。当方としては、どうせ廃材として処分されてしまうのだからと、素直に承諾したところ、丁寧にケヤキの部分だけ外して持ち帰って行った。
 上述の通り、我が家のケヤキは立て替えをする際に伐られてしまったのだが、1本だけ残された。それは、伐られてしまったケヤキの大木から落ちた種子から生え出た実生の木だった。それを、幼かった私が別の場所に植え替えたものだった。自分で植え替えた樹木だけに、いつも見守って過ごした木だった。幸いなことに、上述の家を建て替える際にあまり邪魔にもならない位置にもあったこともあり、私が大切にしていたケヤキだからということもあったのだろうが、父は、そのケヤキを1本だけ敷地内に残してくれた。子供だった私が植え替えた頃には、まだ、私の膝程度の樹高だったが、やがて、みるみる大きくなって、大木となっていった。その成長の早さに驚かされたものだった。
 ところで、父が亡くなって後に、またしても我が家では私の我が儘から家屋を建て直すこととなった。蔵書数があまり多くなり、それらを分散して保管していたものだから仕事をする上で不便を来していたのだった。それに加えて、本格的に好きな音楽を楽しめる空間が欲しかったのだ。そこで、書斎並びにオーディオ・リスニングルームを兼ねた部屋を設け、そこで仕事をしたいと目論んだのだった。それが現在私が住んでいる家屋と言うことになる。つまり、私は、祖父の残した家屋、父の建てた家屋、そして私自身が建てた家というように、同じ敷地内で三代の家屋で過ごしたことになる。
 その私自身が家屋を建てるにあたり、上述の私が子どもの頃に植え替えたケヤキの木が位置的に邪魔になることとなった。そこで、残念ながらこれまた切り倒すこととなった。その当時では、ケヤキのある家も大分少なくなっていた。知り合いから、伐って売れば少しは建て替えに役立つのではないかと言われ、私もその気になった。だが、あまりにも大木であり、素人の私にはとても自力で切り倒すことなど不可能だったために、専門の業者にお願いすることとなった。作業が済んで、その業者さんが申すには、伐採の手間賃とケヤキ材の価格とほぼ同額程度となる旨言われ、結局我が家には収入が無かったことになった。知人に大いにお前は人が良すぎると馬鹿にされたものだった。ケヤキがなくなると、敷地内に大きな空間が出来たような淋しさを覚えたものだった。
 さて、いよいよ家屋の新築を始めようという段になって、建築業者の方が、ケヤキの切り株が邪魔になると言われて大いに困惑した。あの大きな切り株を処理する術を私は持ち合わせていなかったからだ。結局、建築業者の方に処分して貰うことになった。大型の建築機材で掘り起こすこととなった。切り株が掘り起こされた跡には地下に大きな空間がこれまたできていた。地上部分が大きいだけではなく、地下も大きいと言うことをあらためて知らされた思いがしたものだった。知人達から、あの切り株で座卓を作れば見事だったのにとまたしても笑い物にされしまった。しかし、個人では、とても細工出来る代物ではないし、そのような作業をしてくれる専門の業者も知らなかったのだ。仮に、あんな大きな切り株で座卓を作ったとしたら、それを部屋に置いたら、その部屋は、他に使い道が無くなってしまっただろうと今も思っている。それに、ケヤキ材は非常に重いので、動かすのも大変だろうと思う。
 私の住む館林市では市役所周辺の公園にケヤキがたくさん見られる。秋になると紅葉が見事である。ケヤキの紅葉は、黄色いもの、飴色のもの、アズキ色をしたもの、オレンジ色のもの、真っ赤なものととにかく個性があって、1本1本異なった変化が見られて楽しい。埼玉県のJR北浦和駅前から埼玉大学の前を通って所沢に向かう道路は日本一長いケヤキ並木と呼ばれているが、新緑の頃も爽やかだが、秋の紅葉も見事だ。ただ、紅葉の後の落ち葉は何方がどのように処理しているのだろうと、さぞかし大変だろうなと思ってしまうのだ。また、西武鉄道沿線の大学で講座を持ったことがあり、ほんの数年だったが通勤したことがある。池袋から下って行き、所沢市内の小手指駅辺りを通過して入間市の航空自衛隊の基地辺りまでは、ケヤキがよく目に入った。やはり晩秋はその色とりどりの紅葉にうっとりしたものだった。自分の小さい頃の景色を思い出すようで懐かしい気分に浸ることができたものだ。そう言えば、埼玉県のシンボル・ツリーは「ケヤキ」と指定されているのだった。だが、よく調べてみると、ケヤキをシンボル・ツリーに条例で定めている自治体は以下の通りで驚くほど多い。
 宮城県木福島県木埼玉県木/宮崎県:山田町木・都城市木・日之影町木/大分県:玖珠町木/熊本県:多良木町木/長崎県:国見町木・愛野町木/佐賀県:玄海町木・嬉野町木/福岡県:久山町木・久留米市木・朝倉町木/島根県:日原町木/和歌山県:美里町木・花園村木/滋賀県:甲良町・木木之本町木/京都府:舞鶴市木・福知山市木/兵庫県:社町木・中町木/大阪府:能勢町木・高槻市木/三重県:菰野町木・鈴鹿市・美里村木/石川県:川北町木・山中町木/富山県:富山市木/福井県:永平寺町木・大野市木・上志比村木・坂井町木/岐阜県:揖斐川町木・垂井町木/愛知県:春日井市木・知立市木・豊明市木・豊田市木/新潟県:出雲崎町木・長岡市木・伊那市木/長野県:木島平村木・木曽福島町・豊科町木・中条村木・日義村木・堀金村木・箕輪町木・八坂村木/静岡県:御殿場市木/群馬県:吾妻町木・大泉町木・小野上村木・神流町木・高崎市木・中之条町木・前橋市木・吉井町木/栃木県:小川町木・烏山町木・西方町木・芳賀町木・藤岡町木・南那須町木・真岡町木・茂木町木/茨城県:石岡市木・伊奈町木・河内町木・北茨城市木・古河市木・三和町木・つくば市木・新治村木・坂東市木・常陸太田市木・日立市木・美野里町木・八千代町木/千葉県:我孫子市木・千葉市木・野田市木/埼玉県:朝霞市木・入間市木・大里町木・小川町木・桶川市木・鴻巣市木・越谷市木・さいたま市木・富士見市木・三芳町木・旧妻沼町木・吉見町木・蕨市木/神奈川県:相模原市木・横浜市木/東京都:板橋区木・清瀬市木・小金井市木・国分寺市木・小平市木・渋谷区木・新宿区木・世田谷区木・立川市木・西東京市木・東村山市木・東大和市木・府中市木・町田市木・武蔵野市木/福島県:鹿島町木・高郷村木・福島市木・南相馬市木/宮城県:仙台市木/山形県:東根市木・尾花沢市木・酒田市木・三川町木・庄内町木/岩手県:紫波町木・大槌町木/秋田県:秋田市木・八郎潟町木・由利本荘市木・大仙市木/青森県:鰺ヶ沢町木・横浜町木・階上町木
 九州~東北の青森県にまで至っている。沖縄と北海道だけがないことになる。よくよく考えて見ると、野生のケヤキというものを目にしたことがない。物の本によれば、ケヤキは谷間や斜面下部の肥沃な地に自生するとあるが、これまで情けないことに野生のケヤキというものに接する機会に恵まれていない。だが、我が国では、人里には必ずケヤキが存在している。今日では、公園樹や街路樹として見かけるケースが多いようだ。恐らく人の手が入らなくても樹形が自ずと整って美しいからであろう。私のこれまでの人生の中で目にしてきたケヤキは自然のものではなく、どれも人為的な営みによってもたらされたケヤキばかりだったということになる。
 ケヤキは、盆栽の世界では雑木盆栽の代表的樹種である。随分昔のことだが、職場に雑木盆栽が大好きな先輩がいて、現在ではさいたま市となっているが大宮の盆栽村を見学に行ったものだった。ケヤキの盆栽は、箒を逆さにしたような形状に仕上げるのが基本である。上述の先輩は、大宮の盆栽村から欅の種子を購入してきて、実生苗から盆栽作りに挑戦していた。先輩は、枝が横向きに、つまり水平方向に出る苗は全て処分し、上向きに枝の出る苗だけを残して鉢に移植していた。つまり、ケヤキの盆樹は「立ち性」でなければ適さないということを先輩から学んだものだった。先輩にならって私もケヤキ盆栽に挑んでみた。当時、我が家には、上述の私が植え替えたケヤキが存在したので、その実生苗を鉢に移して仕上げたのだった。ケヤキに限らず、雑木盆栽は手間がかかる。松柏類の盆栽のように針金で幹や枝を矯正することは不可能だった。幹肌に醜い跡が残ってしまうからだった。加えて、枝の剪定も鋏等の刃物を使うことも嫌うのだった。そこで、新緑の頃に、若枝から葉が5枚ほど開いた時点で、葉を2枚だけ残して未だ柔らかい若枝を爪でつまんでしまうのだ。緑枝の内に爪で取り去った枝先には跡が残らないが、硬くなった枝を刃物で切り取ると不自然な切り口が残ってしまうのだ。このことは、他の雑木盆栽もほぼ同様である。暫く上述の先輩宅にお邪魔に上がっていないがさぞかし見事なケヤキ盆栽に仕上がっているのではないかと想像される。
 ケヤキは、『万葉集』にはツキ(槻)として7首詠まれている。『古事記』や『日本書紀』にも登場する。その後、平安時代の古典文献には登場していない。文学関係では江戸期に入ってからと言うことになる。重要な用材だっただけになぜなのだろうと思えてくる。また、ツキとケヤキとの区別や関係があまりはっきりしない。朝日新聞社から刊行されている『世界の植物』(1868頁)には、「白井光太郎によれば、ケヤキの名は室町時代中期に出来た『節用集』にはじめてでてくるという。」という倉田悟氏の記述が見られた。そこで、白井光太郎博士の『日本博物学史』をひもといてみたが、見出すことが出来なかった。前述の倉田氏の記述を信用すると、ケヤキの語が我が国で用いられるようになったのは室町時代以降と言うことになるのだろう。なぜ名前が変わってしまったのだろうかと不思議に思う。また、ツキとケヤキとは同一の樹種なのか別の樹種なのかについても、これまで様々な議論が展開されたらしい。どうやら、明確な区分はなく、用材として上質なものをケヤキ、それに劣るものをツキと言って区別していたようであるらしい。
 『牧野植物図鑑』では、ケヤキの解説ページに「一変種にツキ(var.Tsuki Makino)がある。これは材質が良くない。ツキには俗字として槻という文字を用いる」と記述されている。
 大槻文彦著『大言海』では、「ツキ:けやきノ類、甚だ相似テ、葉ノ刻缺多クシテ細カク、木理、縦横ニシテ、けやきノ木理ノ縦ナルト異ナリ。」と記述されている。
 現代の国語事典ではどのように記述されているかとこちらも開いて見た。
 『広辞苑』(第三版)では、「つき:①ケヤキの古名。(中略)②ケヤキの一変種」と記述されていた。
 講談社版『日本語大辞典』では、「つき:ニレ科の落葉高木。ケヤキの変種」と出ていた。
 『岩波古語辞典』では、ケヤキの古名と出ていた。
 つまり、今日でもツキは国語の世界ではケヤキの一変種がツキということに落ち着くようだ。しかし、植物図鑑等では、「ツキ」として単独の項目立てをしている事例を見ない。ツキは、ケヤキの古名扱いであり、両者を別の植物として扱っていないのである。つまり、『万葉集』にツキと詠まれた頃には、両者は区別されていなかった。室町時代半ば頃からツキとケヤキとが区別されるようになったが、どうやら材質状の区分であり、植物学的な区分ではなさそうである。
 上には日本語辞書の記述例を見たが、続いて漢和辞典を2冊ばかり開いてみた。
 藤堂明保編『学研漢和大辞典』では「槻:つき ニレ科の落葉高木。けやきの一種」とあった。
 白川静著『字通』(平凡社刊)では、「槻:木名、欅の一種。①つき②とねりこ」と出ていた。
 これだけでは、要領を得ないので、手許にある次の書をひもといた。
 加納喜光著『植物の漢字語源辞典』(東京堂出版)では、次のように解説していた。
 先ず「槻」であるが、「日本でツキ(ケヤキ)を槻と書くのは、樹冠が扇形になるので、規(=コンパス)に木偏を添えたものであろう。してみると、半国字と言える「欅」の造字の発想と似ている。」と。
 次に、「欅」については、次のような記述が見られた。
  「二つの意味がある。一つはニレ科ケヤキ属の落葉高木Zelkova schneideriana(オオバケヤキ、中国名大葉欅樹)を意味する。もう一つの意味は、Pterocarya stenoptera(シナサワグルミ、中国名楓楊)である。」と。
  どうやら、加納氏の記述から推測するに、「槻」も「欅」も、我が国で作られた漢字のようである。たとえば、ツバキに「椿」と表記するようにである。我が国で、「槻」や「欅」の文字を作ってしまった後に、漢字の本家本元である中国に既に同じ文字が別の意味を有して存在していたというのが本当のところであるらしい。
 英語ではケヤキはzelkova treeと呼ばれる。これは、学名の属名をそのまま用いたことになろう。その学名とはZelkova serrata Makinoということになる。属名を表すZelkovaから英名になったのであろうと推測されるのだ。そのZelkovaとは、等しくケヤキ属に含められているZelkova carpiniforia(和名不詳)種のコーカサス名に因んでいるという。因みに、ケヤキ属は、我が国以外に中国に2種、西アジアに1種、地中海のクレタ島に1種を産するだけという。
 因みに、先刻ご承知のこととは思うが、ケヤキは、中国名では「光葉欅」と表記されている。
 我が国ではたくさんの自治体がケヤキをシンボル・ツリーとして定めていることは上述の通りであるが、とても身近な樹木だけに、地名や人名(苗字)等にも「槻」の文字がたくさん登場する。しかし、「欅」の文字はあまり見聞きしないのは何故なのだろうか?
 蛇足:まるで関係のないおまけ                          
 今日は、久しぶりの梅雨の晴れ間であった。気分がよいので、晴れやかな歌声を聴きたいと思って、ハードディスクに収録されている音楽リストの中から、エラ・フィッツゼラルドのアルバムだけをランダムにプレイするようにパソコンにコマンドを入れて、珍しくヘッドフォンからではなく、アンプを経由して書斎の床上ほぼ3m程度の位置に設置されたスピーカーから聴いてみた。全部で5本のスピーカーから遠慮無く音を出せる時は、私にとってはとても有り難い日なのだ。エラは、典型的なエンターテーナーだと思う。そもそもの始まりは、彼女、ダンサー募集に応募し、駄目だったので、その場で歌を披露したとところ、認められてしまったのだという。ライブ録音の場合、彼女は、毎回 会場のオーディアンスに向かって”Thank you! Thank you! I thank you ladies and gentlemen! Do you like that song?"”と問いかけるが、その都度、思わず聴いている私は”Yes,I do!”と答えたくなってしまう。我が家には、エラの歌う歌がたくさん集まってしまった。
 H.21.06.19