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キノコについてのあれこれ
 私は、植物が好きだが、キノコシダに関しては、まるでわからない。このホームページでも、キノコやシダ、そしてコケの類は、ほんの数点しか取り上げていない。
 私の妻は、かつて公立高校に勤務していた。そして同じ職場の先生方とよくキノコの観察に出かけていた。それだけに、夫婦二人だけで野山に出かけると、互いに面白い行動となる。私は、自分が好きな樹木に目を走らせてしまう。そして、妻の場合には、足下に落ちている枯れ枝等をステッキ代わりにして、足下を探して回っている。もちろん、キノコの場合、木の上にも見られるのだが、概して地面に見られることが多い。特に、枯れ葉の下などに見られることが多いようなのだ。そのような次第で、二人が持つカメラの向けられる角度も異なってくることになる。私は上向きに、彼女は下向きになることが多いのだ。毎度そのようなそれぞれの行動をとっていると、その都度、私は「同床異夢」という四文字熟語を思い起こしてしまうのだった。
 私も、妻も、未だ現役だった頃、そして今は亡き我が母と三人暮らしだった頃に、上述の通り、妻はよくキノコ観察に出かけたものだったが、そればかりか、よく持ち帰ってきては、それを夕食時等に登場させてものだった。私は、これまでに一度も目にしたこともなく、耳にしたこともないようなキノコと対面すると、思わず我が身が硬直するような恐怖感を覚えたものだった。その昔呼んだことのある、今関六也先生の書物の中に、<そのキノコに毒があるか、無いかを見分ける方法は、たった一つであり、その方法とは食べてみる以外にない>というような記述があったからだ。そんなことは知る由もない亡母は、昔者だけに、キノコにはナスが毒消しになると信じて疑わない人だった。妻は、自分が採取してきただけに自信を持って箸をすすめる。私は、タイムラグをもって、つまり二人の様子を観察して後に、やっと、恐る恐る箸を手にするという状況だった。二人は、やはり野生のキノコは美味しい等と申して、嬉々としてその日の食事を楽しんでいた。
 ある年、妻が庭でにこにこしていた。何か楽しいことでもあるのかと近寄ってみると、モミジの木が枯れて、その木にキノコが生えていた。妻は、「キクラゲです。」と言って、自分の発見を喜んでいた。私は、「キクラゲは、ニワトコクワの木に生えるのではないの?」と怪訝な思いで尋ねてみたが、妻は、無言のままに微笑んだだけだった。数日後、食卓に野菜炒めが食卓に上った。私も母も何の疑問も持たずに食したものだったが、食べ終わった時に、妻が発した言葉は、「我が家のキクラゲは如何でしたか?」だった。私は、即座に庭の枯れたモミジを思い起こしたものだった。
 また、別のある年、妻が笑顔で帰宅した日のこと。帰宅の途上に、ある農家の庭先にあるヤナギの木の地上2m程度の位置に白いこぶのようなものが目に留まったが、それがヒラタケに間違いがない筈だから、確認したいので、そのお宅から貰ってきて欲しいというのである。翌日、依頼を受けた私は、件の農家を訪れ、それを頂戴してきた。妻は、それを二つに割って見て、「間違いなくヒラタケの香りです。」といって、その夜はキノコの炊き込みご飯だった。私には、またしても恐怖の食事の時間を迎える結果となったのだった。
 カナディアン・ロッキーに出かけた折に、現地に在住する我が国の大手旅行社のツァー・コンダクターと知り合った。彼女は、「明日は、休日なので、山にマツタケ狩りに行って、夜は、現地に在住する日本人を集めてマツタケ・パーティーをするのですヨ。」と言っていた。彼女の話によると、現地の人々は、あまりマツタケに関心を持たないという。また、あまり野生のキノコを食べるとをいうことをしないという。
 そう言えば、現地の人々にキノコの名前を聞いてみても、返って来る答えは決まっていて「マッシュルーム(mushroom)」だった。どのキノコを見ても、あれもこれも皆「マッシュルーム」なのだ。アメリカ人やカナダ人と接していると、キノコに限らず、植物全体がそうであって、「木」とか「草」とか「キノコ」というばかりである。上述の彼女の話では、カナダのマツタケは日本にも輸出が行われているという。そこで、その地域にある食材のスーパーマーケットを訪ねてみた。我が国同様に、旬のキノコとしてマツタケがあるものと期待してみたが、どこにも見あたらなかった。キノコで目にしたのは、シイタケと我が国では「マッシュルーム」と呼ばれている「ツクリタケ(作茸)」だけだった。
 右の写真は、モントリオールのスーパーで見たキノコの販売状況である。写真が小さくておわかりにならないと思うが、写真中央に$2.99と価格が見られるがその上に商品名がフランス語で書かれている。champignon blancとある。日本語に直訳すれば「白キノコ」ということになる。つまり、我が国で言うところの「ホワイト・マッシュルーム」ということになる。とにかく、彼の地では、キノコは、mushroomtoadstoolのどちらかということになる。前者は、食べられるキノコであり、後者は毒キノコということになる。それにしても、毒キノコを意味するtoadstoolとは日本語に直訳すれば、「ヒキガエルの椅子」ということになる。我が国の「サルノコシカケ」にも似た命名と思わず苦笑したものだった。
 ところで、右上の写真を撮った店には、マッシュルームの横には、シイタケが販売されていた。商品名には、shiitakeと記されていた。他でも目にしたが、シイタケは、どうやらshiitakeで通用しているようである。
 上にマツタケとシイタケについて少しだけ触れたが、前者は、『万葉集』にも登場する典型的な日本人好みのキノコといえる。上代には、「秋の香」と呼ばれたほどである。しかし、シイタケは、古典には登場してこない。だが、キノコ栽培としては、シイタケの場合、すでに江戸期の元禄時代には伊豆の天城山で栽培が行われていたと言うから長い歴史を有することになる。世界的にもシイタケ栽培は我が国が最初と言うことである。 出典が思い出せないが、シイタケは我が国特産と考えられてきたが、本来的には、フィリピン、ボルネオ、ニューギニア等が原産地で、シイタケ菌が長い距離を風に乗って我が国まで飛来したのだという説を読んだことがある。実際に上述の地域には、シイタケの自生が見られるという。一方のマツタケも、我が国特産と考えられがちであるが、他の国にも存在することは、我が国に秋になると外国産のマツタケが店頭に並ぶので理解できる。同様にシイタケも、近年は、我が国産よりも中国産のそれがより多く並んでいるので、彼の地でも大量に栽培が行われていることが推測される。
 まるで話題は変わるが、昨年(2008年)秋に上野の東京国立博物館で、「尾形光琳350周年記念:大琳派展」が開催されたので出かけた。だが、その日には、私たち夫婦には、もう一つの楽しみがあったのだった。東京国立博物館のすぐ横手に位置する国立科学博物館が存在するが、同じ時期に、そこでは、キノコの展示企画展が開催されていたのだった。しかも、美術館や博物館等では珍しいことであるが、写真撮影がOKという情報を事前に得ていたものだから、なおさら期待が膨らんだものだった。何しろ数百種類のキノコが一カ所で見られる等とは、滅多にないことである。それに、冬虫夏草菌もたくさん展示されているというのだ。それも写真撮影が可能と言うことであり、期待は高まる一方であった。東京に向かう電車の中で、キノコは日一日と生成変化が激しいので、長い期間どのように保存し、また、展示するのだろうかと二人で互いの推測を話し合ったものだった。実際には、実物のキノコを樹脂でモールドしてあったのだった。それだけに、表面に光沢があり、写真撮影には技術を要することとなった。それでも、それぞれのキノコの大きさや形状がよく分かり、とてもありがたかった企画展であった。
 上述の国立科学博物館からの帰路、私は、一冊の書物を思い起こしてしまった。我が家の書棚にある書だが、『昆虫記』で有名なフランスのジャン・アンリ・ファーブルの描いたキノコの図鑑である。ファーブルは、『昆虫記』であまりにも有名になってしまったが、『植物記』も著している。我が国では平凡社から翻訳本が出版されている。そのファーブルがキノコの図鑑に挑戦したのだった。ファーブルの目的は、図鑑を著すことではなく、昆虫や植物の場合には標本が作れるが、キノコの場合には、そのままの状態で標本として長期間維持できないことに苦慮し、どうしたらよいのかを考えた結果、絵画に描いて置く以外に無いと言う結論に達したのだという。ところが、ファーブルには彩色画を描く技術も知識もなく、そのノウハウを一から独学で学んだのだという。その結果として残されたキノコの画集を図鑑として発行されたのだった。その書の中には、全部で221点の水彩画が収められている。我が国では、『ジャン・アンリ・ファーブルのきのこ』と言うタイトルで同朋社出版から刊行されている。
 蛇足:まるで関係のないおまけ                          
 今回は、フォルクローレを聴きながらタイピングをした。『FOLKLORE LATINO vol.1』というタイトルで、英語で”THE ANDES: A MESSAGE FROM THE INKA"というタイトルも併記されているカセット・テープである。何処にも演奏者の名前が見られない。テープの発行元も記載されていない。実は、このカセット・テープは、上野公園で路上演奏をしていたメンバーから直接購入したものだった。彼らが演奏している時に、随分完成度の高い演奏だなと感じて、思わず私も立ち止まってしまい聴き惚れてしまったのだった。演奏終了後に集まった聴衆に彼らは自分たちのカセット・テープを買って欲しいとアッピールしたのだった。私は、即座に買い求めたものだった。
 実は、このテープには、哀しい思い出がある。およそ10年ほど前に、大きな手術を受けたことがある。手術後、医師から、予定外に幾つもの臓器を摘出されてしまったことを告げられたのだった。それを告げられた後に、暫くの間、果たしてこれから自分は生き続けてゆけるのだろうかという疑問が強くわいてきて、来る日も来る日も、ヘッドフォンから流れてくる上述のカセット・テープの音楽ばかり聴いていたのだった。退院後、暫くは、再び生への執着を喪失してしまいそうで、このカセット・テープだけは取り出すことはなかった。術後10年を経て後に、やっと平常心で耳にすることができるようになったのだった。南米には未だ一度も行ったことがないが生きている内にいつかは行ってみたいと思っている。
 H.21.01.25