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キリ(桐)について
 毎度個人的な話題ばかりで恐縮だが、今は亡き母の命日は5月の中旬である。その母の命日が近づくと、キリの花が開花しはじめ、丁度命日の頃には満開を迎える。キリの花は、淡い青紫色で、今も好きな花の一つである。大人になって、初めてジギタリスの花を目にした時、子供の頃から見慣れていたキリの花を想起したものだった。花形が良く似ていたからだ。ただし、ジギタリスの場合、花の色合いが色濃く、花色も多彩である。しかし、花だけの写真を見ると、ジギタリスと思ってしまうほど良く似ている。それもそのはずで、両者はかつては、同じゴマノハグサ科に所属する植物なのだ。(現在は、キリはキリ科として独立し、ジギタリスはオオバコ科に含められている。))つまり、同じファミリーの一員だったということになる。
 終戦直前にこの地に住み着いた時に、子供だった私の目に、ひときわ大きな葉をつけた木が目についた。父に名前を尋ねると、「この木はね、切ってもまたすぐに芽が出て育ってくれるので、切るために植える木だからキリというのだよ。お母さんがお嫁入りの時に持ってきたタンスがあるだろう。あれはこの木で出来ているのだよ。」と教えてくれた。その後、気づけば、あちこちの家々の敷地内、畑の隅、路傍、川の土手等には、必ずと言って良いほどキリが植えてあった。だが、当時良く目にしたケヤキカシノキ等と相違して、何本も並んで植えられたりしていることはなかった。多くても3本程度だった。大人になるにつれ、あちこちでキリを目にしたが、そのすべてが人里のものだった。つまり、野山に自然に自生しているキリというものは目にすることはなかった。どれも人為的に植栽された樹木と言うことになる。やがて、植物に関心を持つようになって、キリについて調べて見ると、どうやら我が国には自生はなく、中国からの渡来植物であることを知って、だから人里の植物だったのかと納得したのだった。
 上には、キリが渡来植物であり、人里に見られる木であると言うようなことを述べた。そこで、いつ頃渡来したかを調べて見たが、はっきりしない。そもそもキリの原産地が分かっていないらしい。また、分布も、中国から朝鮮半島らしいという程度であり、これも不明確である。しかも、原産地と見なされている中国においても、自生のキリは見られず、見られるのは栽培されたものばかりであり、野生種は見られないと言うことである。また、我が国でも、野生化したキリが宮崎県、大分県、隠岐島等で発見され、我が国にもキリは自生していた、否、あれは野生化したものだとの論争が一時期学者の間で行われたこともあったという。現在我が国では、九州から北海道までキリは見られるという。しかし、本州中部地区以南の場合、キリの栽培にはテングス病が災いするという。また、寒冷地で育ったキリは年輪幅が細かいために木目が細かく用材として用いるには美しく見えるので好まれる。この2点から、我が国では、キリの生産地としては、昔から福島県の会津桐や岩手県の南部桐が高級とされてきている。因みに、岩手県の県花はキリの花である。
 もし、キリの原産地が中国であるとすれば、果たして我が国へはいつ頃渡来したのだろうか。こちらも、様々な資料を調べて見たが、結論として分からなかった。様々な書がかなり古い時代に渡来したと告げている。そこで、文献にはいつ頃登場するかを調べて見た。『記・紀』や『万葉集』には登場していない。もし、万葉の時代に既にキリが我が国に渡来していたとすれば、或いは、我が国に自生のキリが存在したとすれば、当時の人々が必ず歌に詠んだに違いない。キリは、特徴の顕著な樹木だからだ。あの大きな葉、優雅な花色、鈴生りの果実と、どれも歌の主題として季節感を表すには十分な素材だからだ。
 文学関連の書としては
『枕草子』がどうやら最初のようである。続いては、江戸期まででは次の通りである。
  
『源氏物語』、『和漢朗詠集』、『新古今集』、『太平記』、『謡曲』、『近松浄瑠璃集』、『芭蕉句集』、  『一茶句集』
 意外に少ないと言えないだろうか。
『万葉集』だけではなく、『古今集』にも登場していないのである。また、俳諧の分野では、『蕪村句集』には読まれていないのである。
 文学関係ばかりではなく、本草書や辞書の類も拾ってみると、次の通りである。
  
『新撰字鏡』、『本草和名』、『倭名類聚鈔』、『多識篇』、『大和本草』、『和漢三歳図会』、『東雅』、  『薬品手引草』、『物品識名』、『本草綱目啓蒙』
 いずれにしても、これらの文献からは、渡来時期までは推測できない。どうもキリという樹木については、不明確な部分の多い植物であるという印象を強く受けた次第である。
 上に、
『万葉集』には登場していないと述べたが、「桐」の名が我が国の文献上で最初に登場するのは『万葉集』なのである。集中に夢で娘子に化した琴の作に擬した大伴淡等(大伴旅人に同じ)の歌(巻五・801)があるが、その序に「梧桐日本琴一面」とある。この場合は、「梧桐」をキリとするか、アオギリとするかの論議もあったが、今日では、アオギリとして定着している。
 
 我が家に、貝原益軒による『大和本草』の復刻本(全二巻 有明書房)がある。同書には
  「
此木切レは早く長ス故にキリト云う
とある。キリの名は
『新撰字鏡』(898年)では、「支利乃木」として、『倭名類聚鈔』(931年)では「木里」と記されているという。とすれば、9世紀末頃には、日本人はキリという樹木を認識していたと言える。また、キリという樹木の性質をも認識していたとも言えよう。
 また、上掲の『源氏物語』では、御案内のように主人公の光源氏は桐壷帝と桐壷更衣との間に生まれたと設定されている。光源氏の母は、桐の花咲く淑景舎に住んでいたのだ。つまり、『源氏物語』が描かれた頃には、宮中の庭にはキリが植えられていたということを知ることが出来る。何故宮中にキリが植えられていたのだろう?その疑問を解く鍵は『枕草子』にあったように思える。『枕草子』(三七 木の花は)に次のように出ている。
  桐の花 紫に咲きたるは なほおかしきを 葉のひろごりさまうたてけれど 又こと木どもとひとしくいふべき にあらず 
もろこしにことごとしき名のつきたる鳥の これにし栖むらむ 心ことなり まして琴につくりてさざまなる音の出でくるなどをかしきとはよのつねにいふべくやはある いむじうこそはめでたけれ
 この中にある「もろこしにことごとしき名のつきたる鳥」とはご存じのように「鳳凰」を意味していることになる。「鳳凰」については、『
広辞苑』(岩波書店)に次のように解説されている。
  
古来中国で、麒麟・亀・竜と共に四瑞として尊ばれた想像上の瑞鳥。形は、前は麒麟、後ろは鹿、頸は 蛇、尾は魚、背は亀、頷(あご)は燕、嘴は鶏に似、五色絢爛、声は五音にあたり、梧桐に宿り、竹実を食 い、醴泉を飲むといい、聖徳の天子の兆しと現れると伝え、雄を鳳、雌を凰という。
 こうしてみると、『枕草子』の著された平安期には、既に中国の「瑞禽嘉木」の思想が我が国にも伝わっていたことがわかる。ただし、キリとアオギリ(梧桐)とが混同してしまったらしいのだ。その後も、キリは嘉木として扱われ、今日に至っている。というのは、やがて、天皇家のシンボルとして「キク」と「キリ」は家紋とされ、今も用いられているからだ。たとえば、パスポートの表紙には、日本の象徴として金色のキクの紋様が描かれているが、そのパスポートの所持者を示す写真を添付している頁には、キリの紋様が描かれている。また、勲章にも「桐花大綬章」として用いられている。最も身近な紋様としては五〇〇円硬貨の紋様もキリである。清少納言が『枕草子』に著した通りの図柄は今も見られる。それは花札の12月の絵柄である。そこには、大きな鳳凰の下に大きなキリの図柄が描かれている。つまり、我が国では、平安時代から今日までずっと鳳凰はキリと結びつけられたままということになる。
 因みに、桐・竹・鳳凰を紋様とした御袍は嵯峨天皇の時から天皇のものとして定められ今日に至っている。
 我が国では、九世紀末頃には、「キリ」の名が用いられているというようなことを上述したが、『牧野 新日本植圖鑑』(北龍館)では、牧野富太郎博士は、
  
この木をきればすみやかに芽を出して生長が早いのでキリの名がある。
と述べておられる。上述の
『新撰字鏡』(898年)や『倭名類聚鈔』(931年)の頃に既に「キリ」の名があったということは、切るという行為が行われたからこそ命名されたと考えることは容易である。しかし、果たしてどのような目的で切られたのだろう?宮中の庭や貴族の庭に植えられるような貴重な樹木を切り倒してでも用材として用いる目的は何だったのだろうかと疑問に思える。植物文化史の権威者である松田修先生は、その著『花の文化史』(東京書籍)の中で
  このキリは、材の中では最も軽く、ひずみが少なく、また耐湿、耐乾性にも富んでいるので古来この材はたんす、長持ち、琴、その他茶器、器具、下駄などの材として貴重視されているものである。このキリが登場してくるのは平安時代からで『源氏物語』などにも「桐壷」という巻があるように、宮廷や貴族の庭などには多くキリが植えられていたらしい。
  もっとも、平安時代のキリの趣味は、この材ということもあろうが、その花が紫色でゆかしの色として愛されたものであろう。
と述べておられる。もし花を愛でるためだけの目的で植えられた樹木ならば、よほどの理由がない限り切り倒すこともなかろう。そして、鳳凰が住むこともなくなってしまう。とすれば、庭以外にもキリは植えられていたものと考えられる。そして、用材として用いられた筈である。この答えも上掲の
『枕草子』の文言の中に見られる。文中に「琴につくりて」とある。中国では、七弦琴の製法として琴面には陽の樹である「桐」を用い、琴底は陰の樹である「梓」で製作するものと定められていたという。そうした中国古来からの製法が我が国でも琴を製するにキリを用いるようになっているのだろう。琴をつくるためにキリを切ったところ、直ぐにも芽が出て、それが生長が早いことを知ったとしてもおかしくない。一度用材として切った後に、キリという木材の様々な性質を知ることが出来、後には、そのキリ特有の性質を利用して様々な用途に用いられていったのかも知れない。たとえば、キリの特性の一つに比重が0.3と非常に軽い木材である。そこで、家具や器具に用いれば、持ち運びが容易となる。加えて、キリはとても燃えにくいという性質も有する。埼玉県立民俗文化センターから出されている『埼玉の桐細工』(埼玉県民俗工芸報告書 第五集 1987年刊)には、興味ある記述が見られた。『枕草子』に登場する「火をけ」とは、現代風に理解すれば「火鉢」であるが、この「火をけ」とは「桐火桶」であると北村季吟がその著『枕草子曙抄』の中で指摘しているというのである。
 キリは、その他に、年輪がはっきりしていて、木理が美しい。また、心材と辺材の区別がなく、色合いも淡褐色で美しい。特に磨き上げると美しい光沢を見せる。加えて、割れ難く、狂いも少ない。加工も容易であり、のり付けも可能である等の性質もある。さらに、火に強いという特質も有している。そこで、キリは、家具や下駄、器、琴、箱、魚釣りの浮き等の用材として用いられている。そればかりではなく、幹は桐炭に、粉炭は火薬用に、木屑は懐炉灰にと様々な用途がある。樹皮は染料に、葉は除虫薬として用いられている。新芽は食用にされたとも言う。とにかく、キリは用途の広い樹木と言える。
 冒頭に、かつて我が家にもキリがあったと述べた。恐らく祖父母が植えたものと推測される。祖父母は二人の子供を授かっており、一人が私の父で、もう一人、父の姉がいたのだった。つまり、私の叔母に当たるわけだが、叔母は、不幸にして若くしてあの世へと旅立ってしまっている。それはそれとして、昔から、娘を授かったらキリの木を植えろという言い慣わしがあった。そこで、祖父母も、我が家の敷地内にキリを植えたのではないかと推測されるのだ。そして、叔母亡き後にもキリだけが残ったといえよう。
 娘を授かったらキリを植えるという慣わしはいつ頃始まったのだろうか?様々な書が貝原益軒の『大和本草』に記載が見られると指摘している。そこで、同書を開いてみた。そこには、確かに
  女子ノ初生ニ桐子をウフレハ嫁スル時其装具ノ櫃材トナル
と出ていた。生長が早いので、20年もあれば十分箪笥を作れると様々な書が述べている。
 では、いつ頃からキリの箪笥(タンス)という家具が登場するようになったのだろうか?また、そもそも「箪笥(タンス)」という家具そのものがいつ頃から登場しているのだろうか?そうした疑問を解くために、上掲の埼玉県立民俗文化センターから出されている『埼玉の桐細工』(埼玉県民俗工芸報告書 第五集 1987年刊)を再び開いて見た。同書では、桐箪笥に関する資料に乏しいと述べながらも大凡次のようなことが述べられてあった。先ず、「茶箪笥」というものが千利休の考案によって登場している。実際に、豊臣秀吉が小田原攻めの際に開催した茶会に用いられているという。天正18年(1590年)のことである。その後、衣装用の箪笥は寛文初期(1661~72)の頃、つまり第四代将軍徳川家綱の頃に、京・大阪方面で作られ、元禄期(1688~1703)には広く普及しているという。だが、それが江戸に伝えられたのは、ほぼ一世紀後の18世紀も中頃であったという。それまでは所謂「長持」が用いられていたと云うことである。江戸庶民が広く桐箪笥を用いるようになったのは寛政期(1789~1801)の頃であったという。意外に歴史は古くないということになる。江戸時代には、火事が多かったということだから、桐箪笥は持ち出す際にも重みが少なく助かったことだろう。また、キリは熱伝導率が非常に低い材であることも大きな特徴とされているので、万一火事に遭遇しても、収納物が被害から免れ得たのではなかろうか。また、我が国の夏場は非常に湿度が高い。その点でもキリは耐湿性に富んでいたから収納されている衣装を守ってくれるということで、保存には最適であったのだろう。実用の面からそうした利点を感じ取られ、人々は桐箪笥を求めるようになったのではなかろうか。そうした需要に応じて必然的にキリの栽培生産地も構成されるようになっていったのだろう。そして、現代では伝統工芸品と呼ばれている各種の桐細工の生産も行われるようになったのであろう。こうして見て行くと、本格的にキリの栽培が行われるようになったのは18世紀後半頃からのように思える。
 キリ製品が本格的に生産されるようになると、やはり素材としてのキリも、生産地によって優劣がつけられるようになって来る。桐材は木目が細かく揃っていて、曲がりの少ないものが高級とされた。そこで、木目が細いものが好まれる結果となっている。そこで、会津桐や南部桐が高級品として評価されたことになる。また、同じ地域でも、平地産のものと丘陵地産のものでは後者の方が好まれたことになる。岩手県の県花はキリであると上述したが、市町村レベルでキリを各自治体の「花」または「木」として制定しているのは以下の通りである。
  福岡県:大川市(木)
  愛知県:吉良町(木)
  長野県:栄村(木)  
  埼玉県:春日部市(木)
  福島県:金山町(木)・西会津町(木)・三島町(木)
  岩手県:岩泉町(花)・田野畑村(花)
  青森県:三戸町(木)
 桐製品の生産地としては、
  静岡県藤枝市
  埼玉県春日部市
  新潟県加茂市
が、我が国での三大生産地として知られている。この内、埼玉県春日部市が桐製品の生産地と化した経緯については『伝統工芸品の本』((財)伝統工芸品産業振興協会編集・発行 1995年)に
  江戸時代初期、日光東照宮造営に携わった職人が日光道宿場町である春日部に住み着き、周辺で産する桐材を使った指物や小物を作り始めたのが起源であると伝えられています。
と記述されている。
 上掲の『埼玉の桐細工』によれば、桐材では、次のような桐製品が生産されていたという。
  硯箱、箪笥、文庫、長持、枕、茶箪笥、箱火鉢、本箱、菓子折、素麺箱、小箱、下駄、重箱、
 かつては、キリは生活に密着した材であったことが理解できる。
 個人的な事例ばかり並べ立てて恐縮だが、今は亡き私の母は、昭和14年(1939)に父の許に嫁いできている。二人は東京で生活を始めており、私は東京で産まれている。その母が、花嫁衣装を着て、持参した嫁入り道具の前で家族と撮した写真が今も残っている。そこには、当然のように桐箪笥が見られる。その桐箪笥は現在も我が家で健在である。もう70年以上も使用されているが未だに傷んではいない。昭和20年(1945)3月に、東京の家は空襲で見る影もないほどに焼失してしまった。幸いにして、家財道具は防空壕の中に収納されていたので、母の桐箪笥も中の衣装も難を逃れることが出来たのだった。両親は、何処から見つけてきたのか、リヤカーに残された家財道具一式を積み込んで、東京から群馬県の館林まで歩いて移動したのだった。終戦直前の4月のことだった。昔の人は、立派だったとしみじみ思う。とても東京からこの地まで徒歩で移動しよう等とは、まるで想像も出来ない事態だ。しかも、幼子と乳飲み子を抱えての移動である。
 ところで、母の桐箪笥は、今から30年ほど前に、専門家に依頼して表面を削り治して貰った。永年使用したために、表面が大分くすんだ色合いに変化してしまったからだ。昔は、家屋内で、炊事や暖房に火をたいたものだから、どうしても煙に包まれることになる。そこで、柱や天井板ばかりではなく、家具も変色してしまったのだった。削り治した桐箪笥は、まるで新品をあつらえたかのように見事な白色によみがえったのには、とにかく恐れ入ったものだった。これも桐材の大きな魅力の一つなのかも知れない。70年以上も使い続けても、未だに健在であり、この分で行けば、十分に100年は持ち持ち堪えそうである。
 キリは漢字で「桐」と表記されるが、この文字は、広い意味では、中国に自生の見られるキリが七種ほどあるがその総称ということになる。狭義では、シナギリとも呼ばれるココノエギリ(Paulownia fortunei)を意味することになる。ココノエギリの中国名は正確には「白花泡桐」である。我が国で一般的にキリと呼び、上述のような各種の桐材として用いられているキリの学名はPaulownia tomentosaであり、中国名は「毛泡桐」である。
 「桐」という漢字の旁にあたる「同」とは、「筒型をしている」または、「突き通る」の意味を示している。胴体の「胴」も洞穴の「洞」も、また、「筒」も同様の意味が含められているということになる。キリの場合、柔らかい性質のため、突き通し易いのでこの文字が出来ている。似たような意味では、「桐」の文字の木偏を金偏に置き換えれば「銅」ということになり、金属でありながら柔らかくて突き通しやすいことを示している。(以上の「桐」の漢字に関しては、加納喜光著『植物の漢字辞典』(東京堂出版 2008年刊)より引用させて頂いている。)
 キリの学名を上掲したが、これはシーボルトによる命名である。属名のPaulowniaとは、ロシア皇帝パウロ一世の王女であり、オランダの王妃となったAnna Pavlovna(1795~1865)の名に因んでいる。彼女がシーボルトのスポンサーだったことは広く知られているところである。我が家には、シーボルトの『日本植物図譜(Flora Japonica)』の復刻本(講談社 昭和59年刊)があるが、その扉表紙には<献上 オランジェ公夫人にして ロシア大侯爵出身 アンナ パウロウナ 妃殿下に>と明記されている。つまり、シーボルトは、『日本植物図譜(Flora Japonica)』を報告書として彼女に献上しているだけでなく、キリの属名としても彼女の名を冠していたのである。
 種小名のtomentosaとは「密に細綿毛がある」の意であり、葉に細かい毛が密生していることを示している。 ところで、欧米諸国ではキリは属名のPaulowniaのままで通用している。上述のように、それが人名からということもあるのだろうか。また、英名では、Empress Tree, Princess Treeの別名もあるが、当然これはAnna Pavlovnaの名に因んでいることになろう。その英名も、ドイツ語でのキリに対する別名Kaiserbaumが語源であるようにも思える。
 因みに、欧米では、キリの用材としての有用性よりも花姿に関心が寄せられ、街路樹などとして観賞用に植栽されている。キリがいつ頃西洋社会に渡ったかについては正確な資料を得られなかったが、春山行夫著『花の文化史:花の歴史をつくった人々』(講談社 1980年)によれば、1834年にパリ植物園に伝わっているという。
 キリは、我が国では、天皇家の紋章になるほど高貴な植物扱いを受けていると上述してあるが、思えば、キリもキクも両者共に純粋の日本産の植物ではなく中国からの渡来植物でありながら、その両者が皇室の紋章として用いられたというのも中国からの思想が文化的にも大きく影響を受けていると考えられる。
 だが、文学関係では、意外にキリは登場しない。たとえば、キリの花を詠んだ歌といえば、古歌には見られないのだ。桐の花が歌に詠まれるようになるのは連俳の時代に入ってからと言うことになる。元々が「桐」は秋の季題に収められていたからなのかもしれない。俳諧の世界では「一葉(ひとは)」・「一葉(ひとは)落つ」・「一葉(ひとは)の秋」・「桐の秋」などという秋の季題が用いられるが、これらは、『新古今』の頃からキリに秋の意を感じ取っていることに因しているようだが、そもそもは、中国の有名な慣用句である淮南子の「一葉落つるを見て、歳の将に暮れんとするを知る」に端を発しているといえよう。ただ、この場合、本来的には、キリではなくアオギリであったのだった。ここでもまた、我が国ではキリとして受け入れてしまっていることになる。我が国では、今や「桐一葉」と云えば、単に秋のさびしさやわびしさを意味するだけではなく、やがて訪れるであろう凋落の前兆として定着をみることとなっている。そうした意味での典型としては、坪内逍遙の戯曲『桐一葉』が挙げられよう。逍遙は、その中で、かつては、足利尊氏や織田信長などと等しく天皇から桐の紋章を頂戴したほどの豊臣秀吉の凋落ぶりとその老将片桐且元の悲劇を描いているのだ。
 「桐一葉」とは別に、『桐の花』と云えば、北原白秋の最初の歌集を想起する。白秋が姦通罪で告訴され、当時のマスコミから大々的にスキャンダラスな事件として報道され、彼の名声は必然的に地に落ちてしまったのである。その後、何度も結婚・離婚を繰り返し、かつまた、九州の実家が倒産の憂き目に遭い彼を頼って上京する等と暫くは清貧の日々を余儀なくされることとなるのだが、そうした生活の前触れのようにも、歌集のタイトルに『桐の花』としたことにも、何処か「一葉落つ」の心情と相通ずる物があると受け止められるが、そこまで申しては独断と偏見に過ぎないとのお叱りのメールがあの世の白秋氏から届いてしまうのだろうか?
 随分前の話であるが、埼玉の伯父の法事の後で、伯母が風呂敷包みを持ってきて、私の前で開いて見せた。そこには、立派な桐下駄が包まれていたのだ。
  「これはね、お前のお父さんが自分の手で作って、持ってきてくれたものなんだよ。」
と、伯母は説明してくれた。
 そう言えば、東京から父の故郷であるこの地に戻ってきたばかりの頃、我が家は農家ではなかったので、仕事を得られなかった父は家で過ごしていたのだったが、ある日、冒頭に述べた我が家のキリの木を切り倒したのだった。そして、それを乾燥させ、やがて、土間で何足もの下駄を作ったのだった。下駄が仕上がると、父は何処からかカルカヤを採取してきて、それで下駄の表面を磨いていた。すると見事な光沢が出てきたものだった。やがて、何足ものその下駄は一足減り、また、一足減りと、我が家からは姿を消していった。家族は、父が何処かで売ってきたものと思いこんでいたが、金の工面に行くのに、手ぶらでは行けないので、自分で作った下駄を持参したのだということが、伯母の言葉から理解できたのだった。
 今では、我が家では、キリの木を見ることは出来ない。何時の間にか姿を消してしまっている。
 蛇足:まるで関係のないおまけ                          
 今回は、資料をあれこれと調べるのに大分手間取ってしまった。そこで、寒い時期でもあり、パブロ・カザルスの全集を連続してCDで聴いた。チェロの音色はとても暖か味を感じさせてくれる。そして演奏者のカザルスの伝記を読んで以来、彼の不屈の精神が音楽にも奥深く込められているようにも思えてしまい、思わず敬虔な心情に至ってしまう。バッハの無伴奏チェロソナタは、これまでに何度聴いたことだろうか。美しい音楽と美しい音色を聞き流している自分は随分贅沢な時間を過ごしているようにも思える。
 H21.01.10