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フキ(蕗)について
        思ひ出し思ひ出し蕗のにがみかな  路通
 フキセリミツバウドワラビゼンマイタラ等は、今では、生産もされ、スーパー等でも店頭に見られるようになった。しかし、個人的なイメージとして、野菜というよりも、山菜と野菜の中間的な印象が強い。特にフキは、昔から、庭の片隅によく見られたものだった。日当たりが良くても、あまり日の当たらない場所でも、どちらでもよく育つ。愛知県辺りには一大生産地があると云うことであるが、やはり、山菜的なイメージを払拭できない。何よりも、フキを栽培したという意識がないからだ。ずっと昔に、ご先祖様が植えたのかもしれないが、フキを植えるという作業すらも経験がない。それでいて、フキは身近に絶えず存在している。わざわざお店に買いに行かなくても、いつでもフキは採取が可能なのだ。ワラビやゼンマイ等は如何にも山菜というイメージが強い。ウドやタラも山菜と言えるだろうか。だが、野山に出向かなくても、フキは庭先あるのだから、山菜というイメージには幾分ほど遠い。フキに限らず、ニラやミツバ等も同様である。日本語で、こうした野菜と山菜との中間的な存在の植物を言い表す適当な言葉があるのだろうか?情けないことに私のヴォキャブラリーの中には見当たらない。
 フキは日本・朝鮮半島・中国等の東アジアに広く分布するキク科の野草である。フキの学名は、Petasites japonicusであるが、属名を表すPetasitesとは、ギリシャ語のpetasos(=つば広の帽子)を語源としている。つまり、フキの葉姿からの命名である。
 「フキ」という和名は古名の「フフキ(布布木・布布岐)」からの転訛であろうと推測される。
 ところで、フキに対する漢字表記は「蕗」であるが、これは、我が国における漢字表記上の誤用ということになる。本来的に「蕗」という漢字はカンゾウ(甘草:マメ科)の異名だからだ。何故、我が国でフキに対して「蕗」の漢字を用いるようになったのかについては、加納喜光著『植物の漢字辞典』(東京堂出版)に次のような記述が見られる。
 
日本では蕗を新撰字鏡や倭名類聚鈔でフフキ、類聚名義でフキと読ませている。この訓は誤読と考えにくい。(中略)フキは、雨露を裂ける傘の代用になるので、フキの漢字表記として「露」の略体の「路」に草冠を添えた蕗を新作したのではあるまいか。なお、フキには苳の漢字表記もある。(中)苳はフキの漢名とされる款冬の冬に草冠をつけた和製漢字であろう。筆者は蕗も苳も半国字と見る。
 納得の行く説明と思えるのだ。
 更に上掲の引用文に登場した「款冬」であるが、こちらは、今日ではフキの異名扱いになっている。この「款冬」も、本来的にはフキではなく、等しくキク科のフキタンポポの漢名なのである。葉姿がとても似ているので、これまた我が国で誤用してしまったものであろう。この「款冬」については、『朝日百科 世界の植物』の<フキ>の解説文の中に、北村四郎博士の次のような記述が見られた。
 
「款冬」はフキタンポポのことである。この誤りは江戸時代まで続き、咳の薬とした。(中略)蕗という漢字は本来他の植物を示すものだが、日本でフキの読みをあてた。
 つまり、かつてカエデに楓を誤用したと同様に、フキタンポポと葉姿が似ていることからフキに対して蕗の漢字を誤用してしまったものと推測される。だが、ここで、果たして「蕗」なる漢字に「フキ」の読みを充てたのはいつ頃のことなのだろうかという疑問が生じる。つまり、いつ頃からフキに対して「蕗」という漢字表記をするようになったのだろうかということである。北村先生のお言葉を額面通りに受け止めれば、そして、上掲の加納喜光教授の説とを併せると、江戸時代以降に「蕗」という半国字が登場したのだろうか。
 参考までに、フキの漢名は「蜂闘菜」である。
 数日前に、妻が庭で蕗の薹を探していた。小さな籠に一杯採ってきた。そしてその夜は、今年初めての春の味が食卓に上ったものだった。
 そういえば、随分昔から、蕗の薹を見ると冬が明けたのだなと思い、ツワブキのあの黄色い花を目にすればいよいよ冬の到来かという個人的な季節感覚が定着してしまった。俳句歳時記を開くと、蕗の薹を読んだ句がたくさん目に入る。誰しもが、蕗の薹の発見から春を実感しているようだ。特に、雪国の場合等ではその感覚はより一層強まることだろうと推測される。先年、長野県の白馬村を訪ねた。5月のゴールデン・ウィーク期間中だったが、ホテル前のスキー場には、雪も消え去ったゲレンデに大きな蕗の薹が立ち上がっていた。私の住む地域とは凡そ2ヶ月程の時間差はあるが、まさしく春だなという実感を得たものだった。我が家では、庭先に蕗の薹が見られるような頃には、丁度カタクリが開花する。また、ヒトリシズカ等も白い花穂を見せるようになる。上述の白馬でも、カタクリやザゼンソウ等がみられた。特に、落葉樹の下に一面に開花しているカタクリの群落は見事だった。
 以前、北海道で道端に生えているフキを目にしたことがある。思わず車を止めて降りてみた。とにかく大きかった。アキタブキだろう。幼い頃から見慣れて来たフキとはあまりにも大きさが異なるのには思わず圧倒されてものだった。アキタブキと言えば、本場で栽培されているものを見たことがある。草丈の高いことにこれまたびっくりしたことものだった。このアキタブキの場合、暖地の場合には、あのように大きくはならないのだという。
 また、ツワブキは、アキタブキとは対照的に暖地性の植物である。フキはキク科フキ属に分類されるが、ツワブキはフキとは属を別にしてキク科ツワブキ属として別に分類される。ただ、葉の形状等はフキに似ていなくもない。しかも、ツワブキの自生地に住む人々は、フキと同様にキャラブキ等にして食用にするという。フキの場合は、茎が中空であるが、ツワブキの場合には、中空とはならない。フキよりも幾分硬さがあるという。
 上にフキの薹について触れたが、フキは雌雄異株の多年草である。つまり、雄株と雌株とに分かれていることになる。特に雌株は、花後には40~50㎝程度まで伸びる。しかし、繁殖は専ら地下茎による。地下茎は網の目状に四方に広がりを見せる。ところで、フキの薹とは、春に葉が出る前に出てくる花蕾群で、20~30個の頭状花が散房状に1本の茎についたものである。このフキの薹を昔から日本人は好んで食用にしてきたが、雄株よりも雌株の方が味がよいと昔から云われている。このフキの薹は、ほろ苦い味を持ち、それが好まれてきたことになる。
 このフキという植物について調べて見ると、文学関連の古典にはほとんど登場しない。江戸期の俳人達の句集に登場するのが最初と云うことになる。短歌や俳句の世界で、本格的にフキを詠むようになるのは現代に入ってからのようである。これも不思議なことだ。フキはさほど珍しい植物ではないからだ。しかも、食用としても、民間薬としても、フキは長いこと用に供されてきた筈なのである。にも関わらず、フキは文学作品には登場していない。俳句や短歌の世界でも、多く詠まれているのは「蕗の薹」を詠んだものが圧倒的に多い。やはり、厳しい冬からやっと抜け出ることが出来たという実感からなのであろう。フキそのもの、フキの葉を詠んだ俳句や短歌は無いわけではないが、やはり少ないと言えよう。
        母の年超えて蕗煮るうすみどり  細見綾子
 上に挙げた細見さんの句はよくその心情が理解できるように思う。昔は、亡母がよく蕗を煮ていた。子どもの頃にはあの苦味のある食べ物があまり好きにはならなかったものだが、不思議なことに年老いてみると、逆に、あの苦味こそがフキの味のように思えて好ましくもあり、また、懐かしくもあるように感じられるのだ。店頭で販売されているフキの場合、あの独特の苦味が無いだけに、あまりにもお上品すぎて、何か物足りない感じを受ける。やはり、苦味のあるフキが本来的な味のように私の脳には刷り込まれてしまっているようだ。また、蕗の薹の場合にしても、あの苦味が無ければ少しも春を感じられないように思うのだ。たとえば、私の場合、苦味のある蕗の薹を蕗味噌などにした場合、その苦味が何やら一種胃薬にも共通するような味覚として脳に届くのだ。民間薬や漢方の世界ではどうなのかを調べて見ると、私の根拠の無い感覚はどうやら間違っていなかったようで、フキの効用の中に「健胃」も含まれていた。
 今では、我が家では妻がフキを煮ている。恐らく上掲の細見綾子さんの句のような心情を持って料理しているのかもしれないが、一度も尋ねて見たことはない。
 ところで、フキを彩り美しく煮るためには、熱湯に根本の方から素早く入れて、蓋をして、熱湯からフキが出ないようにして茹でることが肝心である。上掲の細見さんの句にも見られるように、お湯の中で青緑色に変化してきたら、即座に水で冷やすようにする。この場合、空気に触れた部分があると、茶色く変色してしまうので気をつけたい。水で冷やしたら、根本の部分(つまり、太い方)から皮を剝いて行く。皮があると味も悪いが、歯切れが悪くなってしまい食べずらいからだ。ここで、注意したいのは、茹でる前に皮を剝くと、フキはあくが強いので、御自身の爪が真っ黒になってしまうので、必ず茹でてから皮を剝くようにしたい。
 個人的には、上述のようなフキの茎の部分を似たものも好きだが、葉を細かく切って、それを佃煮風に煮付けたものも好きだ。温かいご飯で食べるのも良いのだが、個人的には、お弁当に入っているものが好きだ。
 蛇足:まるで関係のないおまけ                          
 今日は、穏やかな一日だったので、スメタナ弦楽四重奏団の演奏を聴きながらタイピングした。音源はCD。内容は、ハイドンの「ひばり」、モーツアルトの「不協和音」、ドヴォルザークの「アメリカ」、チャイコフスキーの「アンダンテ・カンタービレ」である。何故か、私は、ハイドンの「ひばり」が好きだ。以前には、朝、通勤の途上に、この「ひばり」を聴きながら出勤すると、この曲が一日中頭の中に残っていて、いつも爽快になるのだった。今回も、いつも同様に気分爽快にパソコンに向かうことが出来た。
 H.22.3.21