ユリ(百合)について | |
私が初めてユリの花を見たのは、忘れもしない昭和20年(1945)の夏のことだった。 その年の3月に、東京の我が家は空襲で跡形もなくなってしまったのだった。そこで、亡父の生まれ育った現在の地に家族で引き上げてきたのだった。4月の上旬のことだった。 そして、その年の夏に、自宅の敷地内で、右に掲示したオニユリを初めて目にしたのだった。誰もが「オニユリ」等とは呼ばずに、単純に「ユリ」と言っていた。だから、ユリの花は赤いものと思い込んで育ったものだった。このオニユリは、我が家ばかりではなく、隣近所のどの家でも見られた夏の典型的な花だった。当時は、未だ茅葺き屋根の家々が多かったものだが、面白いことに、屋根の上にこのオニユリが開花している光景を何度も目にしたものだった。子どもながらに、何故、屋根の上にユリが生えるかについては少しも疑問に思わなかった。オニユリは、ムカゴでも増えることを見知っていたからだ。 |
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上述のオニユリは、今も我が家に見られる野草である。開花後にムカゴが落ちて、翌年になると、その周辺にたくさんの発芽が見られるのだった。子どもの頃から毎年見慣れているので、分かったことは、発芽後年数を経過する毎に、一本の茎につく花の数が多くなるということだった。ただ、あまりにも増えすぎてはいけないので、今では毎年数本ずつ撤去している状況にある。そして、様々な園芸植物がどちらのご家庭にも行き渡るようになってしまった今日では、我が家の周辺でも、あまりオニユリの姿を見かけなくなってしまったように思える。 | |
当時、学校では給食というものが無かったから、誰もが弁当を持参して登校したものだった。終戦直後の頃は、タケノコの皮にお握りを包んで持参する者、木製の弁当箱を持参する者等と様々だったが、やがて、我が国の経済も復興に向かうと、金属製の弁当箱が主流となった。アルマイト製の弁当箱だった。その当時、何故か女の子の弁当箱の上蓋にはユリの花の絵が描かれてあったのを今も記憶している。何故、それが記憶に残ったかというと、そのユリの花は、見慣れたオニユリのように赤くはなくて、白かったのだ。しかも、オニユリのように花弁が外側に反転することはなく、どの絵もほぼ平開に近いような描き方であった。右の写真の中央に写っているユリのような花姿であったとように記憶している。(しかし、記憶が不確かであり、或いは、それはカノコユリであったのかもしれないようにも思えて来るのだが・・・。)当時、そのユリの花の絵が描かれた弁当箱を持つことは、女の子達の憧れだった。そして、花姿から、誰もが自宅で見るオニユリとは花弁の色がまるで違っていても、だれもが、それをユリの花と思い込んだものだった。 |
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亡母は茨城県の海辺の村で生まれ育ったのだった.。母の生まれ育った地では、ユリの花は白くてもっと大きかった。そして何よりも良い匂いがしたと言っていた。ヤマユリと言う名であることも教えてくれた。海辺の村でもヤマユリとは妙な名前だな程度に聞き流していたのだった。それはそれとして、実際にヤマユリと対面できた時には、確かに母の言うとおりだなと頷けたものだった。何処か、清楚で、優雅で気品に溢れているようでもあり、とにかく立派に見えたものだった。その後、我が家の庭に見られるオニユリは色もどぎつく、何処やら野暮ったいイメージがつきまとうようになってしまったのだった。この「野暮ったい」というイメージは、或いは、茅葺き屋根の上に咲いていたりしていた思い出とつながっているのかも知れない。どう見ても都会的なイメージでは無い。だが、真夏に風に揺れる中、アゲハチョウ等が寄ってきたりすると、それなりに素朴なイメージもするのだった。 | |
かれこれ、20年ほど前に、市内にある県立美術館を見学に行った際に、裏庭に園芸植物が植栽されていた。その頃には、上述のオニユリやヤマユリ以外にもたくさんのユリの種類があることは承知していたのだったが、美術館の庭園で目にしたユリは、私には、初めて見るユリだった。近寄って名札を見ると、「タカサゴユリ(高砂百合)」とあった。聞いたことの無いユリだった。ただ、「高砂」というネーミングから、恐らく台湾のユリなのだろうと朧気ながら推測は出来た。遠目にはテッポウユリのようにも見えるユリだった。ただ、私の知っているテッポウユリとは、葉が大きく異なっていた。薄くて、長い葉だった。それに、テッポウユリは白一色だったが、このタカサゴユリは花筒の外側に小豆色の模様が入るのだ。 美術館の庭園から戻って自宅で調べてみると、間違いなく台湾産のユリだと言うことが分かった。、その時点では、外来の園芸植物とすっかり思い込んでいた。(多分、最初はそうだったのかも知れない。) |
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このタカサゴユリ、その後、市内のあちこちで目にするようになった。いずれ我が家にもやってくるだろうと思って過ごしていたら、案の定、我が家の庭にも登場した。それが良いことか、悪いことなのかは別にして、見てくれは悪くないので、放置して居た。その年の晩秋に、果実が割れているのを見て驚いた。中に無数の種子が入っていたのだ。しかも、その種子は、扁平で、とても軽く、ちょっとの風でも何処にでも転がって行くのだった。更に、その種子は、自分が落ち着いた場所で発芽をするのだった。たとえば、そこがコンクリートの割れ目であったりしても発芽をする。これでは増えるのも当然だろうと納得したものだった。 | |
その2、3年後にお隣のお店に勤務する女性が、休憩時間に、我が家の庭でタカサゴユリを目にして、私に聞いた。 「それは何百合ですか?」 と。 「タカサゴユリです。」 と私が応えると意外な言葉が返って来た。 「あ~、一番最後に咲くユリね。」 と言ったのだった。 その年、注意深く見守っていると、確かに、秋も深まってからも開花を見せてくれていた。 当時、私は、東京・埼玉・群馬の3箇所に勤務していた。 特に都内は、私の住む群馬県と比較すると、冬場は寒さが内場だと感じていた。 ある日、気がつくと、勤務地に向かって駅からあるいていると、ある家の庭にタカサゴユリが見えた。それは、1週間後にはクリスマスを向かえようという時期だった。つまり12月のことだった。タカサゴユリが花開いてたのだった。その時に 「一番最後に咲くユリ。」 という言葉を想起したものだった。 ところで、このタカサゴユリとは、台湾産のユリだと上に述べた。だから、暖地生のユリと私は思い込んでいたのだったが、とても寒さに強いことが分かった。真冬になっても、葉の色が大分黒ずんでは来るものの、越冬をしてしまうのだ。ある年、雪が降ったが、その雪が溶けると、そのまま生きていた。茎の下部についた葉は液状化して真っ黒になっていたが、上部の葉はやがて、春を迎えるまで生き残っていた。開花してしまえば枯れてしまうのだが、開花前の茎は越冬してしまうのだった。上に述べた種子の多さと言い、その軽さと言い、加えて、越冬が出来るという生命力、繁殖力が凄いのは当然だなと思ったものだった。 |
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タカサゴユリが台湾産だと上には述べた。冒頭には、戦後間もなく、我が家の近くでは、どの家にも、オニユリが見られたと述べた。このオニユリ、様々な書物では、確かに我が国各地で自生が見られるとの記述が見られる。だが、牧野富太郎著『牧野 新日本植物図鑑』(北隆館)の中で、牧野博士は次のように述べておられる。 「おにゆり(てんがいゆり) 山野にはえる多年生草本で、また食用として栽培もする。もとは支那(ママ)原産で、野生状態のも のから逸失したものと考えられる。」 タカサゴユリ同様にオニユリも外来植物だったのだ。タカサゴユリの場合は大正末期(1920年代)に観賞用に導入されたとされている。だが、オニユリの場合にはいつ頃渡来したのだろうか?どの書にも「古い時代に」と記されているだけだった。『牧野 新日本植物図鑑』をひもとくまでは、それが外来の植物であるとはすこしも疑うことはなかったのだった。食用として導入されたということは、我が国と隣国とが文化交流が行われるようになってからと推測される。 オニユリの場合、タカサゴユリと大きく異なる点がある。それはどの植物の書にも見られるように3倍体の植物のため結実はしないのだ。だが、タカサゴユリの場合にはつけることの無い零余子が葉腋につくのだ。それにしても、オニユリが全国的に普及を見たのは、零余子だけが要因とは言えそうになさそうだ。他の要因とは、やはり、食用作物として人為的に広まりを見せたものと思われる。 |
我が国には、サクラ、ツツジ、ユリ等という言葉がある。どれも特定の植物を示す名前ではないが、それでいて、誰もが、それがサクラであり、ツツジであり、ユリであると言うことは自ずと分かるのものだ。 だが、果たして、「ユリ」は何故「ユリ」と名付けられたのか?何故「百合}と表記されるのか?この両者について調べてみた。 ユリの語源については様々であり諸説が入り乱れていた。 a 我が国の古典でユリが最初に出てくるのは『古事記』(712)である。神武記に、皇后選定時の逸話 が記載されている。そこには、「山由里草の本名は佐韋(サイ)というと記載されている。 b ほぼ同時期の『日本書紀』では「百合」と表記されていた。 c 貝原益軒著『日本釈名』(1700)では「百合、ゆすりと云ふ意、すを略す。くき高く花大にしてゆする也。 ゆするとは動くを言ふ」としている。 d 同時期の新井白石著『東雅』(1719)では「百合と云シコトハ、日本紀ニ見エタル処ニ拠ルニ、高麗、百済ノ地方に呼ビシ所ト見エタリ」としている。 e 明治期の大槻文彦著『大言海』では「古名ハ佐韋(さい)にて、ゆりハ韓語トモ云フ。或ハ云フ、花大キク、茎細ク、風ニ揺レバ云フカト。」 f 谷川士淸編『和訓栞』(1777~1887)では、「ゆり、百合をよめり。花大に茎ほそくて、風にゆるもて名づくるべし」としている。 g 松岡静雄著『日本古語大辞典』(1929)では、「ユラ(揺)ノ転呼カ」としている。 h 松田 修著 保育者カラーブックス97『万葉の植物』(1966)では、「万葉にユリとあるのはヤマユリをさすものである。さゆり、サユルとあるのも同物で、このサは接頭語と五月の意とも解釈されている。」としている。 i 『岩波古語辞典』(1974)では「ゆる(百合) <ゆり>の上代東国方言」としている。 j 深津 正著『植物和名語源新考』(1976))では、次のように述べている。 深津先生は、先ず、上掲dの新井白石が『東雅』の中で、根拠を朝鮮語に求めている点に同感であるとしている。更に続けて、次のようにも述べておられる。 「私は、かねて、ユリは朝鮮語のnariの転じたものであると考えて居る。朝鮮語でのnariはユリ属の一般名称である。(中略)『万葉集』にユリを詠んだ歌が11種あるうち8種は「さゆり花」もしくは「さゆる花」として詠まれている。これらの語は、古来の万葉学者によって、「早百合花」もしくは「小百合花」であるとか、或いは、「さ」は単なる接頭語で意味は無いとか色々説明されてきたが、私は、この「さゆり花」の「さゆり」は朝鮮語のTcham-nariが転じたのではないかと思っている。「真」は古代日本語では「さ」である。更に『古事記』にヤマユリの古名の元の名を「佐韋」としているのは、「さゆり」から転じたものと見ることも出来る。最後に、本来オニユリの朝鮮名であったTcham-nariに基づいて、「さゆり」が、一方では「さい」となり、さらに「さ」が脱落して「ゆり」となり、いずれも一般名として使われたというふうに解釈できないだろうか」と締めくくっている。 k 松田 修著『古典植物辞典』(1980)では、「『万葉集』には、ユリ、サユリ、サユルの名でよばれているものが多い。このサユリのサは接頭語ともササユリの転じたものとも解釈されているが、これは、サツキ、サミダレのサと同じく接頭語見るべきで、サユルはサユリの転じたものと考えられる。」としている。 l 中村 浩著『園芸植物名の由来』(1981)では、「ユリは日本では『古事記』にも出てくるが、古名をサイ(佐韋)という。『日本釈名』には、”ユリ、ゆすりと云ふ意、すを略す。くき高く花大にしてゆるす也。ゆするとは動くを云ふ。”とあり、『和訓栞』には、”ゆり、百合をよめり。花大に茎ほそくて、風にもゆるもて名づくるべし”とある。ユリの名の由来は、この「揺り」から出たものと思えるが、まだはっきりしない。」としている。 m 新村 出編『岩波 広辞苑 第三版』(1984)では、「ゆり 百合 揺(ゆり)の意か」としている。 n 木村陽二郞監修 植物分化研究会編集 『図説 花と樹の事典』(2006年)では、 「和名由来」 ① 茎が細く花が大きいため風に揺れるところからユルの意味。 ② 茎が高く花が大きくゆすることからユスリの略。 ③ ヤヘククリネ(八重括根)の意味。 ④ 花が傾くところからユルミ(緩)の意味。 ⑤ 朝鮮語nariの転。 ⑥ 鱗片が「より」重なるところから転じてユリとなった。 としている。 現在の私には、どれが正しいかを判断するだけの知識は無い。ただ、深津先生の考えには頷ける点があると思えた次第である。 |
漢字表記の「百合」に関しては、どの書も鱗片がたくさん重なり合っているからという説明で一致している。中国でユリの名が最も早く書誌に現れるのは、中国最古の本草書『神農本草経』(1~2世紀とも、2~3世紀とも云われているが、年代は詳らかでは無い。同書の中では「百合」の薬効について述べられている。この中国名の「百合」を我が国でも用いて表記し、その読みを「ユリ」していることになる。因みに、「百合」の漢方名は「バイホウ」となる。 |
学名では、ユリ属はliliumと表記されるが、語源は、ケルト語のli(=白)を語源としているラテン古名からと言うことになる。li(=白)とlium(=花)の合成語ということになる。ヨーロッパで白いユリの代表種と云えば、マドンナ・リリー(Madonna
lily)ということになる。学名では、Lilium candidumである。このマドンナ・リリーは白色であったことから、西洋社会では「純潔」や「清純」等の象徴として宗教上でも、文学的にも、芸術的にも扱われるようになっている。 ユリの各国語は次のようになる。 英語:Lily 仏語: Lis 独語:Lilie 伊語:Giglio 西語:Lirio 葡語:Lírio この花の白くて清楚なイメージから、各国でも女の子の名前に用いられることが多い。 ユリのヘブライ語名はSusannah(スザンナ)というが、これから、Susan(スーザン)、Sue(スー)、Susy(スージー)などの名が生まれている。また、英名では、Lilian(リリアン)等もある。 我が国でも「百合子」という名が同様と言えよう。 詩人の新川和江さんのエッセイ『イヴの涙?』のなかに次のような文があったのを記憶している。 「日本でも、ユリのように清純であれ、美しくあれと願って、女の子が生まれると、この花の名をとって命名する習慣がある。 しかし、昔の女学生たちを夢中にさせた少女小説の中でも、「百合子」という名で呼ばれるのは上流家庭のお嬢様に限られていて、小間使いや、貧しい家の娘には、まちがってもこの名はつけないのだった。」 小学館発行 『花のうた:花の俳句 短歌 詩 2 夏』(1990年 P.53) 言い得ているように思えるのは私だけだろうか?親戚筋にも、同級生の中にも、同名の存在がいたものだ。 そう言えば、女優の吉永小百合さんだって、そんな「清純」というイメージがあるし、今もそのイメージを維持しているように思える。 |
ユリの語源の項でも述べたが、『古事記』に登場する。神武天皇がユリの咲き乱れる平城京の狭井川の畔で伊須気余理比売命を見初めて皇后にしたという物語の下りがある。それを今に伝えているのが、奈良の率川(いさかわ)神社の三枝祭り(ユリ祭り)であることはよく知られているところである。 ところで、我が国の古典書を見ると、このユリという植物、意外に日本人からは注目されてこなかったような印象を受けた。『万葉集』には11首が詠まれている。その後、『源氏物語』では「三枝」とか「さゆり花」の言葉が登場する。『万葉集』の頃に和歌の素材として詠まれたユリはその後、平安時代には詠まれることは無く、『新古今集』の時代になって西行等によって詠まれているがあまり多くは見られない。『源氏物語』に登場すると上記したが、同時代の『枕草子』はどうやら見られないようだ。俳句の世界でも、一茶や蕪村、千代女などの句には見られるが、大御所芭蕉の句には見られない。どうも妙である。ユリの花は我が国の野草の中でもかなり大形の花をつける。特にヤマユリ等は花径は10~20㎝程度もある大形の花であり、芳香もある。かなり目立つ筈なのである。どうして文学の世界に登場が少ないのか些か奇異に感じたものだった。一方で、本草書の類ではたくさん登場している。更に、絵画の世界でも、襖絵や屏風絵にたくさん描かれている。我が国の紋章にもユリは用いられているし、茶花としても花材の一種とされている。だが、ユリは、文学の世界ではあまり多くは見られないのだ。栽培の面でも、鑑賞の目的で園芸栽培が行われるようになるのは現代社会に入ってからのことのようなのである。 |
我が国では、オニユリが中国から食用として輸入された旨上述した。そこで、我が家の蔵書の中から、料理関係書をひもといてみた。 先ず、本山荻舟著『飲食事典(全一巻』(平凡社 1958)を開いて見た。次のような記述が見られた。 球根は多量の貯蔵養分としての澱粉粒を有し、テッポウユリ、カノコユリ等は苦味を有し食用には不向きだが、ヤマユリは料理ユリの別名を持つほどで、、オニユリ、ヒメユリ、スカシユリなどは独特の風味があり、飢饉の時は勿論、平時にも種々に料理し食用に供され、その為に栽培もされる。『本草綱目』に「百合新なるは蒸して食し、肉に和してよし、乾きたるは粉にして餅となし食酢。人に益あり。」とある通り、その根は美味で、且つ滋養に富み、姿のまま蒸すか茹でるかして旨煮にし、或いは一片ずつ離して卵とじ、鍋物のあしらいなどに用い、特に婦女子に喜ばれるが、灰汁の強くないものはむしろ生から煮た方が美味しい。乾燥したのを粉にして麺に打ち、百合麺と名づけて賞美される。 更に、昭和5年(1930)に大阪時事新報社から『食味随筆 野菜百珍』と題され刊行され、現在は中公文庫にある林春隆著『食味宝典 野菜百珍』(中央公論社 1984)では、次のように述べられている。 百合は上品なるものにて、精進料理にも、ボタン百合、花百合などとその美しいすがたのまま用いられている。またその鱗茎を離して蓮花の如く散らして応用するもよし。出雲の産に大塊の百合あるもお、近来北海道の産をもって普通上品とされる。東北地方は、数年地中に鱗茎を養いその年数を経たるほど佳味なりとし、ことに越後の百合の名最も著る。 と、記述した後に11種類の料理名と調理法とが掲載されている。 我が家の蔵書の中では比較的近年の書としては、『食材図典』(小学館 1995)があるが、同書にはユリネ(百合根)として掲載され、次のような記述が見られた。 ユリ属の植物のうち球根に苦味の無いもの、少ないものを食用にする。オニユリ、コオニユリ、その中間種のワダユリ、タツタユリ、ヤマユリ等の球根を利用する。澱粉を多く含み、タンパク質もジャガイモの2倍ほどある。 オニユリは僅かに苦味がある。苦味のあるものは食塩水で洗い、薄酢で煮る。和え物、酢の物、油煮、きんとんにする。茶碗蒸しの具や百合ご飯にも使う。関西での利用が圧倒的に大。中国料理にも良く用いられる。 |
隣国の中国ではユリはどうなのであろうかと関連書をひもといてみた。以前、別稿「バラについて」のコーナーで中国の十二花神の中にバラも含まれているといると述べた。だが、ユリはその十二花神の中には含まれていなかった。中国の十二花神を紹介してくれているのは我が家の蔵書の中では 中村公一著『中国の花ことば:中国人と花のシンボリズム』(岩崎美術社) であるが、同書の中に、「ユリ」に関する記述は見られなかった。我が家の蔵書の中では、唯一次の書 繆文渭著 石川鶴矢子訳『中国の民話<野草編>(上下)』東京美術社だけであった。同書では、何故ユリが薬草として定着するに至ったきっかけのような内容が民話として出ていた。 お隣の国、中国でも、ユリは、薬草としては貴重な存在であったが、鑑賞用としてはあまり、注目を浴びてこなかったようである。日本の場合も同様の事情にあると言える。 |
一方で、西洋社会でのユリはバラにも匹敵するほどの存在であったようである。 阿部薫著『シェイクスピアの花』(八坂書房 1979)の中で、著者は、次のように述べている。 ヨーロッパではバラとユリは花の女王の座を競い合って来たが、どちらかと言えばバラは豊艶な女性美を、ユリは清純な女性蝦を象徴しているようである。 西洋社会で、ユリは、ギリシャ神話、ローマ神話や聖書にまつわるエピソード等々多数ありすぎて、ここに披露するにはあまりにも膨大な量である。加えて関連の書物は多数世に出回っているので、物臭をして割愛することにする。 現実に、ユリが西洋社会に登場した最初の例については、小林頼子著『花と果実の美術館:名画の中の植物』(八坂書房 201)で、次のように紹介してくれている。 探検家アーサー・エヴァンス(1851~1941)がクレタ島のクノッソス宮殿内で、南北通廊下から「ブリースト・キング」或いは「ユリの女王」と呼ばれるレリーフを発見している。紀元前1550~1500年頃に溯る作品と言うことである。クノッソスの北に位置する町アムニソスから出土した家からは3本の茎に白い花をつけるユリを描いた壁画が発見されているという。そのレリーフや壁画の時代から1400年ほど経過した紀元前1世紀のローマ時代に著された書物にユリの通話的起源が語られているというという内容であった。 その後、キリスト教の文化が定着するようになって以降、西洋社会では、ユリに対しては「純潔」であるとか「清純」のシンボルとして定着したのだった。ピーター・コーツ著 阿部薫訳『花の文化史』(八坂書房 1970)で、著者は、「ふるくユリが文学に現れるのは聖書の中でである。聖書に限って、ユリはバラよりも多く出てくる。」と述べている。そして、キリストやマリアに関連した宗教画の中で、ユリは決まって登場することとなったのであった。そして、そのユリの正体とは、マドンナ・リリー(学名:Lilium candidum 英名:White lily 仏名:Lis branc 独名:Weisse Gilgen,Madonna Lilie 和名:ニワシロユリ)であった。麓次郎著『四季の花事典:はなのすがた・花のこころ』(八坂書房 1985)によれば、このマドンナ・リリーは、永らく原産地が分からなかった。最近になって、パレスチナに原生地が見つかったと言う。因みに、このマドンナ・リリーは明和年間(1764~1771)に渡来したが一般には普及を見なかったと同書には記載が見られた。 マドンナ・リリーは原産地も分からず、加えて病気に弱いユリだったと言う。そこで、我が国のテッポウユリが西洋社会に渡ると、マドンナ・りりーに取って代わってしまったという。 |
とにかく、バラ、ユリ、スミレは、西洋の文化では欠かせない存在である。だが、そのユリも、観賞用に広く栽培されるようになるのは、そして、各種の育種が始まるのは、中国や日本の各種のユリが渡欧してからの頃からである。凡そ19世紀初頭以降と言うことになる。特に我が国はユリの種類も多く、注目され、輸出用に栽培が始まるようになるのであった。その辺りの経緯については、次の書物に詳しく書かれているので参照されたい。 1 春山行夫著『花の文化史』(講談社 1980) 本書では、あまりにも膨大な資料に目を通しておられる著者にほとほと頭の下がる思いがする。とにかく、エンサイクロペディストとは、春山氏のような御仁を表現するのではなかろうか。 2 Alice M. Coats著 白幡洋三郎・白幡節子訳 『花の西洋史<草花編>』(八坂書房 1989) 西洋社会のプラント・ハンターによる世界各地の植物がどのようにして西洋社会に定着したかが分かる書である。 3 A.W.Anderson著竹田雅子訳『花々との出会い』(八坂書房 1979) 本書の著者はニュージーランド南島のティマル植物園の園長である。園芸家向けに、馴染みの深い植物の歴史と文化を述べてくれている。 4 加藤憲市著『英米文学植物民俗誌』(研究社 1976) ヨーロッパ大陸とはまた様相を異にする文化史を事例を元に紹介してくれている。 この他にも我が家の蔵書の中には、多数関連書があるが、興味のある方は、下記頁を参照されたい。 植物文化史 |
冒頭に、オニユリ、ヤマユリ、タカサゴユリからこの回想録を始めた。この中で、オニユリは、西洋社会に渡ると、Tiger lilyと呼ばれ、一大センセーションを起こしたという。それにしても、可憐なユリの花に、「オニ」とか「タイガー」等という名が冠せられて、オニユリ自身は果たしてどう思っているのだろうか? 更に、ヤマユリからは、1970年代に、オランダで「カサブランカ」なる園芸品種が作出され、これまた世界的に注目を浴びている。 最後に、タカサゴユリであるが、我が家の庭に定着してから10年以上も経過してしまった。国立環境研究所の「侵入生物データベース」では、次のように警告している。 近年各地で繁茂しているが、花が綺麗なためなかなか駆除されない。少なくとも外来種であることを周知する 必要がある。 と。我が家でも、対処をしなければならない。 ところで、タカサゴユリは、花筒の外側の小豆色の模様が見られなくなってきた。近年我が国で、テッポウユリとこのタカサゴユリとの交雑により「新テッポウユリ」なる品種が作出されているが、それに近い花姿へと変化してきている。 最後に、西洋社会でのユリの中心的存在のマドンナ・リリーに関しては、生憎、未だ、お目にかかれたことが無い。写真から見た印象としては、テッポウユリとタカサゴユリとの中間のような花である。 |
このところ、梅雨時ということもあり、雨ばかり降っているので、外にも出られないので、久しぶりに回想録を記述してみた。だが、相手が植物文化史の上であまりにも偉大すぎて、途中で、西洋文化史の部分を省いてしまったのは不可だったと言える。ご容赦賜りたい。 |
蛇足:まるで関係のないおまけ 今回は、ジョルジュ・ムスタキの「異国の人」を聴きながらのタイピングだった。ムスタキは、一昨年に79歳で亡くなっている。Georges Moustakiをジョルジュ・ムスタキと日本的に読めば、フランス人と思ってしまうし、現実に、彼は、フランスで活躍したシンガー・ソングライターであった。だが、彼はの両親はギリシャ系のユダヤ人であり、両親がエジプトに亡命中に生まれている。そして、フランスで教育を受けている。彼は自分自身を「地中海人」と称していた。そんな彼の代表作だ。原題のLe Métèequeは我が国では「異国の人」と訳されているが、今風の日本語にすれば「外人(ガイジン)」ということにもなろう。まるで哲学者が呟いているような彼の歌は、タイピングには少しも邪魔にはならないが、若い頃の自分の生活を思い出し、しばし感傷にひったものだった。今回の音源はカセット・テープ。 |
H.27.07.10 |