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お茶についてのあれこれ
 「日常茶飯」という言葉があるが、お茶ほど身近な飲み物はないのではなかろうか。それだけに、あまり意識してお茶を飲むこともない。しみじみと美味しいなとか、有り難いなとか、とにかくそんな思いを抱くこともなく、ほとんど無意識に接しているように思うのは私一人だけだろうか。それでいながら、美味しいお茶に出会うと、確かに美味しいと思うし、不味いお茶に出会えば、これまた不味いなと思う。不思議な飲み物だ。
 だが、今は亡き母は、生前、お茶を飲む度に、
 「お茶が美味しいね。年を取るとどうしてお茶がこんなに美味しいのだろう?」
といつも言っていたのを思い出す。
 母の他界した年までには、未だ10年以上もあるが、確かに子どもの頃には殊更お茶を飲みたいとは思わなかったものだが、この年になると、やはり、食後に飲むお茶は美味しいと思う。典型的に和食大好き人間の私の場合、食後に、珈琲や紅茶は感覚的に宜しくないと感じてしまう。況してや、ジュースや清涼飲料水等は論外ということになる。ある時、仕事で新幹線に乗った時に、車内でお弁当を食べた。同行した私より一回りほど年齢の若い職員はお茶ではなくコカ・コーラを飲んでいた。横目でそれを眺めながら、不思議な人類を見たような奇異感を持ったものだった。だが、その人物と同世代の人々にとっては少しも違和感がないのかもしれない。もし、そうだとすれば、食後にはお茶が定番と考える人間は古い世代の生き残りと言えるのだろうか?
 我が国では、飲食店に入ると、先ず最初に、「お茶」か「水」が出される。その後に、注文がとられることになる。この場合、「お茶」か「水」が定番であり、これまで長生きしてきたが、「白湯(さゆ)」、つまり何も入っていないお湯が出ることは一度もなかった。やはり、白湯は薬を飲む時に用いるからなのだろうか?相手を病人扱いして、不快な念を抱かせてはいけないという配慮からなのだろうか?(それにしても、「白湯(さゆ)」等という言葉は現代でも生きているのだろうか?久しく耳にしていないし、目にもしていないような気がする。)それはさておき、不思議なことに、大人にはお茶が出されるが、子どもには何故か水が出される事が多い。年齢に関係なくお茶が出されるのはお寿司屋さんくらいのものだろう。
 ところで、この最初にお茶または水が出ると言うことに対して、有り難いとしみじみ思うことはあまりない。それも代金の中に入っていると思っているのか、それとも、お茶か水が出るのは当たり前と思っているのか、とにかく当然のように受け止めて、意識することもない。逆に、もし、お茶も水も出されなかったら、恐らく違和感を感じるのではなかろうか。
 だが、外国に行くと、お茶や水が出るのは当たり前ではなくなる。いちいち注文しなければならない。この時にしみじみと日本は良いなと思うことになる。
 ある年、タイのバンコクのホテルに滞在した時に、日本茶を飲みたくなった旨を妻に伝えると、ティー・バッグを持参してきているという。そこで、喜んで、早速お茶を飲もうとしたら、ポットが見当たらない。湯沸かしも見当たらない。そこで、部屋の電話で、お茶を飲みたいのでお湯を部屋まで持ってきて欲しいとオーダーした。すると、相手から金額を言われてぎょっとしたものだった。そのホテルは、バンコク市内でも指折りのホテルだった。日本では、ホテルの室内にお湯の入ったポットが置かれているのは当たり前であり、お茶も用意してあるのは当たり前のことである。その時に、ここは日本ではないのだと自分に言い聞かせてお湯をオーダーしたのだったが、ボーイが部屋に持参した時に、これまたチップをサービス料として支払わなければならなかった。外国では、自前のお茶ですら無料では飲めないものかと思うと、しみじみと自分がその時点ではエトランゼであることを思い知らされたものだった。
 
 上とは別の年に、シンガポールに滞在した時のことである。現地では、毎回食事時にジャスミン・ティーが登場したものだった。初めのうちには、そのジャスミン・ティーという日頃飲み慣れないお茶に接し、異国情緒を楽しんだりもしたものだったが、やがて、あの独特の強い香りについて行けなくなってしまった。帰りの飛行機の中でいよいよ日本茶が飲めると嬉しくなったものだった。搭乗した飛行機がシンガポール航空のものだったので、室内アテンダントには中国系のスタッフが多く見られた。そこで、
「有没有、茶?」(お茶はありますか?)
「有。」(ございます。)
「請
給我、茶」(お茶をお願いします。)
と中国語でお願いしてみた。その時に、私は、頭の中では日本茶をイメージしていたのだった。そこで、間違われるといけないと思い、「茶」の発音を自分なりに注意深く正確に発音したのだったが、運ばれてきたのは、あのジャスミン・ティーだった。まなじ中国語などでオーダーしたのが良くなかったと反省したものだった。これなら英語でオーダーするか、或いはしっかりと「日本茶」と言えば良かったと思ったものだった。帰国後、空港で、自動販売機のお茶を飲んだ時に、やはりお茶はこれに限ると自分一人で妙な納得をしたものだった。そして、自分が確かに日本にいるという安堵感を得たのだった。
 上には、中国語での失敗の事例を述べたが、台湾に行った時に、現地のお茶を飲んだが、これが大変だった。日本の煎茶のように、急須に茶葉を入れて、その上にお湯を注ぎ、そして湯飲み茶碗にお茶を注ぐといった単純な方式ではなかった。先ず目に付くのは、湯飲み茶碗も、急須もとにかく小さいということだった。まるで子どもの玩具のように小さい。あたかも大人がままごと遊びをしているかのようだった。そして、湯飲み茶碗も急須も、茶器のすべてにお湯をかけて温めるのだ。それを何度も繰り返して後に、初めてお茶が注がれるのだ。上に述べた、茶器が小さい理由は、現地の人に確かめてはいないのだが、恐らく、小さい方が温まり易いからなのではないかと個人的には推測している。とにかく、中国のお茶は、確かに味よりも香りが第一とされるようだ。手で香りを招いたり、茶碗の中のお茶を飲み込むのではなくすすり込むようにして口中に運ぶのだ。その時に鼻孔にお茶の香りが届くのを楽しみしているようだった。とにかくある一定の作法があり、時間も要することになる。その間に、集まった人々が会話を楽しむのだった。いずれにしても、中国茶に接して初めて「喫茶」という言葉の意味が理解できたように思えたものだった。日本にも茶道という立派なお茶の楽しみ方があるが、また、別の趣のあるお茶の楽しみ方だった。
 中国の茶器が小さいと上には述べたが、日本の湯飲み茶碗は、大人の手で軽く握るのに適した大きさのようだ。そもそも「茶碗」というのだから、本来はお茶のための「碗」ということになる。だが、今では、ご飯の「碗」も茶碗と呼ばれてしまっている。そこで、今度は、ご飯の茶碗と区別して、お茶を飲むための茶碗は「湯飲み茶碗」などという事になってしまった。実際には、「お湯」を飲むのではなく、「お茶」を飲んでいるのだが・・・。
 さて、湯飲み茶碗は、手に馴染みやすい大きさであると上には述べたが、茶道で用いる茶碗は、それより遙かに大きい。何故なのかを調べて見た。
 本山荻舟著『飲食事典』(平凡社)の<茶碗>の項には次のように記載されていた。
 「
室町時代に茶道が交流して好事家の趣味が広まると共に、「茶碗は高麗、茶入は唐物」と呼ばれて、最も重用された井戸茶碗は朝鮮南部の「韋登」が原産地なのを、日本でもわかりよく井戸の字を用いたのだという。濁白種の土に淡卵色の釉薬をかけた、これも至って粗末なものであったが、後には青磁風を加味した青井戸などと称するものもできた。日本ではいずれも「渡物」(わたりもの)と名付けて茶席の珍器と愛玩するが、実は天目も井戸も茶器として作られたものではなく、かつ朝鮮には喫茶の慣習がないから、井戸は普通の飯碗であったし、天目も濁り酒碗であったという。すなわち、日用の雑器であったのもを茶人が取り上げて珍重したのだが、(以下略)
 これで、茶道で使う茶碗が大きいことが分かった。元々は「飯碗」であったということである。
 因みに、上掲書には、喫茶に関する歴史や経緯についてかなりのスペースを割いているので、興味関心のある御仁は参照されたい。
 ところで、我が家では、妻は、湯飲み茶碗を購入する時には、形や大きさ、そして色合い等も勿論重視はするのだが、決まって茶碗の内側が真っ白であることを購入の条件としている。その理由は、お茶を注いだ時のあの何とも言えない穏やかな山吹色、この色合いも美味しさの要素であるというのだ。つまり、飲む前に、目でたのしめるというのである。時として、そこに茶柱が立っていて揺らいでいたりすると、昔の人の言い伝えの通り、その日には何か良いことでもあるかと期待したりもしたものだった。
 ここで、急に話が飛躍して恐縮であるが、そもそもお茶というものは、英語ではGreen teaと言われるように茶葉の色は緑である。そして、上述の通りお茶を注いでみると、今度は山吹色である。だが、「茶色」という色名にも茶は使われている。ある日、テレビと映画との比較の上で、「色の三原色」と「光りの三原色」の相違について講義した日に、話が脱線して、「茶色」とはなぜ茶色というのかを学生に問いかけてみた。学生達も不思議がっていた。結論は、染色の用語なのである。お茶で染めると、茶色になるのだという。試したことはないが、昔、紅茶で古くなった衣類を染めることが流行したことがあった。我が家でも母が、大きな釜にお湯を入れて煮立てて、紅茶で染めていたのを記憶している。私の記憶では、茶色ではなく、明るいブラウンだったように思う。しかし、日常的に「茶色」という言葉を使っていながら、お茶と茶色とは結びつかないのではなかろうか。
 昔、私の住む地域では、家屋の西側にはカシノキが植えられていたとは、別の項で述べた。だが、畑にあたる土地の西側には隣の敷地との境目はお茶の垣根だった。あまり樹高は高くない垣根だった。子どもの頃には、秋にお茶の白い花が咲く頃、その蕾を集めては竹鉄砲で遊んだものだった。今も、昔からこの地に住み着いているお宅の敷地には、お茶の垣根が見られるが、これは昔の人の知恵で、茶の木の特性を良く生かした利用方法だったと思うのだ。チャは常緑樹であり、刈り込みにも耐えるし、枝が細かく出て、しかも地面に近い部分にまで葉が出るのだ。そこで、単に風除けとしての機能ばかりではなく、余計な散乱物が、つまりゴミが畑に入ってこないことになる。例えば、落ち葉や、雑草の種なども入ってこないことになる。そのために茶の垣根が用いられたのではなかろうかと個人的には推測している。手入れも容易だし、枝があまり横に張り出さないので、樹形も整え易いのだ。
 ところで、ご近所のお年寄りが、毎年、5月頃、そのお茶の垣根から新葉を摘んで、大きな鉄板の上で焙じていたのを記憶している。熱された鉄板の上で、焙られている時に、とても良い香りがしたものだった。その頃は、まだ子どもだったので、日常的にお茶を飲む習慣はなかったのだが、その香りは親しめたものだった。その香りを楽しみたくて、その時期になると用もないのにそのお宅に出かけて、お年寄りとお話をして、少しでも余計にその香りを楽しんで行こうとしたものだった。いまでは、そんな光景もすっかり見られなくなってしまった。 
 私が最初に勤務したのは民間企業だった。そこに8年ほど過ごしたが、その間に、一度だけ、当時は未だ皇太子だった現在の天皇陛下がご夫妻で企業見学に見えた事がある。ご夫妻がお見えになる前に、社員の話題は、果たしてどんな飲み物をお出しするのだろうという事に集中したものだった。大方の予想は、「紅茶」ではなかろうかという意見だった。お二人が帰られた後に、接待にあたった社員に聞いて見ると、お出ししたのは「番茶」だったということである。事前に打ち合わせに見えた宮内庁の役人の方からの指示であったという。誰もが予想外の飲み物だったので大いに驚いたものだった。そもそも番茶とは摘み残しの硬葉で製茶されたものであり、高級というイメージからはほど遠い存在である。その後、社内の各家庭では、しばらくの間、番茶を飲む習慣がついてしまったりもしたものだった。
 最後に、以前ある社会学者が面白いことを述べていたことを披露してみたい。その学者の言うことには、近年我が国の地域社会におけるコミュニティが崩壊したのは、お湯を入れるポットなる文明の利器が出現したからだというのである。何やら「風が吹けば桶屋が儲かる」式の論法であるが以下の通りである。
 昔は、「言い継ぎ」なるコミュニケーションの方法があった。電話もない、印刷物も庶民にはほど遠い存在の頃には、「今月の○○日には、どこそこの道普請をするので、必ず各戸一名が午前○時までに○○に集合するように。」というようなことを、隣から隣へと伝言して行くのである。厭でもお隣に行かなくてはならない。また、そうした言い継ぎばかりではなく、誰かが尋ねてくると、とにかく先ずお茶を煎れたものだった。しかし、その当時は、先ずは七輪に火を起こすことから始まり、やがて鉄瓶の中でお湯が沸騰するまで待たなければならないことになる。その間に、あれやこれやと地域社会に関する話題が登場することになるというのだ。ところが、今日では、お茶を煎れるのにも、いつでもお湯がポットの中にあるので、時間を要することもなく済んでしまうと言うのだ。そして、回覧板や電話が出現するにあたり、face to faceの対話が無くなってしまったことにより、地域のコミュニティが崩壊してしまったのだというのである。
 その説の全てを良しとできないまでも、確かに、人と人とのコミュニケーションにお茶は必要な媒介であったという点については否定できないようである。
 蛇足:まるで関係のないおまけ                          
 今日は、とても爽やかな日だった。先日来、新聞にソニー・ロリンズ来日公演の広告が出ている。彼は、1930年生まれだから、今年の9月には80歳になる。凄いことだと思う。80歳で現役のミュージシャンだ。ジャズ界の巨匠達が次々とあの世へと旅立つ中、彼はまだサックスを演奏しているのだ。私は、1950年代のマイルス・ディヴィスやジョン・ルイスと組んでいた頃の彼の演奏が好きだ。今年、彼が来日しても、私自身の健康上の理由から、聴きに行けそうにもないので、今日は、彼のレコードやらCDやら、カセット・テープやらを掻き集めて聴きながらタイピングをした。彼に負けずに、私も頑張らなければ!
 H.22.06.07