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ナンテン(南天)について
 昨冬には一度も見られなかった雪が、今年は3回も降った。子どもの頃には、長靴を履いていても足りないほどの降雪も珍しくなかったのに、近頃は、ほとんど雪は降らなくなっている。やはり地球は確実に温暖化しているのだろうか?
 ところで、雪が降ると、子どもの頃には、決まって雪だるまや雪兎を作って遊んだものだった。その雪兎の目には決まって南天の赤い実をつけたものだった。今時の子どもはそんな遊びはしないのかも知れない。何も雪兎に限った訳でもなく、雪中のナンテンの赤い実はよく目立つ。そして、絵になる冬の風物詩と言えよう。
 毎度お馴染みの台詞で恐縮だが、ナンテンは子どもの頃から見慣れた植物だった。特に、思い出すのは、たとえば、快気祝いであるとか言ったお祝い事の時には、昔は、お赤飯を炊いて、ご近所や近くの親戚筋に、それをお配りしたものだった。重箱の蓋を開けると、決まってそこにはナンテンの葉が置いてあったものだった。そこで、そのような慣わしはいつ頃から行われるようになるのかを調べて見た。だが、ナンテンに関する資料は、我が家の書斎の中にはあまり見出すことは出来なかった。私の集めた書物に偏りがあったのか、それとも調べ方が悪かったのか、いずれにしても、あまりナンテンに関する記述は見当たらなかった。
 先ず、ナンテンは、メギ科の常緑樹である。どの書にも我が国中部以南に自生が見られると記述されているが、私は未だに野生のナンテンというものを目にしたことがない。しかしながら、どの家にも、必ず目にした植物であり、人為的に植栽されたものならば、少しも珍しいことのない常緑の低木である。つまり常に身近に存在した樹木ということができる。何気なく「樹木」と記述したが、『朝日植物百科 世界の植物』(朝日新聞社刊)の中に次のような記述が目に留まった。
 「
ナンテンは一般に木本と見なされているが、普通の木のように形成層の活動によってつくられる材はない。維管束の間にあるふつうの組織の細胞の壁が厚膜化し、木化しているだけである。木質化した茎をもつ草本とでもいうべき見せかけの木本である。」(上掲書 P.1664)」
 つまり、ナンテンには年輪が出来ないということになる。なるほどそれでは樹木というには、専門家にとってはいささか抵抗があるのかも知れない。
 更にナンテンの茎には次のような面白い特徴がある。このことは、同書の記述を待つまでもなく、私も個人的に観察の結果承知していたことであるが、再び同書の記述を引用したい。
 「
春、果序全体が枯れると、最上部の葉腋の芽が伸長して軸を継ぐ。ナンテンの茎はそのようなことを繰り返して形成される連軸なのである。」(同書 同頁)
 如何だろうか。ナンテンという樹木は、面白い性質を持っていると思わないだろうか。まだ、面白い性質を有する。概して、見事な紅葉を見せるのは落葉樹である場合が多い。常緑のツツジ類も晩秋から紅葉を見せたりもするが、ナンテンの場合は、常緑樹ながら、誰かが染め上げたかのような真っ赤な紅葉を見せてくれるのだ。興味のある方は、「GKZ植物事典」のナンテンの頁を参照されたい。(ナンテンの頁へ→
 
 ナンテンの学名はNandina domestica Thunb.である。学名からお分かりのように命名者は、江戸時代に長崎オランダ商館医として来日(1775年)したスウェーデン人のツンベリーである。植物学者でもあった彼は、その著『日本植物記』の中で我が国の植物を紹介している。その中に、ナンテンも含まれているのである。しかし、このナンテンなる植物の存在を知った西洋人は、ツンベリーよりも80年以上も前に来日(1690年)しているドイツ人医師ケンペルであった。ケンペルは、ナンテンも含め日本の植物を描画とともに記録し本国に持ち帰ったが、公表出版するまでもなく逝去してしまったのだ。そのケンペルがナンテンに対してナンディンと記録していたことを把握していたツンベリーは、ケンペルの業績に因んでナンテンの属名をNandianaと命名したのだった。
 次に、種小名のdomesticaというラテン語であるが、この語は、英語で言えばdomesticに相当する語である。植物学の世界では、「馴化された」とか「栽培された」と訳されていることが多い。つまり、自然界に自生している植物というよりも人為的に栽培される植物という意味になる。しかし、この語には「家庭的な」の意味も含まれているのだ。植物分類学をリンネに師事したと言われているツンベリーのことであるから、我が国では、このナンテンをどのご家庭でも敷地内に植えてあることを承知していたので、domesticaという種小名を用いたのではないだろうか。
 因みに、ナンテンそのものが西洋社会へ渡ったのは、どうやら、ウィリアム・カーがイギリスに持ち込んだのが最初のようである。1804年のことである。
 和名の「ナンテン」とは、既に御案内こととは思われるが、漢名の「南天竹」の「竹」を外して音読みしたものである。漢名の「南天竹」はそもそも「藍田竹」からの転訛であるという。ナンテンには節があるので、「竹」とし、実の色が碧なので、玉の名産地である藍田に因んで命名されたという。(加能喜光著 『植物の漢字語源辞典』東京堂出版より)この場合、一部理解できないのが、「実の色が碧」という文言であるが、隣国には「碧色」に結実する種類があったのだろうかということである。いずれにしても、「南天竹」は、元々は「藍田竹」だったということである。中国における「南」や「天」についてはそれぞれ意味するところがあるのだが、ここでは詳細については触れないが、興味のある方はご自身でお調べいただきたい。
 さて、話を冒頭の部分の疑問に戻したい。何故、吉事の赤飯には南天の葉が添付されていたのかということである。その謂われを知りたいと思ったのだった。また、いつ頃から始まったのかということも知りたかったのだった。
 先ずは卑近な事例からで恐縮であるが、私個人は次のような経験を持っている。
 私が、中学生の頃だったように記憶しているのだが、父に、赤飯の上には何故ナンテンの葉が添えられているのかを尋ねみたことがある。父は、試したことは無いのだがと前置きした上で、「ナンテンには解毒効果があるらしいのだ。ナンテンの葉を揉んで飲み込むと胃の中にある食物をすべて吐き出してしまうらしい。そこで、他所様にお届けするにあたって、十分に吟味した積もりであるが、万一食あたり等が生じた場合には、このナンテンの葉をご利用下さいという意味合いであるらしい。」と述べたのだった。
 上述の父の説明を、私はずっと信じてきた。やがて、大人になって植物に関心を持つようになり、様々な書に目を通すようになると、そこには、ナンテンはアルカロイド系の有毒物質を含む植物である旨の記述を多々目にし、益々父の言った言葉を信じるようになったのだった。
 今回この稿をまとめるにあたり、改めてナンテンに対する記述を拾い読みしてみた。結論として、古典書であれ、現代の書であれ、ナンテンについて触れている書は非常に少ないことを知ったのだった。これだけ身近な植物であるにも関わらず、何故なのだろうと不思議に思ったものだった。
 先ず、文学や史学関連の書の中では、『記・紀』には登場しない。『万葉集』にも登場しない。あの『枕草子』にも登場していないのである。花はともかくとしても、ナンテンの赤い実が目に留まらなかったと言うのが不思議な気がするのだ。 
 様々な書が、ナンテンの初出は、あの有名な歌人藤原定家の日記『明月記』であるとしている。そこには
 「
寛喜二年(1230年)六月二十七日昏(ひぐれ)にのぞみ中宮権太夫南天竺を選ばれ前栽にこれを植う
とあるという。
 この一文から、二つのことが分かる。
 先ず、藤原定家と言えば、鎌倉時代前期の歌人である。そこで、既に鎌倉時代には、ナンテンを屋敷内に植えていたということである。後述のように、我が国では、屋敷内にナンテンを植えている。ただ、それがいつ頃から始まったかは、把握できないのである。
 次に、藤原定家は、日記の中で「南天竺」と漢名表記をしているということだ。現在では、隣国でのナンテンに対する漢名は「南天竹」に落ち着いているが、かつては、この他に「南天燭」、「南天竺」、「蘭天竺」、「南草木」、「南燭草木」等々とたくさんの表記が用いられていた。特に、「南天竺」という樹木名からは、恐らく、ナンテンをインドからの渡来植物と、かつての中国では想定したのではなかろうか。他の稿でもこれまで再三にわたって述べてきたことだが、中国では、自国内に自生の見られる植物には漢字一字を充てているのが通例だからだ。そこで、鎌倉時代には、我が国では、「南天竹」や「「南天燭」と一般的に言っていたのだろうか。それとも藤原定家の場合、教養が高かったために「南天竺」と表記したのだろうか。我が国では、いずれにしても、漢名三文字のうちで、上の二文字だけから「ナンテン」と呼ぶようになっている。一体いつ頃から「ナンテン」と呼ぶようになったのだろうかと言う疑問が残る。
 文学関連の古典にはナンテンが登場していないと上述した。俳句歳時記を数種類開いてみたが、江戸期の作品は其角の句を初めとして数句が掲載されているだけで、本格的に登場するようになるのは大正期以降ということになる。芭蕉や蕪村、そして一茶などの句集には見られない。こうなってくると、果たして、ナンテンは我が国に自生していたのだろうかという疑問すら浮かんでくる。俳句歳時記を数冊開く内に『四季花ごよみ(座右版)』(講談社 P.414)の「南天の花」の解説に
 「
中国原産で、古く我が国に渡来し、本州関東以西、四国、九州に自生する。
の一文が目に留まった。
 そこで、更に様々な書を開いてゆく内に、次のような文章が目に留まる。つまり、松田修著『花の文化史』(東京書籍 P.211)には
 「
日本で植えられているナンテンは、古く中国から渡来したものと推定されている。
と記述されているのである。
 そういえば、ナンテンとは漢名の音読みから名付けられていることは上に述べた。しかし、元々我が国に自生が見られるのであれば、我が国における古名がある筈であるが、どの書もその点については触れていない。つまり、我が国では、隣国からナンテンの実物、そしてその名前が到来して初めてナンテンなる植物を知ったようである。そしてついでに後述のような中国におけるナンテンに対する聖竹思想や我が国での「南天は難転」に通ずると言った語呂合わせが登場することとなったようである。そして、何も隣国から求めなくても、我が国に自生のナンテンがあることを知ったということだろうか?
 もし、我が国に自生が見られるのであれば、どこかに国や都道府県からの天然記念物の指定を受けている存在があるのだろうかと、講談社版の『日本の天然記念物』を開いて見たが、ナンテンに関する天然記念物指定は見つからなかった。何故、天然記念物を調べたかと言えば、ナンテンには後述のように、「南天の床柱」という言葉が存在するからだ。実際にその実物も存在すると言う。そこで、床柱にするような大木のナンテンが存在すれば、間違いなく天然記念物の指定を受けていると推測した次第である。
 次に美術関連の書物を開いて見た。小学館から『日本の文様』(全18巻)が出されている。その内、1〜12巻が我が家にはあるが、ナンテンは見られなかった。その他調べてゆく内に、我が国特有の家紋の中にナンテンが数種類用いられていることわかった程度だった。
 いずれにしてもナンテンは資料に乏しかった。お赤飯にナンテンの葉を添える意味については、民俗学の書物にも何度も登場するのだが、その謂われまでは記述が見られなかった。そこで、食文化史関連の書物を調べて見た。ナンテンからではなく、「赤飯」に関する記述を調べて見た。本山荻舟著『飲食事典』(平凡社)の中に面白い記述を見た。
 「
赤飯:染飯の一種 赤小豆を混ぜた強飯(こわめし)。上古の日常食はすべて強飯だった。小豆を混ぜて赤色に染めるのは事ある時の印であったという。(中略)京都にては吉事に白強飯を用ひ、凶事に赤飯を用ふること民間の習慣なり。(中略)今は、却って吉事に赤飯、凶事に黒豆を混ぜたり、白強飯をもちいるようになった。これは凶を返して吉にするとの縁起直しから来たらしく、(中略)これに必ず南天葉を添えるのも「難転」縁語で、鏡の裏模様につけたり、厠に近い鉢前などに植えて不吉・不浄を転ずる意にもちいたのと同じ理由によると見られる。
 とても納得の行く説明ではなかろうか。今でも、「南天」は「難転」に通じるという語呂合わせが多く用いられている。そこで、昔から食事に用いる箸の素材では「南天箸」が最高とされているが、やはり、無病息災を願う気持ちからそうなったのではなかろうか。そこで、幼児の「お食い初め」に用いるのはナンテンの箸を用いるのが昔からのならわしとなっているのである。いずれにしても、我が国では「難を転じて福と成す」の考えから、ナンテンは縁起の良い木として珍重されることとなったのである。この他にも、たとえば、お正月用の掛け軸と言えば、松と南天の図柄の「蒼松寿古」図、や水仙とナンテンの図柄の「天仙図」等も同様の事例と言えよう。更に、お正月のいけばなの素材にも、鉢物の素材にもナンテンは登場してくる。そうした難天思想の一つに、庭に難天を植えると火災除けになる、はたまた不浄なものや様々な魔力からも守ってくれるという考え方も登場している。江戸期の百科事典とも言うべ寺島良安著『和漢三歳図絵』には
 「
庭中に難天を植ゑて火災を避くべし、甚だ験し
と記述されている。上述の藤原定家の『明月記』にみられる記述もやはり同様の考えからではなかったかと推測されるのだ。
 麓次郎著『四季の花事典:花のすがた 花のこころ』(八坂書房)の「ナンテン」の項に、ナンテンと赤飯との関連で、次のような記述が見られた。
 「
病気の全快祝いとして配る赤飯には大難を転じて命をとりとめた幸の印にナンテンの葉を表向きに添える。逆の折には葉を裏向きにしてこれ以上の不幸にならぬようにする。」(同書 P.470)
 これは初めて知った。そもそも不幸や災難に遭遇した時に赤飯を炊くという慣わしは、これまで見聞きしたことがなかったからだ。
 箸と同様に杖も南天の杖は最高とされる。こちらは、中国思想からの影響のようである。中国では、ナンテンは聖竹として珍重され、あの仙人の持つ杖は皆ナンテンであったとされている。我が国で、お正月の生け花や掛け軸にナンテンが登場すると上述したが、こちらも中国でのナンテンを聖竹とみなす思想から受け継がれているということである。人生の栄華盛衰のはかなさを物語る故事「邯鄲の夢」は、別には、「邯鄲の枕」とも言われるが、夢を見た蘆生青年が用いた枕はナンテン材であったという。そこで、我が国ではナンテン材の枕を用いれば良い夢が見られる、或いは悪夢が退散されるとされた。実際にナンテン材の枕が無くても、枕の下にナンテンの葉を置いて寝ると安眠できる等と信じられたものだった。昔、どの家庭でも見られたものに「手拭い」があるが、この手拭いの図柄にナンテンを染め込んだものがあったが、これなども今にして思えば枕を包むための手拭い、つまり枕カヴァーだったのではないかと推測されるのだ。
 江戸期に入ると、生け花や園芸の世界でナンテンは注目されている。特に、江戸期の珍葉植物や斑入り植物ブームに葉の非常に細い錦糸南天等は当時の人々の間で人気が高まり、盛んに栽培されている。そしてたくさんの品種が登場している。今では、鉢物栽培の分野ではナンテンは古典園芸植物扱いとなっている。
 さて、「南天の床柱」という言葉がある。言葉だけではなくその実物が現存しているのである。ナンテンの床柱を用いれば、一家安泰、一族繁栄が望めるとして、昔から人々が憧れたものである。しかし、実際に床柱になるほど太いナンテンが存在するのだろうか。実物の「南天の床柱」は、京都・金閣寺の茶室「夕佳亭」と東京柴又帝釈天題経寺のそれが知られている。植物文化史の権威者でもある松田修氏はその著『花ごよみ』(社会思想社 1960年刊)の中では
 「
いわゆる南天の床柱はこの南天ではなく、南天桐(いいぎり)である。」と述べている。
 ところが、等しく松田修著『花の文化史』(東京書籍 1977年刊)の中では、次のように記述している。
 「
ナンテンは普通は、高さ2メートルくらいで、人びとはほそいものだけを見ているので、床柱というのには驚き、金閣寺のものもナンテンギクではないか等と言われた時代もあったが、これは正真正銘のナンテンであることを日本植物友の会で調査している。
 因みに、金閣寺のものは、琉球から探し出したもので、題経寺のものは伊吹山の農家の庭先にあったものだという。
 漢方ではナンテンの実を乾燥したものを「南天実」と呼び、鎭該薬として効果があるとしている。喘息や百日咳に用いられたという。ところで、私が子どもの頃に父に尋ねた際の父の返答の真偽については、上掲の麓次郎氏の著書中に次のような記述を見出し、父の言葉は間違いがなかったのかなと安心した次第である。
 「
枝葉を薬として用いると下痢止めになるほか、(中略)もし誤って悪物を食した場合でもナンテンを飲むと、これが吐瀉薬となって悪物をことごとく吐き出させてしまう。」(上掲書 P.471)
 こうしたことからも、ナンテンは、各家庭の庭先に必ずと言って良いほど植えられていたのではなかろうか。
 以上で、私のナンテンについての記述は終わるが、様々な資料を開いてみると、ナンテンという植物に関する記述はあまり多くないという印象を強く受けた次第である。
 蛇足:まるで関係のないおまけ                          
 今回は、このところ雨や雪ばかり続いて鬱陶しいので、爽やかな音楽が欲しいなと思って、BGMには『Antonio Carlos Jobim:Personalidade』をCDで聴いた。ボサノバは,洗練されたメロディー、サンバから生まれたとは思えない穏やかなリズム、そして巧みなコードの取り方と実に良い。ジョビンの代表作でもある「イパネマの娘」とは、イパネマ海岸にあるお店の名前だったという。そこに若手の音楽家達が集まっていて、海岸にを眺めながら作った曲だったという。今では、ボサノバの様々な曲がジャズの世界ではスタンダード・ナンバーと化している。ある程度の年齢の方々の場合、ボサノバを聴くと映画「黒いオルフェ」を思い出すのではなかろうか?
 H.22.02.17