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イモについて
 この回想録をお読み頂いている奇特な御仁達は、果たして「イモ」と言えば、何を連想されるのだろうか?
 もちろん、イモには、色々なイモがある。サトイモヤマイモサツマイモジャガイモ等々と挙げていたら切りがない程である。漢字にしても、「芋」、「薯」、「藷」等と様々な漢字を想起されることだろう。
 私は戦前の生まれである。(「戦前」とか「戦後」等という表現をする人間は年寄りなのかもしれない。)イモというとどうしても、終戦直後の「代用食」という言葉を想起してしまう。その「代用食」の主役は、サツマイモであった。「農林○○号」等と名前のついたサツマイモで、やたらと大きいが味は今一の代物である。とにかく、カボチャとサツマイモはよく食べた。というよりも、好んで食べたのではなく、否応なしに食べさせられたものだった。まだ、学校では、給食がなかった時代で、弁当を持参して登校したのだが、昼食の時間には、今では想像もつかない光景が見られたものだった。誰もが弁当箱を新聞紙に包んで持参していたものだったが、その新聞紙で自分の弁当箱を覆い隠すようにして、つまり、他人に見られないようにして食べたものだった。その理由は、お弁当の中身に問題があったのだ。その当時のお弁当と言えば、ご飯の中に梅干しが1個入っているだけのものでしかなかった。それでも、自分の弁当箱の中を他者に覗かれないようにする理由は、ご飯にあった。当時は、余程のお金持ちでない限り、ご飯はお米と大麦の混ざった所謂「麦飯」だったのだ。その大麦の混合比率が多いほどご飯の色が濃くなり、少ないほど白味を増してくることになるのだ。その色合いを見ると、麦の配合割合が分かることになる。つまり、ご飯の色が濃ければ、配合の度合が多いことになり、それは、別の視点からすれば、貧しさの度合を示す色具合と言うことをも示していたのだった。子どもながらに、それを承知していたので、誰もが我が家の経済状態を知られたくないという強い意志が働き、新聞紙で弁当箱を覆い隠すようにしたのだった。当時は、麦の入っていないご飯は「白米」とか「銀舎利」と言って、何かのお祝いや例えば、お正月やお盆、或いは恵比須講などと言った所謂「物日」でしか味わえなかったのだ。日頃、麦飯ばかり食べていると、確かに「白米」のご飯は美味しかった。それだけに、日本人の誰もが、早く毎日白米ご飯を食べられるようになるようにと一生懸命働いたのだった。特に、自分が食べたいと言うよりも親の世代は、我が子に食べさせたいという願いが強かったのだった。
 ところで、イモとお弁当とどのような関係があるのかということになる。もう少し、その当時のご飯の事情についてお付き合い頂きたい。ご飯に、麦を混ぜるのは、当たり前のようになっていたのだが、実は、それ以外にも、ご飯に混ぜられたのだった。例えば、サツマイモやジャガイモを双六のサイコロ程度の大きさに切って一緒に炊き込む、或いは、乾麺の切れ端を一緒に炊き込んだりと様々な工夫が成されて、少しでも満腹感が得られるようにとの工夫が成されたのだった。この場合、上述の麦飯よりもさらに経済状態としては下を意味することになる。それだけに、他者には覗き込まれたりはしたくなかったのだ。
 だが、もっと更にその下があった。混ぜご飯とか、炊き込みご飯なら、幾分なりとも、胸を張れたのだ。もっと、ひどいケースとしては、イモが弁当箱の中に入っていたのだった。イモを蒸かしたものがご飯の代わりだったのだ。つまり、代用食と言うことである。イモをそのまま新聞紙で包んでくると、蒸かしてあるので、イモは柔らかくなっているので、他の学用品と一緒にすると潰れてしまうので、やはり、固い弁当箱の中に入れて持参した。自宅で蒸かしイモを食べるときは、誰もが、手掴みで食べたものだったが、学校の昼食時には,豪快に手掴みで食べるという訳にはいかない。昼食までも代用食である事が、級友にわかってしまうからだ。そこで、箸を使用することになるのだが、鷹揚に箸で摘まんでイモを口に運ぶ訳にはいかないのだ。そこで有益な存在が新聞紙であった。その新聞紙で弁当箱の中味がイモであることを知られたくないためには、この場合は、自分の顔を弁当箱に近づけて口元を見られないようにするのだった。
 だが、イモよりもまだ下の弁当があった。それは、弁当箱ではなく、瓶を持参するのだ。瓶の中味は雑炊と言うことになる。
 更に、それより下の場合は、弁当を持参できずに、水を飲む、或いは、空腹を抱えてじっと我慢するというケースもあった。
 今では、学校での昼食は、豊かな給食を前にして級友と楽しい会話を交わしながらと言うことになる。まさに雲泥の差があったと言えよう。
 大人になってから、ある外国の二コマ漫画を目にしたことがある。最初の絵は、数人の大人が、便器に腰を下ろして楽しそうな表情を見せている。恐らく談笑の図であったと言えよう。次の絵柄は、狭い個室で、誰にも見られてはいないかと気にしている様子で、食事をしているのだ。現代の生活に対する完全なアイロニーである。排便する時間は楽しそうに仲間と談笑しながら、食事は如何にも人として恥じる行為をしているかのように見えた。この漫画を目にしたときに、戦後間もない頃の学校での昼食の時間を思わず想起してしまったものだった。
 さて、そのような次第で、子どもの頃には、サツマイモをたくさん食べたものだから、そしてあまり楽しい思い出でもなかったものだから、イモというと、サツマイモを思い出してしまうのだ。
 講談社版の
『日本大歳時記』の秋の季題の中で、山本健吉さんは、次のように述べている。
 芋 いも 三秋
 [解説] 甘藷や馬鈴薯は新しい渡来品で、古く山の芋に対して里芋があった。多くの土地では芋と言えば     里芋のことで、東北の一部だけが山の芋を意味している。九州ではしだいに甘藷をいもというようにな     り、他の地方でも、近年甘藷がいもの名を独占しようとする傾向にある。
 この解説記事を見て、イモと言えば、サツマイモを思い起こすのは、私だけではなさそうだと一安心したものだった。
 ふと、何気なく妻に聞いて見た。「イモ」と言えば、先ず何を想起するかと。彼女はサトイモと答えたものだった。彼女は、大都市の米屋で生まれ育ったのだった。育ちが違うのだなと思い知らされたものだった。
 何方もご存じのように、単に「イモ」と称した場合には、特定の植物を意味してはいないことは先刻ご案内の通りである。一般的には、栽培種のイモとしては、サトイモ、サツマイモ、ジャガイモ、ナガイモ、そして、山野に自生の見られるものとしてはヤマノイモ程度であろう。この中で、栽培種のイモは、すべて外国からの渡来種である。特に、サツマイモやジャガイモの場合には、新参者というイメージが強い。
 ところで、イモとは、大きく分けて3種類ということになる。
 1 根が肥大したもの:サツマイモ等
 2 地下茎が太ったもの:ジャガイモ等
 3 根と茎の境目の部分が肥大したもの:ナガイモ等
 この植物回想録の<ケヤキについて>の項にも記したが、子どもの頃に、晩秋にはよく焚き火をしたものだった。もちろん暖を取ることが主たる目的のように思えるが、実際は、大人達の本来の目的は落ち葉を処分することにあったと言えよう。子ども達の楽しみはと言えば、焚き火と言えば直ぐに連想されるのは「焼き芋」であった。それぞれが、思い思いに自宅からイモを持参して、煙の上がっている家の庭に集まり、自分の持参したイモを落ち葉の中に入れるのだった。今でこそ「焼き芋」といえば、サツマイモが主役であるが、当時は、殊更サツマイモと限ってはいなかった。ジャガイモを持参する子、サトイモを持参する子、サツマイモを持参する子と様々だった。現在のようにアルミホイルに刳るんで焚き火の中に入れると言うようなことはしなかった。そのまま現物を焚き火の中に入れて、暫く待つのだった。サツマイモの場合には、焼けると周囲の皮を剥いて口に運んだものだったが、ジャガイモやサトイモの場合は、やはり調味料を用いることが多かった。しかし、当時の調味料と言えば相場は決まっており、醤油・味噌・塩程度のものでしかなかった。現在では、蒸かしたばかりのジャガイモにバターを塗って食べたりするが、当時は、ジャガイモの場合には専ら塩であった。サトイモの場合には、塩も、醤油も、味噌も好みに応じて選ばれることになった。今にして考えて見ると、ナガイモ或いはヤマノイモばかりは焚き火に入れることはなかった。恐らく、どちらのご家庭にも、ナガイモやヤマノイモを子どもがおやつに食べるほど保存してはいなかったからだと思える。私は、この年になっても、ナガイモやヤマノイモをそのまま焼いたものを食べた経験がない。だから、果たしてどのような味になるのかについての想像も及ばない。
 そもそも、人間の料理の中で、生食に次ぐ原点と言えば、やはり焼くという料理法であろうと思われるが、イモ類は、焼いて食べるのが一番美味しいのではなかろうかと今でも昔を思い起こしながらそう思っている。
 ところで、戦後間もない食糧難の時代には、イモも生で食べた。ジャガイモは生食することはなかったが、サツマイモはよく生で食べたものだった。親たちからは、吹き出物が出来るから、サツマイモは生で食べないようにと言われていたのだったが、子どもの頃には、よく生で食べたものだった。味も甘いし、何よりも歯応えがよかったらだ。だが、他のイモは生で食べるようなことはしなかった。
 イモは、どれもよく味噌汁の具にももちいられたものだった。今ではあまりサツマイモを味噌汁に入れるようなことはなくなってしまったが、子どもの頃には、味噌汁にサツマイモが入っていても少しも違和感は無かった。サトイモの場合には、他の料理に用いるには小さすぎるような小芋が味噌汁に入ることになったが、美味しいと思える具であった。しかし、サトイモが活躍するのは、やはりけんちん汁だったようにも思う。最近、味噌汁に入るイモと言えばジャガイモ程度と相場は決まってしまったようである。
 野菜の料理法の中で、「蒸す」とか「蒸かす」というケースもある。イモ類は、この料理法にはどれも打って付けである。特に、秋には、サトイモを皮も剥かずに茹でたり蒸かしたりして食べたものだった。これには、「衣被ぎ(きぬかつぎ)」等という洒落た名前も残っているが、果たして現代の人々は「衣被ぎ」などと言う言葉そのものをご存じだろうかと訝しく思えるものだ。概して、後述のように「イモ」という言葉の響きには、優雅さや風雅さといったイメージは伴うことはない。むしろ、どことなく野暮ったいイメージがともなうものだ。誰が、いつ頃、「衣被ぎ」等という表現をしたものだろうかと思ってしまう。この「衣被ぎ」の食べ方が愉快なのだ。イモの一番底の部分、つまり、一番太い部分の皮を軽く剥いて、今度は、拇指、人差し指、中指の3本の指を使って、イモの細い側を強くつまむと、イモが皮から離れてつるりと外に飛び出すのだ。真っ白に見えるイモが出てきたら、それに塩、醤油、味噌等の調味料で味付けして食べるのだ。実に素朴な食べ方であるが、親しめる味わいでもあった。

 因みに、岩波の『広辞苑』を引いてみると次のように説明されていた。
 いも[
]
 ① サトイモ・ツクネイモ・ヤマノイモ・ジャガイモ・サツマイモ等の総称。
 ② 植物の地下茎または根の発達したもの。
 ③ 俗に、野暮ったい人や物をいう。
 次に講談社版の
『カラー 日本語大辞典』を引いてみた。
 いも[
]
 植物の根・地下茎などの一部が肥大して養分の貯蔵器官となったものの通称。
 サツマイモ・ダリアは塊根、ジャガイモ・キクイモは塊茎、クワイ・サトイモは球茎。
と出ていた。
これを見て思ったのは、どちらも漢字表記の部分に[芋・藷・薯]の3種が掲載されている。
 だが、一昔前に冨山房から出された新村出著
『新訂 大言海』には次のように記されていた。
 いも[
]
 うもノ轉、うを、いを(魚)
 古名、うも。さといも、やまのいも、さつまいも等の總名。
 
『大言海』では、ではなく、とある。
 何故、
が消えてになってしまったのか?
 そこで、また、別の書を開いて見た。
 平凡社から出されている本山荻舟著
『飲食事典』には次のように出ていた。
 いも 植物の地下茎または根部の発達したものを、総称して俗にイモといい、種類はいたって多い。
 漢字で芋はサトイモ、薯はジャガイモ、はサツマイモ、蕷はヤマノイモをさす(後略)。
 『大言海』の初版は昭和10年(1935)の発行である。新村博士は、イモに対してサトイモ、ジャガイモ、ヤマノイモを例として挙げたことになる。ところが、現代の岩波版『広辞苑』や講談社版『日本語大辞典』では、イモの例としてサトイモ、サツマイモ、ジャガイモを挙げていることになる。現代生活の中では、確かに、『広辞苑』や『日本語大辞典』の例が身近な存在と言える。この駄文をお読みの御仁の中でも、お若い方々は「」等という漢字は初めて目にしたということにもなるのではなかろうか。
 この回想録の冒頭に、果たしてイモと言えば何を連想されるか?と問いかけたが、年齢によって異なるのではないかと思われたからである。
 ところで、女子栄養大学出版部から出されている星川清親編『いも:見直そう土からの恵み』の冒頭部分に次のような記述があることが目に留まった。
 現在我が国ではいもの呼び名が統一されていない。同じいもに幾つもの名前があり、ときには混乱する場合もある。
 たとえばジャガイモは植物学での和名や文部省
(ママ)の教科書では「じゃがいも」であるが、農林水産省関係では「ばれいしょ」を正式名称としている。
 サツマイモも文部省(教科書)や科学技術庁(食品成分表)では「サツマイモ」であるが、農林水産省関係では「かんしょ」としている。
 いちばん困るのはナガイモとヤマノイモである。植物学では栽培種のDioscorea batatasの和名を「ナガイモ」野生種のD. japonicaを「ヤマイモ」と統一しており、農学の作物学会でもその名称に従っている。しかし園芸関係ではbatatasを「ヤマイモ」と呼ぶことに決めている(園芸作物名篇)し、農林水産省や科学技術庁関係では「やまのいも」の名をつかっている。これらの場合、japonicaは「じねんじょ」と呼ぶことになる・・・と。
 等しく国の行政機関でありながら、こうして名前が異なるというのは如何なものかと思えてくる次第である。
  ついでに『岩波 古語辞典』も引いてみた。そこには次のように記されていた。
 いも[芋]<<ウモの転>>
 ① 古く、山芋、里芋をさす。江戸時代中頃からさつま芋
(ママ)、末期からジャガ芋(ママ)をもいう。
 ② 天然痘。また、その結果のあばた。いもがさ。
 ③ 「芋助」の略。
 ④ 名刺に冠して、全く不器用の意をあらわす。
 うも[芋・薯蕷] イモの古名。今の里芋・山芋。
 上掲の『大言海』では、古名、うもと記載されていたので、「うも」とは何かを同書で調べて見た。そこには次のように記載されていた。
 うも[]
 [埋(ウモ)ニテ、根塊二就キテノ名か。いもノ古名。]
 つまり、地下に埋もれていたから「うも」であり、それが「いも」へと転訛したということなのだろう。
 その
『大言海』でのいも[]の前の見出し項目は「いも[妹]である。この両者には関係があるのではなかろうかと調べて見ると、やはり両者をむすびつける意味の解説記事に出逢った。それは上掲の本山荻舟の著した『飲食事典』であった。そこには次のように記載されている。
 いも
 イモは古語に夫人の義で、女史が子孫を繁殖せしめるように、芋が子芋・孫芋を生じて繁殖するために名付けられたのだという・・・と。
 納得の行く説明ではなかろうか。
 ところで、イモとは、どことなく野暮ったいイメージがつきまとうと上に述べたが、また、辞書にもそのように記載されているが、「芋侍」であるとか、「芋代官」、「芋助」等々と、どれもあまり良い意味の言葉ではない。そこで、保育社体されている近藤浩文著『カラーブックス570 植物故事 ことわざ』を開いて見ると次のような言葉が列挙されていた。
 ・芋ばかりは親は厭
 ・芋蛸南京
 ・芋の煮えたもご存じない
 ・芋名月
 ・芋の子を洗うよう
 ・芋頭でも頭は頭
 ・芋幹で足を衝く
 ・塗箸で芋を盛る
 それぞれの意味するところは何方も先刻ご案内の事と思うのでここには記さないが、ひとつだけ「芋の子を洗うよう」だけは触れておきたい。というのは、現代生活の中で、「芋の子を洗う」という作業は何方も経験がなかろうと思うからだ。とにかく、「芋の子を洗う」とは混み合っている様子を表現する言葉である事はご存じと思う。何故そのように表現されるかというと次のような作業からなのである。先ず、この場合の芋とはサトイモのことである。サトイモの皮を剥くと、サトイモに含まれているシュウ酸が反応し、手が痒くなる。そこで、子どもの頃には、木製の桶や樽の中に水を張り、サトイモをたくさん入れて、先端が曲がった木の根や木の枝を差し込んで左右にかき回わしたものだった。すると、サトイモが互いに擦れ合って、互いの皮がむけてくるのだった。この作業を経験したことのある人ならば、「芋の子を洗う」の意味が納得できる筈なのである。
 イモというと、風雅なイメージとは程遠いというようなことを冒頭に記したが、よくよく考えて見ると、芋名月であるとか、芋煮会等というと素朴で風雅なイメージが伴っていると思えて来るが如何だろうか。
 学生時代に、文化人類学なる学問に夢中になったことがある。その中で、決まって出て来るのがタロイモとかヤムイモいう言葉だった。熱帯アジアの食文化を語る上で欠かせない食料である。だが、学生時代には、タロイモもヤムイモも身近に存在しなかったので、サトイモを大きくしたようなイモだろう程度のことしか思い浮かばなかった。冒頭にイモというと何を連想するかとの問いかけから本項は始まっている。我が国は、一般的には、サトイモ、ジャガイモ、サツマイモ、そしてヤマノイモ等であると述べた。そして、冒頭には、イモは、戦中戦後の食糧不足の頃には重要な「代用食」であるとも述べた。しかし、我が国では、イモは「代用食」であり、主食ではなかったことになる。しかし、文化人類学を学んで、イモは重要な主食としての存在であり大きな食文化圏を有してきたことを学んだものだった。上掲の『いも:見直そう土からの恵み』には世界のイモ類として全部で28種類が表形式で掲載されている。それぞれに和名がついてはいるのだが、見たことも聞いたことも無いイモがそこにはたくさん見られる。
 文化人類学という学問の名前が出たところで、我が国の民俗学分野での貴重なレポートがあることをここに記しておきたい。未来社から出されている<ニュー・フォークロア双書>の中に、坪井洋文著
『イモと日本人:民俗文化論の課題』は、是非お勧めしたい。我が国は米食単一の食文化であるという既成概念に対してのアンチテーゼがこの書の中では展開されているからだ。
 イモについては、まだまだ書き足りないが、どうやら、頭のバッテリーが消失してしまったようなので、暫く充電してから、後日に補足したいと思う。何とも中途半端な終わり方でここまでお読み頂いた御仁には申し訳ないと思います。
 蛇足:まるで関係のないおまけ                          
 今回は、フォルクローレを聴きながらのタイピングだった。つい先日、ある道の駅に立ち寄ったところ、美しいケーナの音色が耳に届いた。見るからにインディオと見受けられる男性が一人で演奏していた。よく見ると、何処かで目にしたことがある懐かしい顔だった。思わず声をかけてしまった。スペイン語、英語、日本語と入り混ざった妙な会話となったが、やっと思い出すことが出来た。我が国で長いこと音楽活動を展開しているフォルクローレ演奏家のRUPAYのリーダーであるファン・マルコ(Juan Marco)氏だった。色々とお話を聞いた後に、一枚のCDをその場で購入したのだった。あれから、毎日のように聞いている。曲目は懐かしい曲ばかりである。一度は南米にも行ってみたいと思って過ごして来たが、今となっては、この病身ではあまりにも遠すぎる。せめて、音楽を聴きながら、想像を巡らすだけである。帰り際、彼は大きな声で、Adiós amigo!と言って手を差し伸べて握手を求めてきた。彼の手は、とても大きくて、温かかった。
 CDのタイトルは’RUPAY Music of the Andes~Peru’である。
 H.24.07.07