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メールとメル友
 今日は、8月13日。当地では「お盆」である。
 お盆を迎えて、どうしても思い出すのは、今年の3月にお亡くなりになったNさんのことである。所謂「新盆」と言うことになる。
 彼は、私にとっては、現代社会が生み出した人間関係である。一面識もないのだが、かれこれ、ほぼ7年間、毎日、まるでかつての中学生の交換日記のように、メールを交信し合った仲である。現代風に申せば「メル友」と言うことになる。彼とのメールが中断したのは、彼が外国に行っている間と彼の2度の手術入院の時だけであった。互いに、自分の写真をメールに添えて送ったりしているので、お互いがどのような風貌の人物かは知っている。また、たったの3回だけであるが、電話で語り合ったこともあるので、その声音は今も記憶している。しかし、もし、何処かの通りで擦れ違ったとしても、お互いに気づくことは無かったのではないかと思える。そんな間柄であるが、お互いに、現役生活からリタイヤしてからの掛け替えのない友人と化していた。彼は、戦後生まれであるから、私より数年若い年齢であった。にも拘わらず、癌に冒され、私より早く逝ってしまったことになる。
 ところで、上述のNさんの場合同様に、一度も逢うことも無かったが、手紙でのやりとりをした友人が何人か存在する。昔は、そうした手紙のやりとりをすることを「文通」と言っていた。そしてお互いに、その文通相手を「ペンフレンド」等と言ったものだった。
 個人情報が何かと取り沙汰される現代社会では、信じられないようなことであるが、私の中高生時代には、雑誌の一部に、決まって「文通希望者欄」というコーナーが設けられていたものだった。そこに、住所・氏名・趣味・興味関心事等が掲載されていた。雑誌のそのコーナーから、自分と共通の趣味や関心事を持つ相手を選んで、手紙を送り、文通が始まるのだった。因みに、当時、私が夢中になっていたことと言えば、ラジオやアンプを作ることだった。趣味と言えば、洋画と洋楽だった。
 現在の郵便制度では、特殊な地域で無い限り、投函すると翌日、或いは翌々日には相手方に届くのが普通である。しかし、当時は、遠距離だと数日を要した。そして、返事が帰ってくるまでは、速くてもほぼ1週間ほどを要したものだった。その間、返事を待ち受けるという楽しみがあった。当時、一般家庭には電話等無かった時代である。自分が出した手紙の返事が来るまで1週間も待つということは、現代のメールのやりとりと比較すると随分悠長でもあり、互いに気長であったとも言える。
 その文通という楽しみを、私も体験したものだった。宮崎県・三重県・北海道と、3人のペンフレンドと文通を楽しんだものだった。お互いに、将来の希望等を語り、その夢を叶えるための障害を如何に克服すべきか等を書き連ねたものだった。その内の一人、北海道の文通相手が、修学旅行で東京に来たことがあった。一日自由時間があるというので、私も東京まで出向いて直接会うことが出来たが、とても嬉しかった事を今も記憶している。
 更に、英語学習の雑誌には、海外文通のコーナーが設けてあった。書店には、『海外ペンペルガイドブック』等と言う書も並んでいた。私も、16歳の時に、始めて、海外に手紙を送ってみた。私が選んだコーナーでは、国・住所・氏名のみが記載されていただけだった。私が選んだ相手は、見慣れない、或いは、聞き慣れないスペルであり、男性なのか、女性なのかも分からないアメリカ人だった。とにかく、幼稚な英語で文章を書いて送ったところ、ほぼ半年ほど経過した頃に、返事が来た。相手は36歳のご婦人だった。3人のお子さんを持つお母さんだった。私が下手な英語で書いた手紙の中には、たくさんの質問事項が書き連ねてあったのだが、丁寧に、一つ一つ答えてくれていた。その当時は、自分が、いずれはアメリカに行く事があるだろう等とは夢想もしない時代だった。敗戦後の復興の最中であり、よほどの人物で無い限り、海外に出かける等とは想像すらしなかった時代である。ただ、別のコーナー(ラジオについて)にも記述したが、私は、当時、アメリカン・ポップスやジャズに夢中になっていた。高校生に入った頃は、専ら映画は洋画ばかり観ていた。そこで、音楽や映画から、アメリカの様子というものを私なりに感じ取り、日本との文化の違いを受け止めていたのだった。そうしたアメリカに実際に生活する人に尋ねてみたい事柄は山程あったのだった。
 ところで、その当時は、海外への郵便物は、船便で届けられるのが一般的だった。よほどのお金持ちか、緊急を要する内容の手紙で無い限り、航空便、つまりAir mailで送られることはなかった。船便だと、アメリカやカナダの場合、当時は、ほぼ3ヶ月程度は要した。上に、国内の文通では、返事が来るまでに速くても1週間を要した。当時の人は気長だったと述べたが、海外となると、返事が来るまでに速くても半年ほどを要したのだった。現代のスマホでメールを交信し合っている若者方には、それこそ気の遠くなるような日数と言えよう。
 ここで、妙な事に気付いた。今でも、年に一度だけであるが、海外に手紙を送ることがある。クリスマス・カードを送る時だ。その時に、封筒の表書きの下の部分にしっかりと
Air Mailと必ず記述するのだ。それも当たり前のように。また、海外の知人達から来るクリスマス・カードの入った郵便物の場合にも、必ず封筒の表書きにAir Mailと明記してある。だが、果たしてそれを記述するのを忘れて投函したら、今でも船便で送られて行くのだろうかという疑問である。
 冒頭に記したメル友のNさんの 場合にも中高生時代に文通をした相手の場合にも、とにかく一面識も無い間柄であるにも拘わらず、互いに交友関係を持ったという点では共通している。相手の日頃の生活を知らないだけに、どちらも双方を想像する以外に無い。ただ、文通の時代と、現代のメールの時代とでは、幾つも相違点がある。その内の一つは、相手が国内の人間であろうと、海外の人間であろうと、それを瞬時に送れるというのが現代のメールであろう。現代のメールの場合には、会話すら出来てしまう。所謂チャットという会話の在り方である。ある年、パソコンのセキュリティ・ソフトに不具合が生じたことがあった。電話を入れてみたが、運悪く、その日は、国内の代理店は休日のだった。そこで、仕方なく、シンガポールの代理店に電話を入れてみた。すると相手が、電話代が大変でしょうから、チャットでやりとりしましょうと申し出てくれた。互いにパソコンの画面を通して会話をしたことになる。事態は収拾することが出来たが、改めて今日のメールの有り難さを知った思いであった。
 ところで、数年前に二度ほど入院生活を余儀なくされたことがある。退院して久しぶりにパソコンのメールボックスを開いてみて驚いた。膨大な量のメールが到来していたからだった。日頃から、細やかにメールを分類整理するようなことを行っていなかっただけに、無用なメールが殆どであった。しかし、一括して消去してしまうと、必要なメールまでも削除してしまうことのになるので、退院早々に煩わしい作業に追われる結果となってしまったことになる。
 一方、郵便物でも、ダイレクト・メールが毎日、多数届く。これも無用な代物だが、一つだけ楽しみにしているダイレクトメールがある。某旅行業者から送られて来る冊子だ。そこには、国内から海外まで、美しい写真が多数掲載されている。病身となってからは、大学病院に通院する時以外居住地を離れることの無い毎日だ。そんな毎日の中で、その某旅行社から届く小冊子の写真を目にすると、懐かしい光景がたくさん飛び込んできて、そこに出かけた頃の元気だった頃の自分の生活を思い起こすことが出来るのだ。他のダイレクトメールの場合、処分するのに困るので、はっきり申して迷惑千万なのだが、その旅行社からの小冊子ばかりは、毎月、届く度に、どのような場所が取り上げられているか、開封時に楽しみにしている。恐らく、送り主の側は、病気で旅行など出来ない人間が、こうして楽しみに待っている等とは予想もしていないことであろう。
 さて、冒頭のNさんの話題に戻ろう。彼とは、お互いに植物に関心があることからメールを交わす仲となった。彼は、現役時代には、我が国を代表する航空会社に勤務していた。そして、海外勤務も長かったことで、退職後も良く海外に出かけていた。現役時代からの楽しみは海釣りだったという。ある日、釣りかけた魚に逃げられてしまったという。その時に、心の中で、海中を泳ぐ魚に向かって、
 「釣られずに良かったネ!」
と呟いていたという。そして、二度と人間に釣られたりしないようにとも心の中で念じたという。その日以来、生きている魚を単に趣味で釣り上げるということに納得できなくなり、釣りは止めてしまったのだという。そして、釣り道具ばかりか、車も売り払い、運転免許証も返上してしまったという徹底ぶりだった。彼は、都内に生活しているからそれが可能だったのだろうと思う。群馬の片田舎に住む私の場合、日常的な買い物や通院等の移動には車は欠かせない移動手段である。その彼が、海釣りを止めて後に選んだ過ごし方は、花の写真を撮ることだった。動物にしても、植物にしても相手に痛い目に遭わせたり、嫌な思いをさせたりしないで済む楽しみ方は無いだろうかと思案の末に辿り着いたのが、花の写真を撮るという過ごし方だったのだ。それまで、さほど植物に関心を持っていなかった彼は、調べて行く内に、次々と興味関心が深まっていた。自分で撮った植物を調べる過程で、偶然にも私のH/P『GKZ植物事典』にであったのだという。それ以降、たくさんの写真を当方のH/Pにご提供いただく結果となった。彼も、H/Pを立ち上げており、花の写真を多数掲載していた。特に彼は、花を追いかけている内に、ランの花の構造に造形の妙を感じたらしく、次々とランを探して歩いた。その量たるや膨大な量であった。
 彼は、二度の癌摘出手術を受けて後に、3度目に転移が発見された時点で、手術を拒否した。医師から余命を宣告されて後に、自分の人生の終末をしっかりと受け止めて過ごした。それ以降、彼は今風の言葉で言えば「終活」に入った。ある日、彼のメールに次のような内容が記されていた。
 
今日、遺産相続の手続きを済ませた。
 家屋は妻の名義にした。
 今日からは、自分で働いて購入した家なのに、私は居候の身分となってしまった。
 だからといって、明日からの生活に何も変化があるわけでも無いのだが・・・。

と。
 彼の死後、奥様に電話をいれたのだが、彼が、自分の死後の事について事細かくエンディング・ノートに記述しておいてくれたので、少しも戸惑うことは無かったと申していた。彼らしいなと思った。
 生前、彼は、多分間もなく旅立たなければならなくなると思うのでと告げて、彼がこれまでに撮影した全作品を私の許へ郵便で送り届けてきた。メールに添付して送るにはあまりにも膨大な量だったから、DVDに収録して送ってくれたのだった。私は彼に、生きている間は、毎日、1個づつ私のH/Pに掲載する旨の約束を彼としたものだった。今年の3月半ばに彼は逝ってしまった。そして今は8月半ばである。まだまだ当分彼の写真を掲載する作業は終わりそうにも無い。毎日、一種類づつ掲載しているのは、毎日彼を思い出したいからだ。いつもメールを下さる彼以外のたくさんのメル友から、既にN氏は他界されたと聞き及んでるが、『GKZ植物事典』の中では現役扱いですね等と告げてくるが、その都度言い訳がましく返信を送っている次第である。彼からの最後のメールは未だに削除することなく保存してある。
 私の許には、H/Pからの転載の許諾を求めるメールが多数届く。昨年、珍しく、ある映画会社から、映画に使用したいのでと許諾を求めてきた。偶然、その頁にはNさんの写真が掲載されていたのだった。そこで、彼にもその旨を伝えると、快諾してくれた。映画の制作が終了したら、DVDをお送りいただける約束だった。だが、残念なことに、DVDが届いたのは、彼がこの世を去った2ヶ月後のことだった。
  私もNさんに学んで、しっかりとエンディング・ノートを認めようとは思うのだが、まだ、1行も書けていない始末である。
 どんなに文明が進んでも、あの世とメールを交信するようにはならないだろう。長いこと、メールでお付き合いしてくれたNさんに、心を込めて合掌!
 蛇足:まるで関係のないおまけ                          
 今回は、今は亡きNさんを偲んで敬虔な面持ちで、『グレゴリオ聖歌:中世の祈りの歌』を聴きながらのタイピングだった。冒頭にも記したが、今日からお盆だ。先刻、菩提寺に向かい、ご先祖の霊をお迎えしてきたばかりだ。どうもちぐはぐな取り組み合わせでもあり、お迎えしてきたご先祖方に聞こえてはいけないと思い、ヘッドフォンで聞き流したが、やはり、ご先祖方にはお見通しだったかも知れない。Nさんのためなので、どうぞご容赦あれ。本日の音源はCD。演奏はサント・ドミンゴ・デ・シロス聖歌隊、指揮はドム・イスマエル・フェルナンデス・デ・ラ・クエスタ神父。
 Aug.. 15 2016