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ラジオの思い出
 私の日常生活の中でラジオは欠かせない存在である。ラジオは、私が物心ついた時には、家にあった。そして、空襲で焼け出されて、終戦直前に、東京からこの地に移り住んだ時にも、両親は、東京で過ごした頃に使用していたラジオをしっかりと持ってきていた。そのラジオは、何故か我が家では神棚の上に置かれていた。当時、ラジオや自転車は財産とみなされていたのだから、神棚に鎮座していても少しも不思議はなかった。当時は、現在のようにプラスティックが主流の時代ではなかったので、木製のキャビネットに収まった縦長のラジオであった。今でこそ、家の中にはそれこそ数え切れないほどの電化製品があふれているが、昭和二〇年代、電球以外の電化製品と云えば、唯一の存在がラジオだった。そのように考えると、ラジオは随分長い歴史を持っていると云えよう。
 当時、地方に住む人間にとって、各種の情報を伝えてくれるメディアは、新聞とラジオの二つだけだった。我が国の敗戦を知ったのも、この地で、そしてこのラジオだった。大人達の悲痛な表情を見て、何が起こったかは分からないままにもただならない出来事が起こったということ、それも、決して楽しい話題ではないことは、子供ながらにも理解できた。その後、数年間の我が国には悲惨な毎日が待ち受けているであろう等ということまでは推し量ることは出来なかったのだが。
 ラジオの何よりもの利点は、耳だけ傾ければ情報が伝わってくるという点だろう。それが最大に発揮されるのはカー・ラジオである。もう一つ、ラジオの楽しさは自分なりにイメージを膨らますことが出来るということだろう。たとえば、今は亡き開高健氏の芥川賞受賞作『裸の王様』ではないが、等しく同じ内容の情報を耳から聴いてみても、情報の送り手と受け手とが同じイメージを脳裏に浮かべているとは限らない。その点では、書物も同じではないかと思えるが、ラジオの場合、ナレーターの感情が音声に伴う点では、大きく異なると言えよう。たとえば、落語の中継をラジオで聴く場合と、書物を読む場合とを比較した場合に、大きな相違があることを私達は知っている。語り手の声色や語り口ばかりではなく、実際に演芸場に集まって直接落語を楽しんでいる人々の笑い声などが伝わってくると、ラジオを聴いていながらも、自分がその場に居合わせているかのように、伝わってくる会場の雰囲気に思わず引き込まれ、笑ってしまうものだ。同様のことはラジオによるスポーツ中継でも同様のことが言えよう。
 戦後間もない頃、世論調査をよく放送していた。実際に放送局から出て街頭で人々の意見を求めるのだ。ある事柄に対しての賛否を問うのだが、激しい口調で訴える人々の声を聴いていると、声の主の男女の区別はつくものの、いったいどのような人が意見を述べているのだろうと思わず想像してしまったものだ。
 上に述べたようなラジオの特質の中で、受け手としての側が求めていたものは様々であろう。一つには、最新の報道ニュース、天気予報等の正確な情報、そして、年齢層に応じた娯楽番組、或いは、教養番組等と、ラジオに求めるものは様々であったろう。
 今も記憶しているのは、秋の夜長に、両親は夜なべをしていて、子ども達は炬燵に入って、ラジオに耳を傾けている様子である。両親は、作業の手を休めることなく進めながらラジオを聴いている。これは、今日のテレビにはないラジオの特質だったと言えよう。
 当時は、未だ民放が開局されていない時代だったので、ラジオ局はたったの二局しかなかった。NHK第一放送とNHK第二放送の二局だけだった。前者は総合的な番組編成であり、後者は、どちらかというと教養番組が多かったように記憶している。小学校二年生の頃に、大人の真似をしてラジオのチューニングを変えていた時に、上述の二局以外の電波を着信してしまった。当時我が国に駐留していた米兵達向けの放送でFEN放送と呼ばれていた放送局からの放送だった。すべて英語の放送だから、何を言っているのかはまるでわからない。恐らく、私が外国語というものを耳にしたのはその時が最初だったといえよう。それまでにも、NHKのラジオ放送で、上方漫才や落語等を聴いていて、随分妙な日本語を話す人々だなと思ったことはあったが、何を言っているのかは多少は理解できた。ところが、英語は別だった。まるで理解できない。ただ、いつ聴いてもこれまた異質な音楽が流れて来た。当時我が国で流行していた「リンゴの歌」等とは異質な歌であることは感覚的にわかった。それからというもの、まるで分からないにもかかわらず、私はFEN放送ばかりを聴くようになってしまった。英語はまるで分からないままにも、そこに流れてくる音楽にどうやら惹かれてしまったようである。結果的に、翌年の小学校三年生から、NHK第二放送の「NHK基礎英語講座」を毎日聴くようになってしまった。FEN放送を分かりたかったからだった。結局小学校を卒業するまで続いてしまった。そして、NHKからは「白い花の咲く頃」とか「山の煙」といったラジオ歌謡が流れている頃に、私は、専らFEN放送から流れてくる「ブルー・カナリー」であるとか、「テネシー・ワルツ」、或いは、「オー・マイ・パパ」などと云ったアメリカン・ポップスに夢中になっていたものだった。もちろん歌詞の意味は分からなかったのだが。そして、終戦直後は、グレン・ミラーやベニー・グッドマンのスウィング・ジャズ全盛期であった。とてものりのよい音楽だったことも私を虜にしたのかもしれない。結局、ラジオの影響で、私は「英語」と「音楽」に興味を抱くようになってしまったと言えよう。やがて、中学生になる頃には、モダン・ジャズを聴くようになっていたのだが、当時は、まだそうした分野の情報誌もなく、とにかく全くの耳から受けた知識だけで、これはマイルス・ディヴィスだな、これはソニー・ロリンズだなと聞き分けていた時代だった。このホームページには、我が家にある音楽メディアのリストが掲載してあるが、ジャズの分野の作品が随分多いことに自分でも呆れているが、70歳になった今もやはりジャズは好きだ。話が横道に逸れてしまうが、ジャズを聴く世代というものが、どうやらあるようだ。ある一定の年齢以上の人間ばかりのような気がする。数年前に、カナダのモントリオール・ジャズ・フェスティヴァルに行ったことがある。たくさんの人々が集まっていたが、何方も50歳以上の方々と見受けられたものだった。今時の若者は、ジャズなどよりもどちらかと云えばメッセージ性の強いロックに夢中なのかもしれない。
 中学生になって、音楽の先生が夏休みの宿題を出した。それは、当時NHK第一放送から毎週日曜日の午前八時から放送された「音楽の泉」という1時間番組を毎週聴いて、その記録と感想とを書いて提出するという宿題だった。その当時、どの家でもラジオは一家に一台というのが当たり前だった。そんな状況の中で、上述のように私の場合にはアメリカン・ポップスやジャズばかり聴いていたために、家族からは顰蹙をかっていたのだった。そして、今度はクラシック音楽である。これまた当然のごとく皆から嫌がられたものだった。しかし、今度は「学校の宿題」というお墨付きがあるから胸を張って聴くことが出来た。それはそれとして、「音楽の泉」は、オープニングにシューベルトのピアノ曲<楽興の時>が流されて始まる番組だった。そして解説が堀内敬三さんだった。堀内さんは、アメリカのマサチュッセッツ工科大学の修士課程で応用力学を学んだという異色の才人だった。音楽之友社を設立したのも堀内さんだった。作詞、作曲、訳詞、音楽評論と多方面に活躍した音楽家だった。現東洋音楽大学の第二代学長も努めておられる。この堀内さんが、とにかく博学だった。当時NHKの人気番組であった「話の泉」にレギュラー出演していたが、他のレギュラー出演者の渡辺伸一郎氏や春山行夫氏と共に諸外国に関する該博な知識を披露してくれていた。その堀内さんの解説だけに、楽しくまた分かり易い番組であった。それまでアメリカン・ポップスの魅力に取り憑かれていた少年は、今度はクラシック音楽の扉を開くことになったのだった。クラシック音楽の世界も、その当時のラジオから流れて来た「別れの一本杉」であるとか「女船頭歌」等と云った音楽とは異質な分野の音楽であった。そして、このラジオ番組を聴いてから、まじめにクラシック音楽も聴いてみようという気持ちがわいてきた。夏休みの宿題は終わったけれど、やはり日曜日には欠かさずこの番組を聴いたものだった。
 高校時代には、ラジオを作ることに夢中になった。まだ、半導体素子が実用化される前の時代だったので、真空管式のラジオだった。高校生の時代になると、我が国も随分落ち着いた世情になり、色々な情報誌が書店の店頭に出回るようになった。そうした中に、ラジオ製作用の情報誌も多数登場していた。また、様々なラジオの配線図を掲載した単行本も販売されるようになっていた。何度もラジオの自作にチャレンジしたが、そのうちに、配線図通りに作れば音が出るのは当たり前のように思えて、その後は、専らスピーカーに夢中になったりもした。スピーカーをどのような形状で、どのような材質のキャビネットに収めるのが良いのかとその音質の変化に夢中になったのだった。
 結婚して先ず購入したものはステレオセットだった。丁度FM放送が実用化されたばかりの頃だったので、それを受信したくてのことだった。当時のステレオセットはとても大形で、かなりのスペースを要求されたものだった。現在のようにアンプやデッキがセパレート・タイプになっているものではなくて、一体型だったからだった。加えて、当時は、大音量で迫力のある低音域を再現できるためにはスピーカーの口径が大きいことが要求されたのだった。ステレオセットとは申せ、当時のそれは、チューナー・アンプ・レコードプレイヤー・スピーカーが、まとまってキャビネットに収まっていただけのものである。だが、ステレオで音楽が聴けるということは画期的な出来事だったのだ。当時、レコードのLP盤も市場に流通しており、当然ステレオ録音されていた。だが、その当時はレコード盤の価格がとても高価で、無闇に集めることができる程ではなかった。そうした時期に、FM放送ではステレオで音楽を流してくれたのだから、こんな有り難いことはなかった。毎日帰宅するのが楽しみで仕方なかった。当時のFM放送は、NHKだけだったが、クラシックばかりではなく、ジャズの時間帯もたくさん用意されていたので、ラジオを聴く楽しみが大いに増したことは云うまでもない。
 上のステレオセットの頃までは、とにかく放送局から流されてくる番組を聴くだけという受け身の状態だった。そこに、テープレコーダなる文明の利器が実用化された。自分で音楽を録音できることが可能となったのだ。自分で録音するようになってくると、好きな時間に好きな音楽を聴くことが出来るという能動的な音楽の聴き方に変化して行ったのだった。ただし、当時のテープレコーダはオープン・リール・タイプだったので、ランダムに音楽を並べ替えることが出来ず、録音時のシーケンスのままに聴かなければならなかった。だが、上述のように、レコードが高価なために、ラジオから流れて来る音楽を録音できるということはとても有り難いことだったのだ。やがて、テープレコーダがカセット・タイプに変化し、デッキもダブルカセットが標準装備となると、自分なりに好きな音楽をアルバム風に編集が可能となった。カセット・テープの普及は、やがて、やがて、FM放送の内容を事前にチェックしておき、好みの放送に応じて録音するという所謂エア・チェックが一つの楽しみになってきた。その頃には、そうしたエア・チェック愛好者向けの雑誌が発行されるようになっていたのだ。そこには、曲目ばかりではなく、演奏者名、演奏時間等の貴重なデータも記載されているのだ。録音済みのテープの処理にこれは大いに助かった。しかも、ステレオ装置も有り難い機能が加わったのだ。それはタイマー予約録音が可能となったのだった。たとえば、NHKFM放送のクラシック音楽は、午前九時頃からと、午後一時頃からの二回あった。つまり、勤務に出かけている時間帯なのだ。暢気にエア・チェックを楽しんでいるわけにもゆかない。ところが、自宅にいなくても録音が可能となったのだ。私に限らず、音楽好きの人間にとっては、こんな有り難いことはなかったといえよう。そして、音楽が益々身近になってきたと言えよう。おまけに、その頃には、自動車にステレオ放送受信用のチューナー並びにカセットデッキが標準装備されるようになったのだった。エア・チェックで留守録した音楽を通勤の途上でも楽しめるようになったのだ。その昔、レコード・プレーヤーの前に座り、一枚一枚しっかりターン・テーブルの上に乗せて、その場を離れることもなく、まさに名実ともに音楽鑑賞をしていた頃とは大きな違いとなったのだった。
 上には、小学生の頃にNHKの「基礎英語講座」を受講したと述べたが、その後も、ラジオからはたくさんのことを学んでいる。このホームページの中の「GKZ文庫掲載にあたり」でも述べたが、私は、27歳で大学に入った。高校を卒業して随分経過してもおり、受験勉強する必要があった。だが、その年齢で進学塾に臨むのもいささか抵抗があり、やはりラジオの大学受験講座のお世話になった。その頃には、既に民放が開局しており、文化放送から、旺文社の大学受験講座が放送されていた。それを聴きながら受験勉強をしたのだった。
 大学を卒業して、再び社会人に戻った時にも、ラジオの各種の教養講座を聴いた。私は、短い期間ではあったが、地方の民放テレビ局から放映されたある番組のプロデューサーを担当したこともある。それでいながらその頃も、今も、あまりテレビを見ることはなく、どちらかと云えばラジオに接することが多かった。テレビの場合は、生番組であれ、録画した番組であれ、いずれにしてもテレビの画面を注視しなければならない。つまり、テレビの前から離れられないことになる。不器用な私の場合には「〜ながら視聴」という形式は向いていないのだ。となるとどうしてもそれだけ時間的な制約を受けることになる。ラジオなら、電車の中でも、車を運転しながらでも聴くことが可能ということになるのだ。
 ところで、テレビやラジオの放送番組を利用しての学習には様々な魅力がある。列挙すれば次のような魅力がある。
 1) 一流の講師から学べる
 2) 費用がかからない
 3) 好きな時間に好きなスタイルで学べる
 4) 在宅のままで、或いは、好きな場所で学べる
 5) テキストが最新の情報である
 6) 始めるのも、辞めるのも自由
まだまだあろうが、このような魅力があるのだ。一方で、
 1) 指導者に質問が出来ない
 2) 孤独な学習方式であり、仲間が出来ない
等の欠点もあることは確かだろう。
 実技を伴う講座の場合には、やはりテレビはかなわないとも言えるよう。
 高校生の頃に、ポータブルラジオというものが出現した。これは画期的な出来事だった。半導体素子が実用化することによって登場したということになる。それまでラジオとは自宅で楽しむ物と思って過ごして来たが、持ち運べるようになったのだ。そして、年々小型化の一途をたどっていった。それに伴い、イヤフォンやバッテリーも進化していった。やがて、ポケットに入るまでに至ってしまった。そうなると、電車の中で講座番組を聴いている人々も目にするようになってきた。それまでは、電車の中では読書をして過ごして来たが、今度は、ラジオを聴きながら読書をすることも可能となった。そして、近年になってからは、デジタル・オーディオ・プレイヤーが登場するに至り、当然それにもチューナーが内蔵されており、散歩の途上でもラジオを楽しめるようになっている。今後テレビは益々発展して行くだろうが、ラジオが消えて無くなることもなさそうである。
 蛇足:まるで関係のないおまけ                          
 今回は、テーマに合わせてラジオを聴きながらタイピングしてみた。昔と比べて、ジャズを流す時間帯が減ってしまったように思えて幾分淋しい思いをしている昨今である。
 H.22.03.30