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宇都宮貞子さんが残してくれた記録
 このところ、年齢の関係で、あちこちの病院に行かなくてはならない生活を送っている。大きな病院の場合、診察以外の時間がたくさんある。つまり、待ち時間がたっぷりある。そこで、病院に行く時には、毎度、自宅から書物を持参して、待ち時間に目を通して過ごしている。このところ、宇都宮貞子著『草木ノート』(読売新聞社1970年発行)をずっと読み通している。この書は、最初から最後までと読み通すのではなく、自分の興味関心のある内容を選んで読むことが出来るからだ。B5版で300頁を超える書であるから、持ち運びには、幾分荷物になる書だ。しかし、中に書かれている内容を読むと、この本一冊を携行するのを苦にしている等と云ったら、それこそ宇都宮さんが病身をも厭わず精力的に長野県内を東奔西走されたことをご存じの方々からお叱りを頂戴してしまうのかもしれない。とにかく、読む度に、その活動ぶりには頭が下がる思いがする。
 宇都宮貞子さんの文章に初めて出逢ったのは、随分昔に長野県に出かけた時に、ある宿で、新聞に目を通していたときだった。穏やかな語り口で植物の長野県での方言についての解説が述べられてあったのだった。その時には、興味深く読みはしたものの、しっかりと気に留めておこうという気持ちには至っていなかった。その後、5,6年を経過して、勤務先から帰宅の途上、いつも立ち寄る書店で上掲書を目にした。『草木ノート』、如何にもシンプルなタイトルだ。その時点では、私には、宇都宮貞子さんという著者に対する予備知識がまるでなかった。加えてシンプルなタイトルに、<この本は売れるのだろうか?>とさえ思ったものだった。だが、序文は哲学者の串田孫一氏であり、跋文は文化人類学者の山口昌男氏である。加えて出版社が読売新聞となると、この著者、徒者では無いなと思えたものだった。奥付を見ると、著者の略歴が披露されている。
 明治41年(1908)12月、長野市で生まれる。
 旧制県立長野高女卒。東京女子大中退。
 著書『草木おぼえ書』、『山村の生活』
 住所 〒380 長野市○○○○
 明治に生まれ、東京女子大まで進学したと言うことは、それなりに裕福なご家庭に生まれ育ったのであろうとの推測は容易だ。しかし、上掲の4行だけの略歴では、それまでどのような活動をなさってこられたかまでは推し量ることは出来なかった。
 だが、著者の書かれた<あとがき>を読んで、幾らか納得できるヒントが得られた。本書タイトル『草木ノート』とは、著者は、尾崎喜八氏や串田孫一氏等が主宰する山の文芸誌『アルプ』に同名のタイトル(草木ノート)で10年以上にわたって連載執筆をしていたのだった。
 私の若い頃の唯一の趣味或いは道楽は登山でしか無かった。したがって、『アルプ』誌の存在は知ってはいたが、恥ずかしながら、一度も手にしたことは無かった。だから、私は、宇都宮貞子さんについての予備知識が無かったのだろう。だが、当時から、知る人ぞ知る大きな存在であったのだった。
 とにかく、立ち寄った書店の店頭で、内容に目を通してみた。すると、ふと、以前、長野の宿で読んだ新聞記事を想起した。穏やかな語り口と長野の方言、これは確かにあのとき読んだ文章と同じ筆者だと思い込んでしまった。後に分かったことだが、やはり、宇都宮貞子さんは、毎日新聞の長野県版に連載記事を掲載していた時期があったのだった。そこで、迷わず、購入することとなった次第である。
 その後、等しく読売新聞社から出された『草木おぼえ書』、『草木の話:春・夏』、『草木の話:秋・冬』、岩崎美術社から出された『植物と民俗』等々を続けて購入し読み通したものだった。
 ところで、このホーム頁には、「GKZ文庫」と称して、我が家の書斎にある書物のリストを掲載してある。当初は、植物関連の書ばかりであったが、今では、蔵書のほぼ70%程度を掲載してある。個々の書物は、私の独断と偏見による分類法によって掲載してあるのだが、最も困惑したのが、宇都宮さんの書だった。どこに分類すべきなのかが分からなかったのだ。
 『植物と民俗』は、タイトルに従って<文化人類学・民俗学>の分野に分類した。残る書は、一体何処に分類するのが正しいのかがまるで判然としないのである。
 慶応大学教授の遠藤義之氏は、宇都宮貞子さんの作品は「文学」であると述べている。東大理学部の教授でもあり、植物民俗学や植物方言学の専門家であった倉田悟氏は、「植物民俗学」であるとしている。文化人類学者の山口昌男氏は、「文化人類学」の立場から賞賛の言葉を投げかけている。私、個人の意見とすれば、そのどれもが言い得ていると思うのだ。まだ、付け加えるとすれば、「民俗誌」であるとも思える。或いは、「社会学」とも受け取れる。更に、「地場産業誌」とも言えなくは無い。だが、何よりも、細やかな視点を注いで観察した個々の植物の描写は、間違いなく「植物誌」であるともいえる。結局、私は、『植物と民俗』以外は、どれも<植物誌>の分野に分類してみた。宇都宮さんがそれを知ったら、私の目標とした分野では無いとお叱りを受けてしまうのかもしれない。
 宇都宮さんが植物方言を集め記録するようになったのは、戦後の事であると『草木おぼえ書』の奥付に記載されている。生年月日から計算すると、40歳前後ということになる。大学中退後、戦前・戦中・戦後と、果たしてどのような職業生活を送られたのかは、私には、それを知るだけの資料が無い。ただ、たとえば、『草木ノート』等を読んでいると、古事記や枕草子といった我が国の古典に通じておられたことが垣間見られるのである。宇都宮さんがどのようなきっかけで植物方言を採録に踏み切ったのかというきっかけも知りたいし、また、それらをどのような目的で発表されたのかも知りたい。だが、それらに応えてくれる資料は、私の手許にはない。
 宇都宮さんは、御自身がお住まいの長野県内を縦横に訪ねて歩き、個々の植物の方言を採録したのであった。それは、文化人類学者がフィールドワークに臨み、その結果をフィールド・ノートしたような手法と相似ているようにも思える。ただ、必ずしもそうとは言えないが、概して文化人類学の場合、異文化社会に入り込んで、そこに根付き、継承されているる「文化」の意義や意味を説き明かしている。宇都宮さんの場合、長野県内に居住し、訪ねた先も長野県内である。だから異文化社会ではないと言えよう。だが、考えようによっては、次のようにも考えられるのである。
 たとえば、宇都宮さんの採録によれば、アズマイチゲのことを野沢地方では「ノノツケバナ」という。ノノツケバナとは、「ヌノツケバナ」の訛りであると言う。この場合のヌノとは麻布のことであると言う。昔、その地方では、麻布を織っていたという。しかし、木綿が普及すると麻布は廃れていって、伝統産業としてはアケビ細工が奨励されるようになったのだという。そのように説明してくれる現地の人の79歳になる奥様も昔その当時麻布を織っていたことを知らないという。終戦の年に90歳で亡くなったお姑さんは織っていたという。その麻布を織っていた時代には、春、日向から雪が消えて、日陰にだけ雪が残っていることに、冬中に織った麻布を雪の上で晒したのだという。麻布は、日光と溶けた雪の水とでアクが抜けて白くなるのだという。そうした作業をしている頃に、ちょうど見られる花がアズマイチゲであり、ノノツケバナと呼んでいたというのが由来であると言うのである。
 ここで、私は、思うのである。こうしたノノツケバナという方言が生まれた時代というのは、宇都宮さんの生きた時代とは、一昔も二昔も前の時代と言うことになる。つまり、採録している宇都宮さんにとっては、地理的にではなく、時間的にタイムスリップして「異文化社会」に飛び込んだようなものではないだろうか。だから、山口昌男氏のいうように、宇都宮さんは、立派な文化人類学者でもあったと言えるのではなかろうか。
  上のノノツケバナの例は、ほんの一例だが、とにかく、個々の植物と人々がどのような関わりを持って来たかということが、宇都宮さんの記録には随所に残されている。その意味では、立派な植物文化史でもある。
 長野県はとても広い県である。そしてたくさんの山々に囲まれている。現代のように、自分で車を運転してあちこちと訪ね回れる時代ではない頃には、そして、現代のように、マス・メディアの発達した時代ではなかった頃には、文化の伝搬が遅かったのではないかと思われる。逆に、その地方毎に、地域に根ざした文化や民俗が定着し、世代を超えて伝承されたのだろう。そのことは、同じ長野県内でも、個々の植物に対する呼び名が異なっていることを、宇都宮さんが採録し、それぞれの書で発表してくれている。巻末には、長野県の地図まで添付されている。
 またまた宇都宮さんの書から事例を引き出すと、ショウジョウバカマのことを信濃町ではチャセンバナと言ったという。だが、チョウセンバナとも言ったという。宇都宮さんは言う。チャセンバナとは、つまり、「茶筅花」であり、花姿が似ているからの命名であろうという。それは、お茶を嗜む人々の命名であろうと宇都宮さんは推測しておられる。更に、貧しい生活を余儀なくされた農民が、「茶筅」とは何かを知ろう筈がない。そこで、チャセンがチョウセンに転訛したのだろうと推測が深まるのである。
 そうした個々の植物に対する方言の意味するところを語ってくれる現代の語り部を自分で探し求めて訪ねて行き、採録したのだった。宇都宮さんの表した書の巻末には、膨大な量の方言名が記載されている。凄い記録だと思う。無理に名前をつければ<信州植物方言集彙録>とでもなるのであろうか。
 宇都宮さんの記録を読んでいると、一昔、或いは二昔も前には、長野県内に住む人々は、どのような農作業をして、どのような日常生活をしていたか、そして、その中に、それぞれの植物がどのようにかかわっていたかが詳細に述べられている。そうした中に、子どもの遊びと植物の関係も随所に登場してくる。
 例えば、『草木おぼえ書』の目次に、「すっぽんのき」という見出しがある。その下に「キブシ」と書かれてある。その記述の書かれた頁を開く前に、私は、果たしてスッポンとキブシがどのような関係があるだろうかと推測してみたが、容易に解決しなかった。それもそのはずである。私がイメージしたのは、カメの仲間のスッポンであったのだ。だが、当該の項を開いて見ると、私の想像を遙かに超えた答えが出ていたのだった。
 そもそもキブシとは、この木の実をヌルデの葉に出来る「付子」の代用にしたことからキブシの名がある。このことは他の書からその語源を承知していた。そして、「お歯黒」等にも用いられたと言うことも承知していた。ただ、宇都宮さんの記述を読んで分かったことがたくさんあった。
 先ず、キブシのことを「マメブシ」と信更地方では言っていたという。この場合のブシは上述の「付子」であり、マメとは、キブシの実のことであると言う。この実を詰めて豆鉄砲として遊んだからと言う。そのマメブシが鬼無里や宝光社では「マメンブチ」と言ったとある。これは、マメブシからの転訛であるのは推測に易い。だが、宇都宮さんは面白い報告をしている。このマメブシは、現代のでは、「付子」の意味も分からなくなってしまったことから、花屋さんでは「マメフジ」として販売されているというのである。
 話を戻すと、キブシを杉野沢地方では、「ズヨ」、「ズヨノキ」と称したという。この木の髄を押し出して、子ども達が遊んだことによるという。ここで、宇都宮さんは、「ズヨ」は、「ズイ」の転訛であろうと推測しておられるが、納得の行くところである。
 青木湖畔では、キブシを、お年寄りは「トオスミ」と言い、その娘さんは「スッポンノキ」と称したと記述している。先ず、「トオスミ」とは、野尻地方で言う「トーシンノキ」に通じる。つまり、「灯芯の木」の意なのである。小谷地方では、キブシを「マンブシ」と言い、その意味を、宇都宮さんは、小谷のSさんからのお言葉を記述している。
 「マンブシのズイを突き出して子どもが遊ぶが、これはもと神さんに上げるお灯明の芯にしたもんだね。」と。現代社会では、「灯芯」という言葉ばかりではなく、実体も知らない人が多いのではなかろうか。ここでもキブシという樹木が人々の生活に密着していたことが理解できる。
 ところで、「スッポンノキ」の意であるが、次のようなことからだった。当時の子ども達が、キブシのズイを取り出して口に入れ、それを口から吹き出してスッポンスッポンと遊んだからと言うのである。カメの仲間とはまるで関係は無く、擬音語からだったのである。ただ、ここで思うのは、当時の子ども達は、そのような遊びをしたが、果たして、現代の子ども達は、身近な植物を使って遊ぶことがあるのだろうかと思う。上に、キブシの実を使って豆鉄砲として遊んだとの記述を紹介したが、私の子どもの頃には、やはり、スギの雄花を詰めて「杉の実鉄砲」として遊んだり、チャノキの花の蕾を詰めて鉄砲にしたりと、色々と遊んだものだったことが懐かしく思い出されるのである。
 とにかく、宇都宮さんの書には、随所に、子ども達がそれぞれの植物を使ってどのように遊んだかが紹介されているのだ。そして、それら子ども達の遊びから生まれた植物方言もたくさんあることがこれまた紹介されている。
 ある意味、宇都宮さんは、良い時代に植物方言を採録したと言えよう。というのは、宇都宮さんが訪ねた人々の同年代の人々を、今日訪ねて見ても、すっかり都市化してしまった日常生活を送る人々から、それぞれの植物方言の由来を聞き出すことは出来ないのではないかと思えるからである。カラオケを楽しみ、テレビを見て、子どもは電子ゲームやパソコンに夢中になって過ごしている生活の中では、植物との密着の度合いは薄れてしまってきているように思うのだ。それだけにこそ、良い時期に宇都宮さんはフィールドワークに出たとしみじみ思うのだ。そして、このような記録があるからこそ、何故そのような名前が出来たかを理解できることになるのだ。宇都宮さんのような方が、日本全国に存在したらとも思う。
 だが、宇都宮さんは『草木おぼえ書』の後書きの中で、次のように述懐しておられる。
 「
三、四年来、喘息持ちになった上に腰と膝を悪くし、山登りどころか買い物も自由にできなくなったが、歩かずにすむ所を選んでは探訪に出かけていた。行儀歩く横座りをしているが、時間が長くなると痛んで我慢しきれず、お断りして机の下に足を投げ出したり,痛む膝を左手で支えながらノートしたりする。頼まれもしないのに何のためにこんな苦労をして、と自嘲しながらも、暫くするとまた出掛けて行くのだ。
 それが、出歩きが好きなのではない。健康な時から、探訪の旅ばかりでなく、山登りでも温泉行きでも、実に出かける時は腰が重い。やっと振り切るようにしてバスに乗ってしあめば、もう行くより仕方なく観念してしまうが・・・。予定の朝、天気が悪いとホッとする。お天気でも、どうも西に雲があるようだ。アルプスが見えそうにない、などと理由をつけてやめそうになる。現地について山が雲に隠れていると変に安心する。結局ズクナシ(精なし)なのだ。
」と。
 この後書きを記述した時には、宇都宮さんは64歳だった計算になる。実に頭が下がる。
 宇都宮さんの書を読んでから、私は、民俗学の分野の書をたくさん集めることとなった。また,地方史や地方誌の書もたくさん買い求めた。長野県以外の事情も知りたかったからである。そこには、現代生活とはまるでかけ離れた生活が登場する。そして、人々の生活と植物が如何に密着していたかが理解できるのである。今日の生活の中では、食品や野菜・果物等以外には、植物が意識されることは少なくなってしまっている。もちろん、ガーデニングは盛んになっている。しかし、その対象とされる植物群は、大半が外来植物ばかりである。宇都宮さんの書に登場するような生活に戻ることは、もう無いと思う。だが、身の回りに存在する草木を忘れてしまって良い物だろうかと思うのだ。
 こんな駄文を何方が読んで頂けるかわからないが、とにかく、植物文化史や植物方言に関心のある方は、ぜひ、宇都宮貞子さんの書を開いてみては如何だろうか。私は、宇都宮さんの残してくれた膨大な記録を自信を持ってお勧めしたい。
 蛇足:まるで関係のないおまけ                          
 やっと今年も春が来た。庭のカタクリが明日にも咲きそうだ。張りのある歌声を聴きたいなと思って、今日のBGMはSarah Vaughanにして見た。見事な声量と音域、そして伸びのあるビブラート、兎に角申し分ない。サラのレパートリーは広い。特に、ビートルズ・ナンバーは良い。また、カウント・ベーシー・オーケストラと共演した”Send in the clowns”(1981年発売)のレコードは、今も私の宝物だ。アントニオ・カルロス・ジョビンと共演したボサ・ノヴァもよい。歴代の女性ジャズ・ヴォーカリストの中でも3本の指に入ることには異論はないのではなかろうか。本日の音源は、外付けハードディスクに収録された音楽の中から、サラの曲だけを拾い出してランダムに流してみた。それにしても彼女が他界してから、もう20年以上にもなる。
 H.24.03.24