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佐藤達夫氏の画文集
 我が家には、佐藤達夫氏の画集が数冊存在する。今でこそ、何の不思議もなく眺めてはいるけれど、初めて手にしたときには大いに戸惑ったものだった。
 先刻ご案内のこととは思うが、先ずは、佐藤達夫氏のご紹介をしておこう。佐藤氏は、戦後間もない頃の内閣法制局長官であり、その後は、国の人事委員会総裁という要職を歴任された御仁である。また、現行の日本国憲法の立案者としても知られている存在でもある。
 佐藤達夫氏には上述のような予備知識から、我が家では、学陽書房から出された『法令用語事典』であるとか、等しく同社から出版された『法制執務提要』といった書が書棚に収められていた。
 随分昔のことであるが、ある日、通勤途上で、いつも立ち寄る古書店に入った。その日、偶然にも学陽書房から出された『続植物誌 絵と文 佐藤達夫』なる書物が目に留まった。上述のように我が家の蔵書の中には、佐藤達夫氏と学陽書房との結びつきは容易に納得できたものだった、しかし、私は、怪訝な思いでその書を手に取らざるを得なかった。というのは、先ず最初に、学陽書房でも植物関連の書を刊行しているのだろうかと疑問に思えたからだった。当時も、今も、学陽書房と申せば、法令関係や行政関係の書物を専門にしていることで知られた出版社である。それだけに幾分奇異に感じのだった。出版社がジャンルを広げたにしても、随分これまでとはかけ離れた分野であるからだ。また、それ以上に合点が行かなかったのは、私の脳裏では、佐藤達夫氏と植物誌とがうまく結びつかなかったのだ。私の頭の中にある佐藤達夫氏といえば、法令の専門家であり、国家公務員としての存在しか思いが及ばなかったのだった。あるいは、上述のような予備知識もなく単純にその書に出会っていたならば少しもためらうことも無かったのであろう。しかも、書名のタイトルには植物誌の前に「続」の文字が存在しているのだ。つまり、その書以前に既に『植物誌』と銘打った書物が刊行されていることは推測に易いことである。佐藤達夫氏に対しては大変失礼ながら、「佐藤」という姓も、「達夫」なるお名前も我が国ではさほど珍しくない存在である。ひょっとしたら同姓同名ということもあるかと、半信半疑で手にした書の奥付を開いてみた。すると、そこには、私の予備知識にあったとおりの佐藤氏の経歴が記載されていた。加えて、そこには、これまでに植物関連の書が多数世に出されていること、そしてその書の前編に相当する『植物誌』では、日本エッセイストクラブ賞を受賞している旨の記述もあったのだ。つまり、知らなかったのは、私の側であり、当時から佐藤達夫氏は、知る人ぞ知る植物関連図書の執筆者でもあったということになる。肝心の内容を見てみると、これまたびっくりだ。見開きの右側の頁には書名に違わず植物誌が掲載されていた。左側には、モノクロームの絵が掲載されていた。その書の表紙に、「絵と文 佐藤達夫」とあったのだから、当然描き手は佐藤氏と言うことになる。それにしてもあまりにも見事な細密画であった。思わず脱帽であった。私は、躊躇わずにその書を購入して帰宅したものだった。
 自宅への帰路、電車の中で、しみじみとその書を読んでみると、いろいろなことが分かった。先ずは、本書は、佐藤氏が他界されて後に刊行されている。佐藤氏は、昭和49年(1974年)にご逝去されているが、本書は昭和52年の出版であった。本書の後書きは佐藤氏のお嬢様が記述されておられる。佐藤氏亡き後、佐藤氏の奥方も本書の刊行を待たずに別の世界へと旅立ってしまったからだ。お嬢様によれば、本書の後半部分は、佐藤氏ご自身は入院先の病院で仕上げたということであった。つまり、本書は、佐藤氏の絶筆が掲載されていることになる。車中で、私は、大変な書に巡り会ってしまったと思ったものだった。
 翌日、件の古書店にまたしても立ち寄り、佐藤達夫氏の『植物誌』正編を見つけて欲しいと注文したところ、ほぼ一週間後に入荷した旨の電話があった。正続双方の書の後書きや奥付を見ると、さらにいろいろなことが分かってきた。
 佐藤氏が植物に興味を持ちだしたきっかけは、中学生時代の夏休みの宿題で植物採集を始めたことという。その後、成人しても、ずっと野山に入って植物採集を続けたという。
 また、佐藤氏が草木のスケッチを始めたきっかけは、日本楽器の社長であった高木嘉市氏の植物図譜を目にしたのがきっかけであったという。
 それにしても、内閣法制局長官であるとか、国の人事委員会総裁等という要職を歴任する中で、植物採集や植物画を描くなどというと、本務に対しての取り組みは果たして如何なものであったのだろうかと訝しむ御仁もあろう。佐藤氏は次のように述懐されておられる。
  「忙しい公職を持つわたしが、こんなのんきな本を出したりすると、いかにも本務をおろそかにして、わき道に熱中しているように誤解されそうである。ひとさまがゴルフや麻雀を楽しみ、野球放送などに興じておられる時間をあてての私なりのレクリエーションなのだから、このくらいのあそびは許していただけるだろう。」と(雪華社刊『植物誌』<あとがき>より
何やら佐藤氏の人柄が偲ばれる思いがしないだろうか。
 正・続『植物誌』は、白秋同門の歌人・宮柊二氏の短歌雑誌『コスモス』に毎号掲載されたものだった。それも10年以上にもわたって連載されたものをまとめたものが正・続『植物誌』ということになる。お嬢様は続編の後書きで、次のように述べておられる。
  「ことに『コスモス』に載せたスケッチと文章は、すべて書き下ろしたものばかりで、季節季節に応じた  素材を探して熱心に描いておりました。」と。(学陽書房刊『続植物誌』<あとがき>より。
 また、氏ご自身も
  「すべて実物を手本にいっしょうけんめいに描いた。へたながらも、草木に対するわたしの愛情がす   こしでも滲みでていたらうれしいと思う。」(雪華社刊『植物誌』<あとがき>より)
と述べておられる。
 佐藤達夫氏は、上述の植物採集や植物画ばかりではなく、短歌も嗜んでおられた。『景色』と出された歌集も出しているのだ。また、第一法規出版社から『土曜日・日曜日』という随筆集も出しておられる。随分多才な御仁だった思う。そして一度でもよいから生前にお目にかかってお話をうかがいたかったなと思うのだ。ゴルフ好きの方々には大変恐縮でもあり、かつまた顰蹙を買ってしまうかもしれないのだが、生涯ゴルフはしないぞと心に決め、未だに一度もクラブを手にしたことのない私には、強い見方を得られたようにも思えたのだ。
 その後、佐藤達夫氏の植物画に惹かれて、次々と佐藤氏の画文集を買い求めてしまった。上述の正・続『植物誌』の場合は、植物画はモノクローム、つまり彩色画ではなかったが、その後彩色画も出版されていた。そして、上述の宮柊二氏の短歌雑誌『コスモス』ばかりではなく、他の雑誌や定期刊行物にも画文集を連載されていたことがわかった。また、写真集も出版されている。そして、牧野植物同好会、東京山草会、日本シダの会などにも所属されいた。氏のお嬢様は、次のようなことも記述されている。
   「これまでの本は、父の感化で植物に関心の深かった母がおりましたので、私はそばで眺めているだけですみましたが(後略)」(矢来書院刊『佐藤達夫画文集』<あとがき>より)
 また、奥様も、後書きを残しておられる。『私の植物図鑑』(矢来書院刊)は奥様のものである。その後の後書きはすべてお嬢様のものとなっている。佐藤達夫氏が急逝されてしまったために、植物関連の書は、氏の死後に刊行されたケースが多かったからでもある。
 我が家の蔵書の中で、佐藤達夫氏の植物関連書は次の通りである。
  1 『絵と文 植物誌』(雪華社 1966年)
  2 『続 絵と文 植物誌』(学陽書房 1977年)
  3 『佐藤達夫 花の画集1』(東京新聞出版局 1979年)
  4 『佐藤達夫 花の画集2』(東京新聞出版局 1979年)
  5 『佐藤達夫 花の画集3』(東京新聞出版局 1979年)
  6 『私の植物図鑑』(矢来書院 1977年)
  7 『佐藤達夫画文集 県の花』(矢来書院 1978年)
  8 『写真と文 花の幻想』(矢来書院 1980年)
  9 『佐藤達夫 花の画集a』(U-Leag 1995年)
  10 『佐藤達夫 花の画集b』(U-Leag 1995年)
  11 『画文集 花の絵本』(東京新聞出版局 1978年)
 上掲書の中で、3〜5は、三巻セットでケースに入り販売されていたが、この三冊ばかりは、新本を購入した。他は、どれも古書店で求めたものばかりである。このほかに、矢来書院からは『私の絵本』という遺稿集が出されている。あちこちの古書店をのぞいてみるのだが、まだ直接手にする機会がない。
 私は、絵は描けない。まるで駄目だ。それだけに絵を描ける人は手放しで尊敬してしまう。佐藤氏の画集は、どれも未だに私の宝物である。いつに日にか、佐藤氏の残りの一冊である『私の絵本』に巡り会いたいと思っている。
 蛇足:まるで関係のないおまけ                          
 今回は、佐藤達夫氏とは、それこそまるで関係のないのだが、European Jazz Trioの演奏する”Air for the G-string"を聴きながらタイピングしました。EJTは、「悲しみのシンフォニー」で一躍脚光浴びたピアノ・トリオだ。特に、ピアノのマーク・ヴァン・ローンは、ビル・エヴァンスの影響を強く受けていると言われている。このCDは、全5枚組で、すべてクラシック音楽をジャズ化したものであり、ビクターから’Swingin' Classic’と題したアルバムとして発売された1枚目である。
 H.21.2.27