←トップ頁へ

足田輝一(著)『雑木林の博物誌』(新潮選書 1977年)
 どうも妙な病気となってしまった。数年前に、偶然、血液検査の結果判明したのだが、その時に、医師が、データを示しながら、
 「この数値では、今日死んでも、明日死んでも、少しもおかしくない状況です。」
と言い放った。
 そのように宣告された私自身は、あまりにも唐突でもあり、信じられない思いであった。それに、何より、平素から何の自覚症状も無かったからだ。
 とにかく、その医師の紹介状を手にして、疑心暗鬼のまま、某大学病院の「血液腫瘍内科」という診療科を訪ねた。色々と検査をした結果、前述の医師が申した言葉に虚偽の無いことを説明してくれた。どうやら、骨髄に異常を来しているらしく、体内で血液を作るプロセスに問題があるようだった。結論として、原因は分からないということだった。根本的な治療としては、骨髄を移植する以外には方法はなさそうだった。しかし、既に齢70を超えた私のような高齢者には、そうした手術も行わないらしい。結局は、投薬治療で様子を見るという結論に達したのだった。それから、既に数年を経過してしまったが、毎月、その大学病院に通院している。
 と、妙な書き出しを始めてしまったものだが、このコーナーでは、私自身の病状を詳細に述べる積もりはない。また、それが主たる目的でもないからだ。
 いずれにしても、冒頭の医師に宣告を受けて以来、家族や身内に迷惑をかけてもいけないからと、毎朝、妻と一緒に5,6qの散歩をする以外には、自宅を出ることは無くなってしまった。そこで、月に1回だけだが、大学病院まで通院することが楽しみになってきたのだった。高速道路を走行して向かうのだが、目に入る光景が四季折々の姿を見せてくれる。加えて、上述の大学病院の置かれている環境が、私にとっては、とても良いロケーションにあるのだ。周囲が雑木林に囲まれているのだった。毎回、大学病院に向かうと、診察前、血液検査が済んでその分析結果がでるまでの間、そして、診察終了後と、都合3回ほど、大学病院周辺の雑木林に入る。この雑木林に入れるということが、何よりもの楽しみなのだ。病気にならなければ、こんなに何度も雑木林を訪ねることはなかったろうと思えて来てしまうほどである。そして、毎月向かっているのは、通院が目的では無く、通院を口実にして雑木林入ることが目的なのではないかととさえ、自分で自分を疑ってしまうほどである。
 先ず、大学病院に到着すると、駐車場に車を置き、我が儘な私は、妻に受付の順番待ちを依頼して、そのまま、カメラを手にして、駐車場に隣接した雑木林に入る。まだ、太陽光線が斜めなので、撮影には不向きな時間なので、本番を前にした実地踏査の気分なのだ。
 それにしても、雑木林というのは、不思議な空間である。行く度に、発見がある。まるで『不思議な国のアリス』にでもなったかのように、嬉々として歩き回る。行く度毎に異なる植物を目にする。そして、同じ植物であっても、開花していたり、結実していたりと、様相を異にしている。晩秋になると、大変だ。私が苦手とするキノコが顔を出すからだ。キノコばかりは、刻々と様相を変えるものだから、図鑑を開いてみても、中々同定に至らない。そして、冬になると、また楽しみがある。常緑樹と落葉樹との位置関係や、樹形の在り方等がじっくりと観察できる。
 と、そのような次第で、病気が判明して以来というもの、唯一の楽しみが大学病院周辺の雑木林に入ることとなってしまったのだった。私の病気の場合、別に顔色が悪いわけでもなく、特に痩せていたり、太っていたりすることもない。見た目には、普通の人と、少しも変わらないのだ。そうした人間が、毎月、カメラを携えて駐車場に隣接する雑木林をうろつくものだから、駐車場の係員の方も、私を確認しているらしく、
 「毎月、お見えになっていますが、何を探しているのですか?」
と尋ねられたりもしてしまう。
 また、あまり,夢中になって、歩き回り、つい時間を忘れて、予約時間を経過してしまって、同行する妻から顰蹙を買ったり、主治医に苦笑いをされたりすることもしばしばである。
 そんな風にして、大学病院周辺の雑木林を歩き回っている時に、いつも想起するのは、足田輝一さんとその著書『雑木林の博物誌』(新潮選書)だった。
 まだ職業生活を送っていた頃、いつものように勤務を終えて途中にある本屋さんに立ち寄った。新潮選書のコーナーに、これまで目にしたことのない書名の書が目に留まった。著者名を見ると足田輝一とある。その時点では、私にとってはこれまで名前を聞いたことも、耳にしたこともない人物だった。
 手にとって開いて見る。目次を見ると、雑木林を一年を通して著述していることが分かった。裏表紙の裏頁に、写真入りで足田さんのプロフィールが書かれてあった。1918年兵庫県生まれとある。北海道大学の理学部動物学科を卒業されて後に、朝日新聞社に入社している。『科学朝日』誌や『週刊朝日』誌の編集長などを経て、後に、出版局長などを歴任され、1973年に、退職をされている。ふーんと思って、本文を、開いて見た。私にとっては、興味をそそられる内容が満載だった。随分博学な御仁だなと思いながら、巻末にある「参考にした本」というコーナーを覗いてみた。驚いたことに、5頁にわたって、植物文化史関連の書名が羅列されていた。これはただ者ではないぞと思い、その書を購入したものだった。
 その後、すっかり足田さんに夢中になり、あれこれと買い求めては読みあさった。分かったことは、大学での専攻は昆虫学のようであった。そして、定年退職後は、御自身でも自分はナチュラリストであると述べておられるように、武蔵野の雑木林に足繁く通い、フィールドワークを行ったのだった。そうしたフィールドワークによって得た結果や、発見した結果をもとに、足田さんが、それまで読まれた書物に記述されていた内容との関連の中から、「自然の営み」の何たるかを語るために、次々と著書を刊行されたのだった。
 足田さんの定年退職後の生き様を知るにつけ、当時は、すっかりその生き方に憧憬の念を燃やすこととなってしまったのだった。上掲の『雑木林の博物誌』を手にした頃は、私自身は、とにかく多忙に過ぎる職業生活を余儀なくされた頃でもあった。それだけに、是非、定年後は、足田さんのような生活を送りたいという渇望とでも言える心情が湧いてきたのだった。とにかく、足田さんは、自分自身の第二の人生の目標とした人物となってしまったのであった。 
 足田さんは、平成7年(1995年)に逝去されている。晩年に進行癌に冒され、全摘出手術を受けて後に、3年の療養生活を送られたのであったが、再発し、他界されたのだった。足田さんの絶筆は『雑木林の光、風、夢』(文藝春秋社刊 1974年)である。内容は、雑誌『諸君』の誌上に永年にわたって掲載を続けたコラム「雑木林通信」の後半10年分をまとめたものである。その絶筆となった『雑木林の光、風、夢』の後書きとして、奥様の言葉が添えられている。
 「
亡くなる一週間前、枕元に小机を運ばせて何やら書いておりました。それは「私の一生は充実した意義深い生涯であった」という言葉ではじまっている遺書だったのですが、そこに一つの句がありました。この本の巻頭にのせさせていただいた辞世の句です。うまい下手はよくわかりませんが、生前よく、こんな幸せな毎日でいいのかなぁ、と口癖のように話しておりました夫らしい句として、わたくしには忘れられません。
 そして、足田さんの辞世の句とはつぎの通りである。
   
雑木林の土に眠りて雲蒼し 輝
 私は、今も思い続けている。足田さんのように、「私の一生は充実した意義深い生涯だった。」と言い残して自分の人生を終えたいと。他者から見れば、私の存在等は、平々凡々でしかなかったように見えるかもしれない、或いは、傲慢で鼻持ちならない存在だったかもしれない、家族からすれば、我が儘間勝手に生きた人間なのかもしれない、しかし、今も、こうして、誰読むでもない駄文をしたためていられる自分は、有り難い時間を過ごさせて頂いているなと十分に思えるのだ。
 話題は急変して恐縮だが、今年の3月に、これまでに無い大地震が起きて、その後の大津波と原発事故という悲惨な事態に私達は遭遇した。私の住む地域は、屋根瓦に被害が出た程度で済んだが、その後に、「計画停電」なるものを経験している。
 現代生活の中では、各ご家庭での冷暖房は、当たり前の生活なのだ。そして、ガスや水道も当たり前の生活なのだ。今回の惨劇の後に、思ったことは、前回の阪神淡路大震災から、日本人は何を学び、どれほど生活の知恵を蓄えたかということだった。被害に遭遇した地域以外の人々は、そうした非常時にどのように対処すべきかを切実に受け止めてはいなかったように思えるのだ。
 随分昔のことになるが、日本キャンプ協会の公認指導者として、キャンプの講習会に何度も参加したことがある。小中学生を対象にしてみたところ、火を起こすことも出来ない。そこで、その親の世代を対象にしてみたが、やはり、火を起こすことすら出来ないのだった。つまり、ガスや水道の無い山の中では、ご飯を炊くことも出来ない有様なのだ。これには驚いた。キャンプ活動をする中で、このような人々が、もし大地震にでも遭遇したらどうなるのだろうと思案することしきりであった。
 「消し壺」というかつての生活必需品をご存じだろうか?その中に入っていた「消し炭」というものをご存じだろうか?昔は、木枯らしの吹くような季節には、早寝をして、翌朝は早起きをして、松林や杉林に向かうのだった。背中に大きな竹の籠を背負って、手には、これまた竹製の熊手を持って行くのだ。風が吹くと、松葉や枯れ枝が落ちるからだ。それを集めて焚き付けにするのだ。つまり、日々の天候、身近な自然と私達の生活は密着していたのだった。
 足田さんは,『雑木林の博物誌』の最後の章「心の中の雑木林」の中で、次のような文章を残しておられる。幾分長くはなるが、引用してみたい。
 「
いま、ガス、石油、電気による暖房は、全家庭に普及して、木炭で手あぶりするなどは、昔語りとなった。寒さは、たしかに屋内から一掃されてしまったが、同時に、寒さに耐える心も、私達は失ってしまった。暖かさに限らず、すべての快楽を追求するために、或いは労力を最小限にするために、現代の家庭用品は科学技術を駆使している。
 寒さを、屋内からなくすことが、それほど私達に幸福だったのだろうか。暖かさは寒さの裏打ちがあって、はじめてそのありがたさが身にしみるのではなかったろうか。(中略)
 寒さばかりではない、耐える心は、現代の生活から、次第に失われてしまった。耐える、ということは、現代では美徳ではなくなり、むしろものに耐えないことが、当然の主張とされた。
 耐えることを失った人間は、心も肉体も、徑(つよ)さを失った。野生を失った文明は、もろい人間しか生まないだろう。(中略)
 雑木林を失うとともに、私達が失ったものはあまりにも大きく、私達がえたものはそれに比べれば小さかった。雑木林の代償に、かちえた現代の文明も、人類の長い歴史から見れば一瞬の栄華に過ぎず、やがてローマの遺跡のように、コンクリートの高楼も、地球の土に帰するだろうし、これからの人類が負わねばならぬ魂の苦悩を、救いうる糧ともとうていなりえようはない。」
(『雑木林の博物誌』新潮社刊 P.195〜196)
 随分と長い引用で、今は亡き足田さんに対して恐縮だったが、正確に伝えたからだった。
 しかし、これは現代文明にあまりにも無防備に浸りきっている私達にむけての警告では無かろうか。
 今回の原発事故後の放射能問題のように、人間が考え出して、人間が作り出した科学技術の粋と誇り続けて来たシステムを、一度エマージェンシーな状態に直面したときに、人間がそれをコントロール出来ないというていたらくでは、果たして、それを「文明」と呼んで良いのだろうか?
 我が国には、森から豊かな水が海に流れてこそ、豊かな海が出来るのだと、森を育てることに努力を重ねている若者達がいる。彼らの本業は水産業なのだ。
 現在、国の財政赤字に対して、自分たちが浪費したツケを次の世代に回すのは不合理であるとのごもっともな説を唱える人々がいる。とすれば、私達が快適な生活を送ったことによる地球温暖化というツケを次の世代に送っては申し訳ないのではなかろうか。上述の計画停電時に、寒さに耐えながら、そんなことを考えた。そして、上掲の足田さんの言葉を思い起こしていたものだった。
 私の最後の職場は、武蔵野の真っ只中にあった。西武線で池袋から秩父方面へと向かうと、埼玉県の所沢市の小手指駅辺りを通過すると、目に入ってくるのは雑木林であった。特に、自衛隊の入間航空基地辺は一般人の立ち入りが禁止されているので、自然のままの姿のようにも見えた。許されるならば、一度で良いから、そこに足を踏み入れたいと毎度車窓から見える光景に憧れを抱いたものだった。そして、淡交社から出版された『カラー武蔵野の魅力』(文:足田輝一/写真:小林義雄)で目にした映像と文章とを反芻したものだった。職場も雑木林に囲まれ、キャンパスの中にも、雑木林を十分に採り入れてあった。その中で、次代を担うべく若者、つまり学生達は、必修科目であるために、興味のあるなしにかかわらず受講させられているにもかかわらず、折からの就職難と言う社会情勢の中で、面白くも無い私の講義に私語を交わすことも無く真剣に耳を傾けてくれていた。果たして、この若者達が、現在の私の世代に至っても、つまり、半世紀後も、現代文明は、何のためらいも無く、人類に恩恵を施してくれているのだろうかと、疑問は尽きなかった。
 いずれにしても、足田さんのような立派な業績は、何一つ残すことは出来ないが、そして、単なる自己満足とのそしりを禁じ得ないのかもしれないが、私は、足田さん同様に、雑木林に入っては不思議と思ったり、感動したりの生活をさせて頂いている。有り難いこととしみじみ思えて来る。
 足田輝一さんに心を込めて合掌!
 蛇足:まるで関係のないおまけ                          
 今回は、足田輝一さんのイメージからは、チェロをBGMに聴こうかなとも思ったのだが、冬の青空を見ていたら、さぞかし雑木林も明るかろうと思い、トランペットを選んでしまった。ジャズの世界では名の知れたウイントン・マルサリスのCDを聴いた。彼は、クラシック音楽の世界でも確固たる地位を築いているのだった。間違いなく、明るく爽やかであった。さすがにデジタル録音の時代であるだけに、彼は、一人で2〜8パートものソロ演奏を複数のトランペットのための作品で披露してくれていた。内容は次の通りである。
1 ハイドン トランペット協奏曲 変ホ長調
2 モーツアルト トランペット協奏曲 ニ長調
3 フンメル トランペット協奏曲 変ホ長調
4 ヴィヴァルディ 2つのトランペットのための協奏曲 ハ長調
5 テレマン 3つのトランペットのための協奏曲 変ロ長調
6 パッヘルベル 3つのトランペットと弦楽のためのカノン
7 ビバー 8つのトランペットと管弦楽のためのソナタ イ長調
 指揮:レイモンド・レッパード
 トランペット:ウイントン・マルサリス
 ナショナル・フィルハーモニー管弦楽団
 イギリス室内管弦楽団
 音源はCD。
 H.23.12.07