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安野光雅さんの作品(画集・絵本・著書)
 私が初めて安野光雅さんの作品を目にしたのは昭和55年(1980年)のことだった。その年に、文藝春秋社から『くりま』というクォータリー、つまり季刊誌が刊行された。表紙にはタイトルの横に<Climat 自然 人間 歴史>と記されてあった。Cimatとはフランス語であり、英語で言えばclimateということになる。「気候」とか「風土」の意である。初めて目にした雑誌だけに書店の店頭で目次を開き、そこで先ず最初に目に入ってきたのは「根釧原野全景」というタイトルだった。そのページを開くと、そこには前田真三さんを初めとしてたくさんの著名な写真家の作品が掲載されていた。すっかり魅了されてしまい、少しも躊躇うこと無く購入したのだった。安野光雅さんには大変申し訳無い話だが、その目次の最後には「安曇野:夏 安野光雅」とあったのだが、それまでお名前を存じ上げていなかったものだから、その書の購入時には少しも意識することはなかった。
 翌日、勤務先の自分の机上に上掲書を何気なく置いていたところ、一人の女性職員がそれを手にして、発した言葉が、
 「あらっ、安野光雅さんって、こういう絵を描く人だったの?」
だった。
 その言葉は、私に向けて発せられたものだったが、当の私は、恥ずかしながら上述の通り、その時点では、安野光雅なるお名前も、その作品もまるで知らなかったのだ。だが、知る人ぞ知る著名な絵本作家であるという。
 やがて、勤務時間終了後、またしても書店に向かい、教えられた通りに、絵本のコーナーに向かってみた。そこで発見したのは福音館から発行されていた『旅の絵本』であった。昭和52年(1977)の発行だった。またしても、店頭で立ち読みである。そして、これまた迷わず購入したものだった。安野光雅さんの作品が我が家に到来した記念すべき第一冊目ということになる。
 『旅の絵本』は、全部で6巻まで刊行されている。すべて、描かれているのはヨーロッパの昔の光景に見える設定の絵本である。この絵本、不思議な魅力を持った内容であった。先ず大きな特徴はと言えば、どのページにも解説文や、ストーリーのような文言は一切記述されていないのである。一人の旅人が、大きな道を右から左へと歩いて行くというだけのことなのである。その旅の道すがらの光景が描かれているということになる。だが、よくよく見てみると、次々と発見のある絵本なのだ。たとえば、全体的には西洋社会を細々と描いているということになるのだが、細部に目をやると、
 「おや、これはブレーメンの音楽隊だな。」
とか、或いは、
 「これは、3匹の子豚だな。」
というようなことが分かってくる。つまり、その絵本を見る人の年齢や教養の程度に応じて発見する内容が異なると言うことになる。とにかく、西洋の童話に登場する様々な場面がちりばめられているのである。したがって、発見する側にある知識の程度に応じた発見だけが可能と言うことになる。
 中には、これは大人ではなければ分からないだろうというような内容も描かれている。たとえば、マリリン・モンローの映画の一場面であるとか、これはエマニュエル夫人の湯浴みシーンではなかろうかなどという場面もさりげなく描かれているのである。
 また、絵画というものは、3次元の世界を2次元の中におさめることになる。それだけに、実際には、そんなことはあり得ない筈の場面も描かれている。例えば、連れてきた馬をつないでいるロープの先が教会の高い塔であったりするのだ。
 とにかく、毎回見ていて新たな発見のある絵本なのだ。こうなってくると、これは、単なる子ども向けの絵本ではないなと思えてくる。そして、作者の教養の程度に迫るには、相応の時間を要するなと感心することしきりということになってくる。そこで、結局は、全6巻すべて購入してしまった。当時、我が家には、中学生の娘が一人存在しただけであり、専ら私個人向けに購入したことになる。
 すっかり『旅の絵本』シリーズの虜となってしまったのだったが、果たしてこの作者は、どのような人物なのだろうという疑問がわいてきた。冒頭に記した講談社の『くりま』創刊号に安曇野の光景を描いた水彩画が16頁掲載されていたが、その中の1頁に、作者の安曇野についての思い出とエピソードが記述されていた。その中に、「教え子」という文言が目に留まった。どうやら、作者は、かつては教員だったのかと知らされたのだ。やがて、徐々に安野光雅という人物像が見えてきた。
 安野光雅さんは大正15年(1926)に島根県の津和野町で生まれている。生家は旅館だったという。安野さんのエッセイ集『空想書房』(平凡社刊)の後書き部分で次のように述べている。
 
森の石松は、遠州森の、福田家という宿屋の倅。
 私の大好きなグスタフ・マーラーもチェコスロバキアの宿屋の倅。
 じつはわたしも、、石州、津和野の三流の宿屋の倅として生まれた。

と述べておられる。森の石松とグスタフ・マーラー、そして安野光雅、この取り組み合わせもユニークだ。
 やがて、安野さんは、山口県立宇部工業学校に入学し、同校を卒業している。卒業後は、住友鉱山に就職している。戦後に、小学校の教員となっているのである。その後、山口師範(現在の国立山口大学)を経て、美術教員として上京している。ほぼ10年間都内の小学校で教師生活を送った後に、35歳の時に、教職生活を辞して絵描き業としてスタートを始めている。教師生活の中でも、それまでに多数の書の装丁を行ってきていたのだった。そして、そちらを本業にしようと言うことになったのだろう。やがて、昭和43年(1968)に『ふしぎなえ』(福音館)で絵本作家としてデビューしている。安野さんは42歳だったことになる。
 それからは、次々と絵本を刊行する、またエッセイ集を出す、矢継ぎ早に安野さんの作品が世に出て来ることになるのである。
 『旅の絵本』を見て、私は、この人の頭の中はどのようになっているのだろうという強い印象を受けた。『ふしぎなえ』もユニークな絵本であった。現実にはあり得ない立体を描いているのである。この辺りは、やはり工業学校で学んだということが大きな要因と化しているのではなかろうか。それにしても、安野光雅さんが小学校の教員だったとは・・・、さぞかし楽しく、そして愉快な先生だったのではなかろうかと推測されるのだ。とにかく発想がユニークなのだ。どの書に書かれていたのか記憶が定かではないが、「下剤と下痢止めを一緒に飲んだらどうなるか」と考え、自分で真面目に調べ上げるのだ。私には、そんな発想は浮かんで来た試しはない。
 とにかく発想がユニークであると上には述べたが、その神髄を発揮していると言える安野作品としては、私は、平成7年(1995)頃に、毎日コミュニケーションズから出されたパソコン・ソフト『ぺぺロン村の四季』が第一であると思っている。一言で申せば、『旅の絵本』的な内容のCGヴァージョンとでも言える。この『ぺぺロン村の四季』も場面構成は西洋社会である。そして、『旅の絵本』にはない驚きが次々と飛び出してくるソフトなのである。それに、絵本では味わえない音楽も挿入されており、動きのある絵なのだ。何よりも、色彩が美しい。発売されたばかりの頃には、3人の孫達はまだ小学校入学前だった。3人の孫達は、次々と飛び出してくる「びっくり!」に夢中になり、お互いに新たな発見がある度に報告し合っていたものだった。そして、もっと新しい「びっくり!」はないものかとチャレンジするのだった。私も、3人が楽しんでいるパソコンに映し出される美しい映像を傍らで楽しんでいたのだが、果たして、3人の孫と私を加えた4名は、安野さんがこのソフトの中に込めた「悪戯心」の全てを見出すことが出来たのか、今でも不確かである。とにかく傑作と申せる作品と今も思っている。
 またしても、『旅の絵本』の話題に戻ってしまうが、このシリーズの誕生の原点について、安野さんは次のように述べている。アンカレッジからヨーロッパに向かう飛行機の中で次のようなことを考えたと言う。
 「
でも季節さえよければ、シベリアの野の果てに、或いはアラスカの荒地の中に、一本の道らしきものを見つけることがある。私は、その道にいちばん感動する。あれは人間のいるしるしなのだ、あの道は何処へ行くのだろうと思うだけで胸がいっぱいになる。(中略)ようやく人里らしきものが見えはじめ、少しでも機首が下がって、家や教会や学校が見え、人や乗物や、白樺の森が見え、牧場の牛が見え始めると、もうすぐ着陸で、目の残像を惜しむ暇もないくらいだが、そんな遠くに、なんと素晴らしい世界があるのだろうといつも思う。
 <外国は何もかもちがう>と誰もが漠然と思っている。しかし、木は緑だし、野の花は一面に咲いている。よく見ると子どもは学校へ急ぐし、泥棒もいれば警官もいる。結婚式もあれば、そこで涙をふくおかあさんもいる。
 そのような風景は、目の高さで見ると限りがある。それを主観的な視点だとすると、空から見る場合は、いろんな立場から見る、客観的な視点から見ることになる。
 空で感じたのだから文字どおり天啓だったと言っていいだろう。宣伝めいて恐縮だが、わたしは着陸寸前の視点から世界を見たとき、そのような風景の中に、人間の歴史と自然と生活への共感を描きこんで絵本にしたいと切に思った。
 大地があり人が住み、深い森を抜けて、村と町を結ぶ道が出来る。道には橋がかかり、馬車や自動車が行き、たくさんの人が笑ったり、泣いたり恋をしたりして生きている・・・。
 私の『旅の絵本』のシリーズは、じつはそのようにして生まれたのだった。
」(『空想書房』平凡社刊 P.69〜70)
 随分と長い引用で、安野さんに対して恐縮だったが、正確に伝えたからだった。
 思い起こせば、『旅の絵本』シリーズにしても、『ぺぺロン村の四季』にしても、そこに描かれている光景は、上空から見下ろしたような光景ばかりである。そして、必ず「道」があるのだった。そればかりではなく、色々な職業の人々の生活感に溢れた場面がどのページにも展開されているのだった。
 私は、外国に行くと、初めての国の時には、着陸寸前に目を向けてしまうのは、そこにどのような植物が見られるかということでしかなかったように思う。道であるとか、歴史であるとか、人々の生活がそこにあるとかといった視点で見下ろしたことはなかったように思う。非凡な才能をお持ちの安野さんと、これと言った特技も才能も持ち合わせない自分自身とを比較すること自体に間違いがあるようだ。
 冒頭に述べた文藝春秋社のクォータリー『くりま』は2年間で廃刊になってしまったと記憶している。その2年間で、安野さんの水彩画は「安曇野」と「津和野」のそれぞれの四季が掲載されていた。その内の「安曇野」は文藝春秋社から、そして、「津和野」は岩崎美術社から刊行されている。どれも水彩画であるが、特徴として原色を用いていないということを挙げられる。それだけに、全体的に淡いトーンで仕上げられている。これは上掲2冊の画集だけに限らず、安野さんのどの画集も同様なのである。
 平成7年(1995)にNHKテレビの趣味百科の番組で「安野光雅 風景画を描く」が半年に渡って放映されたことがあった。私は、絵が描けないのだが、安野さんのファンであったから、欠かさず試聴した。今にして思えば、ヴィデオに収録しておけば良かったなとつくづく残念に思っている。だが、その時のテキストは今も我が家の書斎に残されているので、ページを開く度に、放送時の安野さんの真剣な眼差しで対象を見据える表情等を想起している。上述のように、安野さんの水彩画は、淡い色彩が特徴なのだが、この放送を見ていて思ったことは、対象物の輪郭がはっきりとしているということだった。そのことは、素描の段階で奥行きの深さを出しているとも言える。安野さんの作品の中では、線が重要な意味を持ち、形を示しているのではないかと思えるのだ。
 先年、安野さんの出身地である津和野を訪れたことがある。津和野は、山間の落ち着いた街だった。だが、安野さんの作品に登場する西洋の人々の生活の様子や家並みと津和野の光景とはおよそかけ離れていた。安野さんの『旅の絵本』や『ぺぺロン村の四季』には、世の中に自動車などの走っていない時代の光景がたくさん登場している。そこには、人々の生活ぶりが当然描かれているのだが、その服装や、職人さん達、子ども達の遊ぶ様子等々のそれぞれが、どうも現代社会とはかけ離れている。果たして、そうした西洋の人々の暮らしぶりや服装、そして建物等のイメージは、何処から得たのだろうと不思議である。安野さんは、どうやら何度も渡欧しておられるようなのであるが、直接目にされたのは、現代社会の西洋社会ということになる。したがって、西洋の昔の人々の生活の様子は、一体何処から資料を得たのだろうと思えてくるのだ。たとえば、個人的には、西洋の画家の作品で、内容的に共通している作品を残している人物としては、ベルギーのピーテル・ブリューゲルを想起する。西洋社会の人々の生活の様子や子ども達の遊び等が描かれているからだ。そして、ブリューゲルの作品もまた「道」が重要な要素を担っていなくもない。いずれにしても、津和野の街をそぞろ歩きながら、『旅の絵本』の光景と相通ずるイメージは私には掴み取ることは出来なかった。ただ、津和野から、別の街或いは集落に出るには、やはり「道」というものが重要な要素であることだけは、地理的な状況から知ることが出来た。「道」とは、自分の住んでいる場所、或いは、現在自分が佇んでいる地とは、別の世界へと導いてくれる手段なのだな等と思ったものだった。
 津和野には、安野光雅さんの記念博物館があることは承知していたのだったが、その日は、立ち寄ることは出来なかった。津和野には、また来たいと思ったので、その時まで博物館は残しておくべし!と心に決めて安野さんの出身地を後にしたのだった。
 安野光雅さんの作品で、特に、我が家で大切にしていた画集があった。それは、上にも述べた文藝春秋社から出された『安曇野』だった。
 娘がまだ中学生だった頃、記憶が不確かであるのだが、朝日新聞社から出された『イギリスの村』の発売記念に安野光雅さんのサイン会があった。私は、当日、どうしても抜けられない仕事があり、妻と娘とがそのサイン会に向かったのだった。その時に、娘は、朝日新聞社ではなく、文藝春秋社から出された『安曇野』を持参したのだった。安野さんと直接対面した娘は、臆面もなくその『安曇野』にサインを求めたのだった。安野さんは少しも躊躇うことなく快諾して下さり、娘と握手までしてくれたのだという。おだやかそうな安野さんのあの笑顔が目に浮かぶようである。興奮して帰宅した娘は、「暫く、手を洗えない!」とはしゃいでいたものだった。
 そのサイン入りの『安曇野』並びに私がすっかり安野ファンになるきっかけとなった『旅の絵本』シリーズは、現在、我が家の書斎にはない。ある知人に貸したところ、戻って来なくなってしまたのだ。仕方がないので、『安曇野』だけは、その後に再び買い求める結果となってしまった。だが、今でも残念で仕方がない。『安曇野』を開く度に、今はどうなっているのだろう?と安野さんのサインの入った書を思い出してしまうのだ。
 我が家の蔵書の中で、安野光雅さんの書は次の通りである。
   1 『安曇野』 安野光雅 文芸春秋社 1981
  2 『イギリスの村』 安野光雅 朝日新聞社 1982
  3 『津和野』 安野光雅 岩崎書店 1980
  4 『欧羅巴・野の花の旅』 安野光雅 講談社 1978
  5 『安野光雅:風景画を描く』 安野光雅 日本放送出版協会 1995 NHK趣味百科テキスト
  6 『西洋古都』 安野光雅 岩崎書店 1981
  7 『ふしぎなえ』 安野光雅 福音館書店 1968年
  8 『ABCの本 へそまがりのアルファベット』 安野光雅 福音館書店  1974
  9 『おおきなもののすきなおうさま』 安野光雅 講談社 1976
  10 『もりのえほん』 安野光雅 福音館書店 1977
  11 『空想書房』 安野光雅 平凡社 1991
  12 『起承転結』 安野光雅 青土社 1983
  13 『安野光雅の異端審問』 安野光雅・森啓次郎共著 朝日新聞社 1988
  14 『みちの辺の花』 文:杉本秀太郎/絵:安野光雅 講談社 1994
  15 『ぺぺロン村の四季』 安野光雅 毎日コミュニケーションズ 1995
 安野光雅さんの絵画作品だけでなく、著書をも読むと、安野さんは、数理科学や人文・歴史、そして芸術等々とカテゴリーを問うことなく、広い範囲にわたって該博な知識をお持ちの方であることがわかる。それらの知識をベースにして、絵画という表現方法で見る人に訴え、伝えているのではなかろうか?凄い人物だ!
 蛇足:まるで関係のないおまけ                          
 今年もいよいよ一昨日から梅雨に入った。爽やかな音楽を流したかったので、J.S.バッハの『フーガの技法& クラヴィーア練習曲集』を選んでみた。安野光雅さんも好きだと良いのだが・・・と思う。演奏は、グスタフ・レオンハルトのチェンバロだ。音源はCD。
 H.23.05.28