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ニンジン(人参)について
 私は、子どもの頃から、カレーライスに入っているニンジンが大好きだった。そして、カレーライスを食べると、いつも思うのは、一体いつ頃、そして誰がカレーライスの具としてニンジンを用いるようになったのだろうかという疑問についてであった。兎に角、初めてカレーライスと言うものを食べた時には、必ずニンジンが入っていたし、今もそうだ。
 冒頭から引用文のご紹介で恐縮だが、井上宏生著『日本人はカレーライスがなぜ好きなのか』(平凡社新書066 2000年)には、我が国最初のカレーライスのレシピが登場する。同書によると、明治4年(1871年)に横浜に開陽亭という西洋料理店がオープンしている。その翌年には、敬学堂主人の『西洋料理指南』と仮名垣魯文の『西洋料理通』の2冊が刊行されたという。
 敬学堂主人の『西洋料理指南』には、カレーの作り方がこう書かれている。
 
カレーの製法はネギ一茎、生姜半個、ニラ少しばかりを細末にし、バター大さじ一を以て煎り、一合五勺を加へ、鶏、エビ、カキ、タイ、赤蛙などを入れてよく煮、のちにカレーの粉小匙一を入れ煮ること西洋一時間、すでに熟したるとき、塩を加へ、また小麦粉大さじ二つを水に解き入るべし・・・。(上掲書P.56)
 期待していたが、当時のレシピにはニンジンは登場していない。現在のカレーとは、随分イメージが異なるように思える。しかし、カレーライスは、ご飯が主役にもかかわらず洋食としてスタートしたことはわかった。
 
一方の仮名垣魯文の『西洋料理通』では次のように書かれていたという。
 冷残の子牛の肉、或いは鳥の冷残肉、いずれも領主の中有合物にてよろし。ネギ四本を刻み、リンゴ四個の皮を剥き去り、刻みて食匙にカリーの粉一杯、シトルトプウン匙に小麦粉一杯、水あるいは第三等の白水、いずれにても其なかへ投下煮る事四時間半、そののちに柚子の露を投げ混ぜて焚きたる米を四辺にぐるりと円く輪になるようにも(盛)るべし。(上掲書P.58~59)

 どうやら、この方が現在のカレーに近いイメージがある。しかし、カレーライスにつきもののニンジン、ジャガイモ、そしてタマネギが登場しない。肉食は、外来の食文化である。そして、ニンジンも、ジャガイモも、タマネギも、これまた外来の植物である。加えて、、井上宏生氏の上掲書によれば、カレー粉そのものはインドが原産であったが、「カレー粉」を発明したのはイギリス人だったと言うことである。これらの経緯を踏まえれば、カレーライスが丼では無くお皿に盛ったのも頷けるのである。
 だが、私は、これから、カレーライスの歴史について述べたいのではない。主たる目標はニンジンなのである。一体、いつ頃から、カレーライスにはニンジンが入るようになったのかという個人的な疑問を解決したかったのだ。他の書を満遍なく調べたわけでは無いが、上掲書によれば、村井弦斎著『食道楽』という小説の中で、カレーライスにニンジンが登場していると述べられている。その小説の発行は明治36年(1903)である。しかも、小説の中では、一般家庭料理としてカレーライスが登場しているということである。意外に早く一般家庭にまで普及したと思える。ご飯の食べ方の一種として、日本人には受け入れやすかったのではなかろうかと推測される。それにしても驚いた!カレーライスの中に一世紀以上も前からニンジンが入っていたことになるからだ。
 ところで、「人参」とは、先刻ご案内のように本来ウコギ科のチョウセンニンジンに対する漢名であったのだ。チョウセンニンジンは、薬用植物で、根の形が人の形に似ているので中国では「人参」と名付けたという。このチョウセンニンジンは天平11年(739)に中国の渤海使が日本の朝廷に進上したという。正倉院には、現在も人参(チョウセンニンジン)の根が保存されているという。つまり、人参(チョウセンニンジン)は、6~7世紀頃に朝鮮半島経由で渡来したことになる。
 毎度お世話になっている加納喜光著『植物の漢字語源辞典』(東京堂出版)によれば、「人参」とは呉音では「ニンシム」と発音されたという。因みに漢音では「ジンシム」であったという。つまり、我が国では、この語音読みを日本式に音読みして「ニンジン」となったようである。
 本来、加納氏の上掲書によれば、「人参」は、正確には、「人薓」と表記されたという。「薓」は「侵入」の「侵」に共通する意味を持ち、「他人の領域にじわじわと深く入っていくこと」を示しているという。そこから、この「薓」の字に「人」を冠して「
年が経つとともにだんだんと根が地中に深く入っていき、人間の形に似てくる草」(加納喜光著『植物の漢字語源辞典』(東京堂出版 P.378)を意味したのだという。やがて、「人薓」は簡略化され「人葠」となり、その後に、当て字が用いられ「人参」なったのだという。
 一方、中国には野菜のニンジンは、13世紀に伝わっている。西域(胡)から渡来したダイコン(蘿葡)として「胡蘿葡」と名付けられている。
 この胡蘿葡(こらふ)が我が国に渡来したのは16世紀のことであった。我が国では、根の形がチョウセンニンジンに似ていることから、「芹人参」とか「菜人参」、「畑人参」などと呼ばれた。この胡蘿葡(こらふ)は貯蔵が効いたことから、全国的に普及を見たという。17世紀末には、「胡蘿葡」と表記して「ニンジン」と呼ぶようになったという。つまり、後から渡来した野菜が、その前から渡来していた薬用植物の名に取って代わってしまったことになる。その背景には、野菜は一般に広く普及をし、馴染みが深くなったが、薬用植物は、非常に高価でもあり、一般の人々、つまり、庶民が目にすることはあまりなかった、馴染みが薄かったということが言えよう。
 野菜のニンジンに名を奪われてしまった本来の「人参」は、その後、人々からは「朝鮮人参」とか「御種人参」と呼ばれるようになってしまったのだった。特に、「御種人参」とは、日光の幕府御薬圓で栽培され、種子が分与されたことによるという。
 ニンジンの学名はDaucus carotaである。属名を表すDaucusとは、そもそも古代ギリシャ語ではニンジン以外の植物名であったという。その語源はdaiein(=温める)とも言われている。薬用とすると身体が温まるためという。やがて、ラテン語に入ってdaucum(=ニンジン)となっている。
 一方の種小名のcarotaであるが、内林政夫著『西洋たべもの語源辞典』(東京堂出版)によれば、この語の語源は古い印欧祖語*kerəs-(=身体の上部、頭、つの)であり、ギリシャ語ではkarōtonと表記された。ニンジンの根部が角(つの)を連想させることから、やがて、ラテン語ではcarōta(=ニンジン)となったという。その流れから、ヨーロッパ諸国では次のように表記されている。
 英語:carrot
 仏語:carotte
 独語:Karotte
 伊語:carota
 西語:zanahoria
 葡語:cenoura
 この中で、英語からイタリア語まではギリシャ語からラテン語を経て現在に至っていることが理解できる。スペイン語とポルトガル語は、異質な語感であるが、こちらは、ルートが異なり、アラビア語を経ているという。単に言語の流れだけではなく、ニンジンの伝搬のルートもそのようになっていたものと理解できる。
 因みに、現代中国語でのニンジンは次のように表記されている。
 中国語:胡夢卜(húluóbo)
 このニンジンなる野菜の野生種は北アフリカ、中近東、ヨーロッパに自生するという。この中で中近東のアフガニスタン北部で栽培種が成立したという。その後、全世界に広く普及を見たらしい。既に12~13世紀頃にはアラブ地域からスペイン、イタリア、フランス、ドイツ、オランダ、イギリスで栽培が始まっているという。16世紀に入ると西ヨーロッパにまで広く普及を見ている。この頃までは紫色長ニンジンが主流であったという。17世紀に入るとオランダで品種改良が進み赤橙色のニンジンが開発されたということである。
 因みにアメリカには1564年頃に渡っている。
 東洋地域には、中国の元の時代(13~14世紀)に西域から渡っている。中国の本草書としてよく知られている李時珍の著した『本草綱目』(1578)に「胡蘿葡」として登場している。
 我が国での栽培の始まりの時期は定かではないが、林羅山の著した『多識編』(1612)に「世利仁牟志牟(せりにんじん)」と出ているのが、どうやら初出のようである。次いで貝原益軒著『大和本草』(1709)には「胡蘿葡」として登場する。
 
 ところで、ニンジンには、アジア型とヨーロッパ型とがある。上述の『多識編』や『大和本草』に登場しているのはアジア型と言うことになる。ヨーロッパ型のニンジンは江戸時代後期に渡来している。その後、明治初期に多くのヨーロッパ型の品種が我が国に渡来している。現在市場に流通している、或いは一般的に栽培されている、或いは、私達が日常的に食しているニンジンは、概ねヨーロッパ型のニンジンと言うことになる。
 アジア型のニンジンは中国で胡の国から渡来したダイコンの意から「胡蘿葡」と命名されたと上述したが、中国の人々がダイコンに見立てたの頷けるのは、現在、市場に出回っているニンジンのように短根種ではなく、長根種だったのである。つまり、江戸時代の人々が食していたニンジンと現代のそれとは色も形状も異なるものと言える。アジア型のニンジンの品種としては、滝野川大長群と呼ばれる品種群が有名である。細長いニンジンで、長さは60~70㎝もあったという。柔らか味もあり、香りも良く、風味に富んでいたと言うことだが、色合いが淡かったために、次第に他の品種に替えられてしまったという。今も見られる東洋型のニンジンとしては、「金時」という品種がある。関西地区で多く好まれ、栽培もされてきたことから、「京ニンジン」とか、「大阪ニンジン」等とも呼ばれている品種である。「金時」は、長さは30㎝程度で太さは6~7㎝程度である。この「金時」は、一目で分かる色合いをしている。一般に流通しているニンジン(西洋型ニンジン)とは、まるで色が異なる。西洋型ニンジンの色素は概ね橙色をしている。この色素は御案内の通りカロチンである。一方のアジア型ニンジンで今も残されている「金時」の場合、その名が物語るように鮮紅色なのである。こちらの色素はリコピンである。つまり、トマト等と同じ色素ということになる。
 明治期に渡来したヨーロッパ型ニンジンの代表格は「ロングオレンジ」と言うことになるが、渡来後、我が国で様々な品種群が開発されている。
 上述のように、ニンジンは、あまり歴史の古くはない野菜だけに、あまり古典には登場してこない。これは、我が国の場合ばかりではなく、洋の東西を問わず似たような傾向にあるらしい。
 我が家の書棚からだけの調査であるから範囲があまりにも狭いと言われてしまえばそれまでだが、次のような書物を開いて見た。
1 加藤憲市著『英米文学 植物民俗誌』(研究社刊)
 この書には、ニンジンに関する項目立てはなかった。全頁数は675頁という大著であるが、carrotという単語が登場するのは一箇所だけであった。
2 成田成寿(編)『英語歳時記』(全6巻 研究社刊)
 本書は全6巻構成となっているが、「冬」の巻にcarrotの項目立てはある。なぜ、ニンジンが「冬」の巻に登場しているのかを興味深く思った。我が国の歳時記でも、ニンジンは「冬」の季題とされているからだった。
 だが、殊更に英文学に関する記述は見られなかった。英文学からは離れてフランス文学の中からJules renardの小説『にんじん』が紹介されている程度だった。
 ただ、ニンジンの品種名は幾つか紹介されていた。だが、興味深い記述も目に留まった。
 
アメリカで広くその栄養価値が認められて食用に供されるようになったのは1920年以降である。(第4巻 197頁)
3 春山行夫著『花の文化史 花の歴史をつくった人々』(講談社刊)
 春山行夫氏の博識ぶりには、本書を開く度に脱帽の境地に至ってしまうのだが、同書には、文学関連ではないが、Thomas Tusserの著した『家政助言書』(1573)という本草書とも言える書の中で、タッサーは、家政の上からかならず植えねばならない料理用のハーブと花の42種類を挙げていると紹介している。この42種類の植物の中に、ニンジンはしっかりと登場している。(花の文化史 P.219)
4 ジャン=リュック・エニグ著『果物と野菜の文化誌:文学とエロティシズム』(大修館書店刊)
 本書は、フランス文学の中に登場する個々の植物を引き合いに出して、フランス人から見たそれぞれの植物がどのようなイマージュなのかを説いてくれている書である。
 本書では、フランス人にとっては、あまりよいイマージュを持たれていなかったことが様々な作品を通して説いている。どうやら、ニンジンは、「悪」とか「貧乏」等のイマージュと結びついているというのである。そう言えば、上述のルナールの小説『にんじん』も意地悪な母と無関心な父との間で暮らす少年の心理を描いていなかっただろうか。
 さて、我が国の文学書関連からもあまり良い手がかりは得られなかった。そこで、俳句と短歌の世界から幾つか作品を紹介してみたい。
 因みに、俳句の世界でも、短歌の世界でも、ニンジンは「にんじん」或いは「人参」・「胡蘿葡」の表記を用いている。講談社版の『日本大歳時記』でも、ニンジンを冬の季題として挙げ、漢字表記は「人参」・「胡蘿葡」の2種を挙げている。
 <短歌>
 うるほへる只うつくしき人参の肌さへ寒くかわきけるかも 長塚 節
 夕されば光こまかにふりこぼす人参の髯もあはれなりけり 北原白秋
 土のうへすきまなくおほふ胡蘿葡の霜に染まりし葉は色更へぬ 岡 麓
 来たりて人参まきし五月より秋のすがれとなりにけるかも 土屋文明
 <俳句>
 ロシア映画みてきて冬のにんじん太し  古澤太穂
 人参赤し火山灰地に肩出し合ふ  岡田日郎
 人参を掘り横抱きに風の音  小笠原和男
 力尽き人参畠へ落ちゆく日  山本馬句
 それにしても、ニンジンは今日通年店頭に並んでいるのに、何故、「冬」の季題としたのだろうと思う。しかし、大久保増太郎著『日本の野菜:産地から食卓へ』(中公新書)には次のような記述が見られた。
 
FAOの資料によればニンジンの国別生産量は旧ソ連と中国に多く、アメリカをしのいでいる。やや意外な気もしないではないが、ニンジンが冷涼な気候を好む植物であることを考えると合点もゆく。アラスカでも栽培され、フィリピンでは標高2000mの地帯で終演栽培が行われていると聞く。(同書 P.159)
 この記述を見ても、「冬」の季題がぴったりなのだなと思うし、俳句の世界の人も野菜の特徴をよくご存じなのだなとあらためて感服した次第である。
 話題を再びニンジンの回想録に戻してこのニンジンについての駄文を終わりにしたい。
 先ず、馬鹿馬鹿しいお話を紹介したい。文部科学省の海外研修に参加した公立小学校の校長先生お二人が、ドイツに行ったという。レストランに入ったまでは良いのだが、生憎なことにお二人ともドイツ語はまるで分からなかったという。お二人は相談してメニューの中からランダムに選び出し、
 「これを二つ持ってきて下さい。」
と日本語でオーダーし、指を二本示したという。レストランのスタッフは怪訝な表情を見せながらも、戻ると直ぐに光り輝くステンレスのトレイの上に見事な生のニンジンを2本持って来たというのである。二人は、困惑しながらも、
 「我々は、日本男児だ!このままでは引き下がれない!」
と意気込んで、それを食べたという。
 この話の真偽の程は定かではない。何しろ人伝に聞いた話であるからだ。或いは、日本人が外国語に弱いことを示した作り話なのかもしれない。このお話を聞いたときに、果たして、生のニンジンだけというメニューが存在するものなのだろうかという疑問が残った。
 だが、個人的に生のニンジンの記憶が二つある。
 その一つは、私が、50代だった頃、オーストラリアにホームスティをしたことがある。ホストファミリーは、某有名私立校(日本で言えば、中校一貫校のような学校)の化学の先生だった。誘われるままに、ホストの勤務する学校にお邪魔をした。午後2時頃、ミーティングルームに、先生方が集まってきた。そして、思い思いに紙袋からニンジンを取り出してそれをポリポリと食べるのであった。何人もの先生が、私に、
 「フレッシュだから、食べなさい。健康に良いよ。」
と言って差し出すのだった。見れば、誰もが、ニンジンを片手に持ち、失礼ながらそれを囓りながら、楽しそうに談笑しているのであった。オーストラリアの人々は、特に皮膚を大切にする。元々が、ご先祖は緯度の高い地域のご出身であり、その子孫である自分たちが低緯度の地に住んでいるということで皮膚を大切のするのだろう。直射光線のあたる場所では、老若男女関係無く、日焼け止めクリームを肌に塗っていたものだった。ニンジンもそうした観点からのビタミンの補給なのかもしれない。だが、生のニンジンを差し出された私はと申せば、一日目は正直のところそれこそお義理でお付き合いをしたものだが、二日目からはご辞退申し上げてしまった。例えば、マヨネーズをつけるとか、食塩を振りかけて食べるとかならまだしも、生のニンジンをそのまま味わうのは、抵抗があったし、実際に、味そのものも馴染めなかったから。
 生のニンジンの思い出の二つ目は、日本国内でのことだった。
 民間放送教育協会の主催で、放送教育に関する全国大会が毎年開かれ、ある年、それが大阪で開かれたことがあった。私は、某国立大学の附属幼稚園長さんと同行し、大阪に向かった。彼女は、私よりも20歳くらい年齢的には先輩であった。彼女の勧めで、大阪市内でも名の通ったホテルに宿泊をした。夜景が綺麗に見えるからと誘われてホテルの最上階にあるバーに入ってみた。確かに見事な夜景を見下ろすことが出来た。しかも、私の大好きなジャズが生演奏されていて雰囲気も良かった。ピアノ・トリオであり、ビル・エヴァンスのナンバーを中心にして演奏されていた。そこまでは十分で、申し分なかったのだが、飲み物のオーダーを求められた際に、先輩の同行者は躊躇わずにスコッチ・ウィスキーをオーダーしていた。私は、止せば良いのに日本酒をオーダーしたものだった。同行者も、店のスタッフも幾分それは場違いではないかととでも言いたそうな表情を見せた。加えて、おつまみはと問われて、私はお新香をオーダーしたのだった。するとお新香は置いてないという。何か生の野菜はないかと問うと、
 「キャロットならばございます。」
という返事だった。仕方がないので、それをオーダーしたところ、やがて、ブランデーグラスの中に細かな氷が入った中に、人間の人差し指程度のニンジンが5本ほど差し込んであるものがテーブルの上に届いた。それまで色々な酒のつまみに出逢ったものだが、日本酒と生のニンジンという取り組み合わせにはさすがに違和感を覚えたものだった。因みに、その「キャロット」なるものの価格を聞いてみたところ、6,000円だという。途端に、その小さなニンジンがとても貴重な存在に見えて来たものだったが、味は、熱燗の日本酒とどうも相性が良いとは言えそうになかった。今から25、6年ほど前の話である。
 本山荻舟著『飲食事典』(平凡社刊)の「ニンジン」の項目を開くと次のような記述が見られた。
 「
根は概して甘味に富むけれど、糖分とちがう特異の味覚が幼少時の嗜好に適しないためか、我が国ではこれのみの単色を忌避する傾向が強いので、自然他の材料と併用する風が生じたらしく、植物性を主としたいわゆる精進風の場合にも、定式的の煮しめ以外に多くは大根に伴うナマス、ゴマあえ、白あえ、または煮込みのゴモク飯、ケンチン等に配せられたが、その感覚は欧米でも々と見えて、洋風料理では多く肉類の附け合わせに用いられ、その他の野菜料理にも概して併用材料を求めつつあるようである。」(同書 P.448)
 確かにその通りであり、あまりニンジンを単体で食べることをしないように思う。ただし、近年ニンジンは脚光を浴びつつあるという。ジュースにして飲用する傾向が飛躍的に向上しているということである。このままのペースで行くとトマトジュースに追いつき、追い越さんばかりの勢いであると言う。とにかく、トマトも同様の傾向にあるが、ニンジンも、子どもの頃に食べた味よりも親しみやすい味へと変化していることは事実のようである。
 蛇足:まるで関係のないおまけ                          
 今日は、お正月の3日目だ。我が家は今年は生憎と喪正月である。そこで、年賀状もない。お年賀のお客も来ないし、こちらからも出向くこともない。そこで、静かに書斎でパソコンに向かうことが出来た。上述の「ニンジンについて」の駄文をタイピングしながら、BGMにはヨーヨー・マのチェロを聴いた。個人的な好みではあるが、冬には、チェロの音色がよく似合うと思う。穏やかで慈愛に富んでいて暖か味のある音色だからだ。それはそれとして、今回聴いた音源はCDであり、アルバム名は”The Best Of Yo-To Ma”である。全部で13曲が収録されているが、最初と最後のそれぞれはJ.S.Bachの「無伴奏チェロ組曲」である。途中には、ピアソラの「リベルタンゴ」やコール・ポーターの”Anything goes"等も収録されている。ご両親は中国人で、フランス生まれのアメリカ育ち、大学は敢えて音楽以外の分野も学びたいからとハーバード大学に学んでいる。彼の才能を認め世に送り出したのはあの不世出の天才チェロイストであるパブロ・カザルスであったという。とにかく、ヨ-ヨ-・マは、バロック音楽からジャズや現代のタンゴの世界までとコスモポリタン性を存分に発揮して、その音色を耳にする人々を魅了してくれている様に思える。因みに、このCDは、自分で購入したものではなく、数年前の私自身の誕生日のお祝いにと一人娘からプレゼントされたものでもある。実に素晴らしいプレゼントを頂戴したものと毎回感謝の気持ちが沸いてくるのだった。
 H.24.01.04