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バラ(薔薇)について
 我が家の庭にバラが植えられたのはいつ頃のことだったのだろうか?そんなに昔のことではなさそうだ。東京からこの地に住み着いたばかりの頃には、バラは無かったからだ。だが、正確な記憶はない。恐らく昭和30年代の半ば頃ではないだろうかと思われる。それは次のような出来事を今も覚えているからだ。
 現在の我が国の皇后が、未だご成婚される以前には、正田美智子様と呼ばれていた。そして、現天皇が、未だ皇太子だった頃に、両者のご婚約が発表された時には、私の住む館林市にある正田家は一躍脚光を浴びることとなったものだった。丁度その頃に、どのような経緯でかは定かではないが、今は亡き私の母が、その正田家の庭にあったというバラの苗を頂戴してきたと言って喜んで庭に植えたことあがった。恐らく、我が家にバラという園芸植物が到来したのはそれが最初のように思える。そのバラは、品種名もわからないままにも、毎年、ピンクの穏やかな八重咲きの花を咲かせてくれている。
 上には、我が家にほぼ半世紀もあるバラに関して、「品種名も分からないまま」と記したが、ことほど左様なほどに、私は、バラに無関心なのである。というより、バラという園芸植物は、私にとっては、恐ろしいほど間口が広く、そして奥行きの深いように思えて仕方がないのだ。だから、上述のバラにしても、二度、三度と植え替えて場所を代えたりはしたが、ほとんど手入れということをしていない。バラは、どうもあのトゲが厭なのだ。そして、バラに関しての文化史についても、もちろん、様々な文献からの知識は断片的には得てきてはいる。しかし、あまりにも膨大な情報量に圧倒されて、真剣にバラについて学んでみようという気持ちが萎えてしまっているのだ。それだから、上述のバラに関しての品種名に関しても、未だに調べてみようという気持ちが湧いてこないのだ。そればかりではなく、これまでに、何度か、このコーナーに「バラ(薔薇)について」とのタイトルで書き出しては見てはいるのだが、何度も中途で頓挫してしまっている次第なのである。今回も果たして最後まで書き終えることが出来るのかどうか、またしても途中で投げ出してしまうのか、全く見当も付かないお粗末さなのである。「バラ(薔薇)について」等とタイトルを目にすると、とんでもない大きな植物に立ち向かってしまったような気がしてならない。
 ところで、我が家には、恐らく昭和30年代の半ば頃にバラがやってきたと述べた。他の園芸植物に比較してみるとかなり遅いように思える。亡母が頂戴して来たバラの苗を喜んで庭に植えたのには、幾つもの理由が推察される。もちろん、それが正田家から頂戴してきたということも第一の理由と言えよう。しかし、それに加えて、バラという典型的な園芸植物を庭で育てられるようになったという喜びがあったのではないかとも考えられるのだ。それまでは、敗戦後の貧窮の中での生活を余儀なくされ、バラはもちろんのこと、花を楽しむどころではなかったのだ。開いている土地があれば、とにかく食べられる作物を栽培することに必死だったのだからである。そして、今でこそ、バラはさほど珍しくもない存在であるが、例えば洋ラン等が持て囃される以前には、他の園芸植物に比較して高級感を持ったイメージを伴う存在だったのだ。つまり、戦後間もない頃の庶民には、それこそ「高嶺の花」的な存在だったのだ。だから、一般の家庭でバラを育てられるようになったという時代が到来したという平和な世の中に対する有り難さも母にとっては喜びだったのではないかと思えるのだ。
 上には、個人的な記憶からのバラに対する感想ばかりを述べてきたが、様々な文献をひもといてみても、やはり、バラが一般に普及を見て流通するようになったのは、どうやら戦後の事のようである。それまでは、西洋絵画やギリシャ神話などから、西洋文化史の中ではバラという園芸植物が特異な存在であったことは周知であったことは推測に易い。そして、明治期の詩歌の中にもバラが詠み込まれていないでもない。因みに、清岡卓行著『薔薇の詩のアンソロジー』(日本文芸社)を開いて見ると、戦前のバラを主題にした詩が多数集められていたが、どれも「薔薇」または「ばら」で登場している。更に付け加えれば、同書には、与謝野晶子の作品が2点ほど掲載されている。(果たして、晶子女史が目にしたバラとは、或いはイメージしたバラとはどのようなバラだったのだろうか?)ここで、敢えて個人的な意見を述べさせて貰えれば、戦前のバラとは、たとえば、北原白秋等がアカシアを主題として取り上げたと同様に、ある種の憧憬の念からの存在ではなかったのではなかろうかと思えるのだ。つまり、庶民にとっては、それこそバラは身近に見ることのない花だったのではないかと思えるのだ。
 ここで、バラについての個人的にとても恥ずかしい内容を吐露してみたい。実は、私は、「バラ」という植物名を長いこと外来語だと思って過ごして来たのだった。その原因は、私の記憶の中では、いつも「バラ」というカタカナ表記のものであって、「ばら」という平仮名表記にはあまり接してこなかったことによるようだ。つまり、チューリップやアネモネと同様に、「バラ」という植物実体も、「バラ」という名前も、外国からやってきたものと思い込んでしまったのだった。更に、バラは漢字では「薔薇」と表記されるが、これも、たとえばアロエを中国では「蘆薈」と表記するが、それと同様に、彼の国で、「バラ」に発音の似ている漢字を宛てた造語を我が国が借用してしまったものと思い込んですごしていたのだ。それというのも、「薔薇」の「薔」という漢字は、本来的には「水蓼(ミズタデ、つまりカワタデの古称)」を意味する漢字であり、一方の「薇」はご存じのようにシダ植物の「ゼンマイ」を意味する漢字なのである。したがって、この両者が組み合わさっても、意味合いからは、どうしても「バラ」に辿り着けなかったのだ。もちろん、「バラ」ではなく「ばら」と平仮名表記をした事例に出会わなかったわけではない。しかし、それは、「アカシア」を「あかしあ」と表記したものと同様であろうと勝手に推測したままで過ごしたのだった。やがて、大人になってから、「バラ」とは、驚いたことに、そして何とも恥ずかしい次第ではあったが、歴然とした日本語だったことを知ったのだった。
 バラの語源は、御案内のように「茨(イバラ)」である。上代には、「ウバラ」、「ムバラ」・「ウマラ」等と呼ばれていたらしい。因みに、これまたご存じのように、『万葉集』では「ウマラ」の名で詠まれている。
 「ウバラ」とは、
大槻文彦著『新訂 大言海』(冨山房)によれば次のように説明されている。
 
うばら(名) 荊棘
  又、むばらトモ云フ、群棘(ムレハリ)ノ略轉カ、うだく、むだく(抱)。なれつく、なつく(馴付)。
  ① 棘アル木ノ總稱 ムバラ、イバラ

 更に同書によれば、「イバラ」は「ウバラ」からの転訛であるとしている。
 つまり、棘のある木は衣服に抱きつくように絡みつくので、「ムバラ」と言ったものが、梅の場合「ムメ→ウメ」と転訛したように、「ムバラ→ウバラ」と転訛したようである。そこで、上掲の『大言海』の説明通りに解釈すれば、「ムバラ」の「ム」は「群れ」からきており、「バラ」は「針」の意ということになる。つまり、「ムバラ」とは、<針(=棘)を多く持つ木>ということになるのだろう。そして、やがてそれは、「ウバラ→イバラ→バラ」となったということになるだろう。
 だが、いつ頃から「ウバラ・ウマラ」から「イバラ」に変わったのだろう。更に、その「イバラ」から「バラ」に変わったものなのか?これは大いに疑問とするところであるが、未だに分からずにいる。色々と文献を開いてみてもよく分からない。
 江戸時代の俳諧の世界では「茨(イバラ)」で詠まれている。また「バラ」の語が出て来るのは貝原益軒の著した『大和本草』辺りからのようである。
 上には何度も「茨」という文字を表記したが、この漢字は、本来的にはハマビシ科のハマビシ(Tribulus terrestis 漢名:蒺藜)に対する漢字であった。ハマビシには菱形の果実が付き、5稜を持ち、それぞれ2本の鋭い棘を有している。ところが、我が国では、棘を有する植物の総称として「茨」の文字を用いてしまったことになる。そして、それがやがて、棘を有する植物の典型として野イバラを意味するようになってしまったようなのである。つまり、「茨」とは、本来的には、「バラ」とはまるで無関係の漢字であったのだ。
 一方で、バラには、「薔薇(そうび)」という表記法がある。今でも、バラを漢字で表記すれば「薔薇」ということになる。この「薔薇(そうび)」という表記法は、我が国ではいつ頃からなのかを調べて見ると、意外に早い時期から登場しているのである。
 その初出はと言えば、『古今集』の中の「物名歌(ものなうた)」に、紀貫之が「さうび(薔薇)」を詠み込んだ歌があることはよく知られているところである。紀貫之は次のような歌を残している。
 
我は今朝)初(うひ)にぞ見つる花の色をあだなるものといふべかりけり
 「物名歌」とは、ご存じのように題を隠して詠む歌であり、上掲の歌の中には「
さうひ」としてバラ「薔薇=そうび」がしっかりと詠み込まれていることになる。我が国の古典の中で「薔薇」が登場するのはこれが最初と言うことになる。貫之は「初にぞ見つる」と詠んでいる。つまり、珍しい花を見たと詠んでいることから、それが野バラではなく、園芸種のバラであると推測される。文献をひもとくと、我が国に園芸種のバラが渡来したのは、平安時代であると言うのが定説になっている。貫之が目にしたバラとは、今日一般に普及を見ている西洋バラではなく、中国産の東洋バラであり、恐らくコウシンバラ(Rosa chinesis)であろうというのもこれまた今では定説になっている。だが、貫之は上掲歌のなかでは「薔薇」を「あだなるもの」と詠んでいる。この意味するところについては学者諸氏によって見解の分かれるところではあるが、いずれにしても、どうやら貫之にしてみればあまりよい印象を抱かなかったように感じられる。
 12世紀の初め頃に書かれた藤原定家の『明月記』には
  「
建暦三年十二月十六日、籬下長春花猶有
とあるが、この「長春花」とはコウシンバラのことである。「長春」とは花期が長いことからの命名で、それがやがて「恒春」となり、そしてまた「庚申」と変化したのだという。
 因みに、紫式部の『源氏物語』(賢人・乙女)にも、「薔薇」の名が見られる。貫之や紫式部が見たというコウシンバラとはどのようなものか、ご存じのない方は「コウシンバラ」の頁を参照頂きたい。
 かつて『万葉集』にあれほど多く詠まれたウメに代表されるように所謂唐風文化が重んじられたが、このコウシンバラが渡来した頃には、和風文化の全盛期に入っており、「薔薇」の実体と表記そのものも渡来はしてはいても、あまり持て囃されることはなかったようである。明治期に至るまでは「薔薇」の文字を様々な古典に見ることはないからである。
 さて、「茨」とは、そもそもバラとは無関係なハマビシに対する漢字であったと上述した。また、「薔」並びに「薇」とは、ミズタデ並びにゼンマイを意味する漢字であることも上述した。では、何故、「薔薇」はバラを意味するようになったのかについて、毎度お世話になっている加納喜光著『植物の漢字語源辞典』(東京堂出版)を頼りに調べて見たところ、次のようなことが分かった。
 本来「薔薇」とは、ノイバラ(Rosa multiflora)を意味しているのだという。因みに、現代の中国名ではノイバラは「多花薔薇」或いは「野薔薇」である。何故、この「薔薇」という二つの漢字が結びつくとノイバラになってしまうのかとは、次のような経緯によっているというのだ。上掲書によれば、「薔薇」とはバラ属の総称でもあるという。そして、この「薔薇」の語源について、李時珍は、
 
此の草の蔓、柔薇にして、牆(かき)依りて生ず。故に,牆薇と名づく。
と述べたとある。また、同書によれば、「薇」とは我が国ではゼンマイを意味するが、本来は、我が国では現在帰化状態にあると各地から報告されているオオカラスノエンドウ(別名:オオヤハズエンドウ、ザートヴィッケ 学名Vicia sativa)を表記するための漢字であったという。そこで、同書では次のように記述している。
 
「ノイバラは、半つる性の植物で、垣根に絡みつき、また、他物に寄りかかる弱々しいイメージが薇(オオカラスノエンドウ)と似ているので、墻(=)と薇を結びつけて「墻薇」という複合語を著した。のち、墻の略体である嗇に草冠をつけて整形した。」
 こうして漢字表記の本家本元である隣国ではノイバラを「薔薇」と表記するようになったのだという。我が国でも、ノイバラだけではなく、バラ属の総称として「薔薇」と表記するようになり、やがて、野生のバラに対しては「野薔薇」と表記するようになったのであった。
 バラ属の学名はRosaである。そして、英語ではrose、フランス語でもrose、ドイツ語でもRose、イタリア語ではrosa、スペイン語でもrosa、ポルトガル語でもrosaである。
 rosaの語源は、バラに対するラテン古名rosaである。そして、それは、ギリシャ語のrhodon(=バラ)であるという。ギリシャ語のrhodonの語源を遡るとケルト語のrhodd(=赤)が語源であるという。たとえば、ツツジ属の学名はRhododendronである。これはギリシャ語のrhodonとdendron(=樹木)の合成語であり、この両語を組み合わせることによって「赤い花をつける樹木」の意となっている。
 だが、そもそも西洋バラの原産地は、黒海とカスピ海に挟まれたカフカス山脈辺ということである。そこで、原産地から、バラが移動するにあたりどのような変化を経てきているのかを調べて見た。その辺りの事情については、ここに記述するには我が家の蔵書の中では後掲の2冊(3と5)がとても参考になったが、結論からすると、どうやら、現在の段階では明確な変遷を探り得ていないようである。
 バラと言えば、西洋の神話や絵画に度々登場する。たとえば、ボッティチェッリの描いた「ヴィーナスの誕生」の中では、バラは描かれている。バラは、ヴィーナスと一緒に誕生したことをボッティチェッリは描いている。その辺の事情については、既にたくさんの書物が伝えているところなのでこれ以上は深入りしないことにする。もしご存じないという御仁には後掲書をひもとくことをお勧めしたい。ギリシャやローマの時代を経て後に、西洋社会ではキリスト教の伝搬と同時にバラの意味するところも変化してくる。だが、不思議なことに、『聖書』には、バラは、たったの2度しか登場しない。この辺の事情についても、やはり、ご存じのことと思われるので、後掲書に譲ろう。
 とにかく西洋文化史の中での西洋バラの占める位置に関する書物は多々あるので、上には深入りしなかったが、では、お隣の中国でのバラとはどのような存在だったのだろうか。こちらに関しては、あまり語られることが少ないようだ。とにかく、中国では花姿ももちろんであるが、何よりも花の芳香に価値基準が置かれるからだ。だからこそ、中国の国花はウメである。また、ご存じのように、東洋蘭の場合、花色は少しも艶やかさはないが、芳香は抜群である。そこで、バラもやはり芳香を発する花の典型的な園芸植物である。バラの芳香性が好まれたということは、何も中国に限らず、西洋バラが発達を見た大きな要因なのである。
 さて、中国では、此の世のすべての花や植物には、それぞれ個別に定まった花の精があり、それぞれの花の精が各々の花の生命や生育を司っていると古来より信じられて来た。所謂「花神」ということになる。その花神の中でも、「十二花神」として、特に重要視されている存在がある。その中に、バラもしっかりと入っており、4月はバラの花神とされている。バラの花神は「麗娟」とされている。麗娟とは、漢の武帝に寵愛された後宮の妃で、絶世の美女であったという。花神にはその花との因縁の深い人物が選ばれているのだが、麗娟とバラに関しては次のようなエピソードがある。
 彼女が武帝の供をして宮中の花園に遊んだある晩春の一日、まるで美しい女性が満面に笑みを浮かべたように今を盛りと咲き乱れている薔薇の見事さに感嘆した武帝が、
 「この花は、そなたが笑うたよりもいっそうあでやかじゃ。」
と戯れたという。
 すると麗娟は少しもたじろがずににこやかに微笑しながら、
 「花は金銭で買うことが出来ますが、人間の笑いは、天子様といえどお買えになれますか?」
とやり返したという。
 ところが、武帝が
 「買うことが出来る。」
と答えたものだから、彼女は帝に黄金百斤を贈り、
 「それでは、これをあげますから、終日お笑いになって下さいませ。」
と言ったという。
 このエピソードから、その後薔薇は「買笑花」という異名を持つようになったという。(中国の花神に関する内容に関しては、
中村公一著『中国の花ことば:中国人と花のシンボリズム』(岩崎美術社)から引用させていただいた。)
 つまり、バラはお隣の中国でも重要な園芸植物であり、古い時代より珍重されていたと言うことになる。
 どうも中途半端な感を免れ得ないが、バラについての記述は、以上で終わりにしたい。最後に、我が家の書斎にあるバラ関連の書を数冊お勧めしたい。
1 
若桑みどり著『薔薇のイコノロジー』(青土社)
 西洋文化史或いは西洋美術史に関心をお持ちの方には、必読の書とでも申し上げたい書である。バラに限らず、西洋絵画が訴えているメッセージとは何なのか、絵画の中に描かれている個々の動植物は何を意味しているのか、そうした意味合いを持つようになった背景には、西洋社会にはどのような文化史があったのか等々と若桑教授が詳細に述べておられる。とにかく「目から鱗」とはこのことかと思えるほど納得させてくれる書である。
2 画集:ピエール・ルドゥーテの『バラ図譜』
 
P.J.Redoutéé ”REDOUTÉ'S ROSE"(Wordsworth Edition)
 昔から<世界で最も美しいバラの画集>と言われ続けて来た画集である。
 以前学研からルドゥーテの画集が発刊された。我が家にはその中で『美花選(春)』、『美花選(夏・秋)』、『ユリ科植物図譜(Ⅰ)』、『ユリ科植物図譜(Ⅱ)』の復刻本4セットがあるのだが、残念ながら、『バラ図譜』だけはない。(果たして発刊されたのだろうか?)最近、河出書房新社から『バラ図譜』の復刻本が刊行されたとの情報を得ているのだが、実物に接したことはない。
 あのマリー・アントワネットも師事したと言われるルドゥーテの絵画は、典型的なボタニカルアートである。当時の西洋社会には、どのようなバラが栽培されていたかがよく分かる書である。今から10年以上も前のことであるが、東京・渋谷の東急文化村で、ルドゥーテの原画展が開催されるとの情報を得て足を運んだ。直筆画に接する機会を得て大いに感動したものだった。そこで、どうしても『バラ図譜』を入手したくなり海外に出た折に購入したのが上掲書である。もし、学研版が刊行されているのならば、そちらをお勧めしたい。印刷技術も優れているし、生涯大切にしたいなと思えるような装丁で、立派なケース入りの書の筈である。
3 
『バラ ALL ABOUT ROSES』(朝日新聞社)
 本書は、大部の書ではないが次のような勝れた論文が掲載されている。
 ・「バラの歴史と現代バラ」(京成バラ園芸研究所長:鈴木省三氏著)
  園芸バラ研究の第一人者である鈴木氏が演芸バラの歴史と推移を述べている。
 ・「ルネッサンス美術におけるばら」(千葉大学教授:若桑みどり氏著)
  西洋文化史におけるバラの意味するところを述べておられる。
 ・「バラ:その名前の起源と伝播」(京都産業大学国際言語科学研究所:矢島文夫教授著)
  言語学・オリエント文化史の第一人者でもあった故矢島教授がRoseの語源をたどっている。
 ・「文学と薔薇」(英文学者:吉田正俊氏著)
  英文学者の吉田氏は「文学の中に登場する花は多数あるが、薔薇は女王である」と述べている。
 また本書には、巻頭部分で,多くの頁を割いて美しいカラー写真でバラの園芸品種の数々を紹介してくれている。
4 
ピーター・コーツ著/阿部薰訳『花の文化史』(八坂書房)
 ピーター・コーツは、西洋文化史の観点からバラを掘り下げてくれている。
5 
春山行夫著『春山行夫の博物誌Ⅰ花ことば:花の象徴とフォークロア(全2巻)』(平凡社)
 本書ではバラの語源に始まり、バラの文化史について様々なエピソードを添えてバラを語っている。
6 
春山行夫著『花の文化史:花の歴史をつくった人々』(講談社)
 本書は、総ページ数がは九百ページ数に迫ろうという大部の書であるが、それをたった一人で書き上げた春山氏には、とにかく脱帽の感を抱いてしまう。とにかく博学な御仁である。春山氏の上掲書とは別に、本書では、園芸バラの作出の歴史と経緯が詳細に述べられている。植物文化史に関心をお持ちの方は、是非座右に置くべき一冊ではなかろうか。
7 
塚本邦雄著『百花遊歴』(文藝春秋社)
 現代短歌の第一人者の語るバラである。古今東西のバラに関するあれこれが、本書だけでも十分足りる程に語られている。歌人でもあり、詩人でもあっただけに、バラに関する詩歌も多数掲載してある。
8 
加藤憲市著『英米文学植物民俗誌』(冨山房)
9 
成田成寿編集『英語歳時記(全6巻)』(研究社)
10 
阿部薰著『シェイクスピアの花』(八坂書房)
 上掲8~10に関しては、バラがイギリスの国花という観点からも、目を通したい書である。
11 
中村公一著『中国の花ことば:中国人と花のシンボリズム』(岩崎美術社)
12 
飯田龍太編集『花のうた:花の俳句・短歌・詩(全3巻)』小学館
13 
清岡卓行著『薔薇の詩のアンソロジー』(日本文芸社)
 上掲12と13に関しては、我が国のバラに関する詩歌が集められている。
14 
針谷鐘吉篇『植物短歌事典(正・属)』(加島書店)
15 
西川照子著『神々の赤い花:人・植物・民俗』(平凡社)
16 
野口武彦著『花の詩学』(新潮社)
17 
山中哲夫著『ヨーロッパ文学花の詩史:詩にうたわれた花の意味』(大修館書店)
18 
小林頼子著『花のギャラリー:描かれた花の意味』(八坂書房)
19 
多田智満子著『花の神話学』(白水社)
20 
加納喜光著『植物の漢字語源辞典』(東京堂出版)
21 大場秀章著『バラの誕生:技術と文化の高貴なる結合』(中央公論社)
22 斎藤民哉著『ばら百花』(平凡社)
 取り敢えず、我が家の書斎から20冊程選んでみた。まだまだ挙げればきりがないのでこの辺りで止めて置きたいと思う。バラについて深く知りたい方はどうぞ上掲の各書を興味に応じて、或いは関心の分野から選んでお読み頂きたい。
 蛇足:まるで関係のないおまけ                          
 今回は、時間が掛かりそうに思ったので、イギリスロイヤル・フィルの演奏による”Mozart works”を流しながらタイピングをした。CD6枚のセットだが、相変わらずモーツアルトの音楽は軽快だ。モーツアルトに対して、また、演奏家の面々に対しても不謹慎な話だが、作業をしながら聴き流すには最適のようにも思える。私個人としては、真冬にモーツアルトを聴くのはめずらしいことである。
 H.23.01.16