鉄道について |
我が家は、最寄りの私鉄駅まで徒歩5分程度であり、とても至近距離にあると言える。昔も今も変わらず駅員がたったの二人だけの小さな駅である。隣の駅までは3分程度で、その駅は、乗換駅であり、この地方の拠点駅となっている。その駅からは、線路が3方向に分かれるのだ。それは今も変わらない。 この鉄道には大変お世話になった。高校時代も、大学時代も、そして社会人になってからも、鉄道のお世話になったからである。だが、職業生活を離れてからと言うもの、あまり鉄道にお世話になる機会は少なくなってしまった。それは私自身の側に問題があるのであって、鉄道の側に因するわけではない。数年前に病気になってからというもの、滅多に一人で外出をすることもなくなってしまったからだ。思い出してみると、一昨年は、たった一度だけ、隣の県まで会合に出かけた。そして、昨年も、同じ会合で隣の県まで1度だけ出かけただけだった。乗車時間は30分程度でしか無い。一年間にたったの一度だけというのは、自分でも信じられない回数である。それに日常的な外出は専ら車に乗ってもいるからである。 |
以前、このコーナーで述べたが、今は亡き私の両親は、東京から群馬のこの地まで、リヤカーに私と家財道具とを乗せて徒歩でやってきたのだった。そして、母の背中には、生まれて未だ一ヶ月も経ていない私の妹がいたのだった。昭和20年(1945)の4月のことだった。その年の3月に、東京大空襲があり、我が家も全滅してしまったからだ。幸いにして、この地に、父名義の土地と家屋とが残されていたので、恐ろしい東京を離れて、現在の地に落ち着いたということになる。 ところで、大学時代に、都内の大学に通学していた頃、毎回思ったのは、徒歩で都内から群馬まで辿り着くと言うことは相当な難儀を伴ったであろうということであった。戦争中には「非常時」という言葉がしきりに人の口をついて出たが、まさしく非常時だからこその発想であり、また実行であったものと言えよう。 何故、両親は、「徒歩」という移動手段を選んだのだろうか?その答えは、その当時、つまり、戦中、戦後を生き抜いた方々には推測に易いであろう。 先ず、第一に、その当時は、電車の本数も限られていたのだった。加えて、我が家同様に東京から難を逃れて地方へと移動する人々でごった返していた時代であり、電車の中は、文字通り「超」満員だったのだ。乗れるかどうかも危ぶまれたのだ。さらに、上述のように、両親は、防空壕の中で運良く難を逃れた家財道具一式をリヤカーに積み込んでいたのだった。タンス、その中に収納された衣類、鍋・釜、食事用の食器類、そして自転車が一台、ラジオ、柱時計、これが全財産だった。満員の電車にこれだけの荷物を持ち込むことは不可能だったということは容易に想像がつく。だから徒歩にしたということになるのだろう。 先年、3.11の大地震、大津波、加えて原発事故という三重苦が人々に大きな難儀をもたらした。あの日、都内に勤務していたある知人は、すべての交通機関が麻痺してしまったために、都内にある勤務先から等しく都内にある自宅まで徒歩で帰宅することを余儀なくされたという。延々と続く人の波の中を歩き続け、6時間以上も経過して自宅に辿り着いたという。自宅に着いたときには深夜だったと言う。 大学に通っていた頃には、私には想像もつかないような両親の実行力にほとほと頭が下がった次第である。 |
子どもの頃から鉄道というものを見続けて来て随分変化があったなと思う。 隣の駅は乗り換えの拠点駅だったと上述した。その駅周辺が大きく様変わりをしたといえる。昔は、必ずと言っていいほど、駅の周辺には倉庫があった。大きな駅の周辺には、決まって倉庫があり、絶えず、トラックが往来していたものだった。私の子どもの頃には、長距離物流の中心的輸送機関は鉄道だったのだ。そのために、駅で荷物の積み卸しが行われ、荷物は倉庫に保管され、トラックが荷を運ぶというパターンであった。そのように大量の荷物の輸送が鉄道に依存していた時代には、各種産業の工場も、出来るだけ鉄道に至近距離であることが有利とされた。そして、最寄りの駅から、工場まで引き込み線と呼ばれる線路を敷いて、自社設備の中で荷物の積み込みから、荷下ろしまでを行っていたのだった。 ところが、いつの間にか、物流の中心は自動車に移り変わってしまった。特に高速道路が出来てからと言うもの、専ら自動車が主役となってしまった。そうなると、何も混雑した都市部ではない場所の方が便利になってきた。特に高速道路に近いことが有利なロケーションと化してしまったのだ。 物流の主役が鉄道から自動車に変化した理由のもう一つは、輸送時間の問題もあったと言えよう。貨車輸送の場合には、輸送に時間が要されたのだった。長い貨車の列から、拠点駅で、行く先毎に切り離され、同方向に向かう貨車を集めて1台に機関車で牽引する事になるからであった。その間に、長い待ち時間が必要とされたのだ。 加えて、現在の生産工場や大型店舗等では、荷物の納入時間を指定することにより、倉庫を持たないで済む方式を採り入れている。これも車社会が生んだ物流システムの一つと言えよう。 とにかく、物流の主役が鉄道から自動車へと移行することにより、地方の都市の駅周辺からは「倉庫」が消えてしまったのだ。その結果、駅周辺の景観がすっかり変わってしまったことは言うまでも無い。 更に、駅構内の景観もすっかり変貌を遂げてしまった。鉄道が物流の主役を担っていた頃には、主要駅には決まって「操車場」なるスペースがあったものだ。そこで、貨車の編成や、車輌の入れ替え、機関車の向きを変えたりしたのだった。機関車の向きを変える場所は「転車台」と呼ばれ、人力で長いアームを押して機関車の方向を逆向きに変えていたが、やがて電動に変わっていた。子どもの頃には、たった一人で、大きな機関車の向きを変える作業している姿を見て、凄いなと思ったものだった。また、貨物の編成作業をする時には、一輛の機関車が、前進したり、後退したりを繰り返して貨車の繫ぎ替えをしていたが、随分面倒な仕事だなと思ったものだった。そうしたスペースや車輌の点検工場が消えてしまったために、随分あっさりとした光景に変わってしまった。 |
上には、物流の拠点が鉄道駅だったために付随した倉庫街が消えてしまったと述べた。だが、まだ消えてしまったものがある。これは、私の住む地域だけなのかも知れないので、どの地域にも相当するとは言えそうにも無い。私が高校生の頃までは、鉄道駅と言えば、また、バスのターミナルでもあったのだった。駅近くにはバスの駐車場があり、たくさんのバスが置かれており、バス停の前ではそれぞれ人の列ができたていたものだった。それが、ある年、突然、市内へのバス路線の乗り入れを廃止してしまったのだった。当時は、全国でも「市」でありながら、バスの走らないのは唯一としてマスコミでも取り上げられたものだった。元々、私の住む群馬県という自治体は、世帯あたりの自動車保有数が全国一というデータが今も続いているように、車の普及率が高かったのだ。そうしたことが原因していたのかも知れない。バスが無くなって不自由した人々は多数存在したことは言うまでも無い。亡母が存命中の頃には、自治体から「タクシー券」なるものが支給されることとなった。病院等へ向かうにバスが無くては困るからと言う理由からであった。それはそれとして、バスターミナルが無くなると、また、その場所の景観も自ずと変化してくることとなった。駅周辺で時間待ちをする人の数が減ってきてしまったことは言うまでも無い。そうした大勢の人々を相手にした商店も変化の余儀なくを迫られたのだった。駅は、もはや単なる通過点と化してしまったからだ。加えて、車社会の進行は、大型店舗も繁華街では無く、地方としては、郊外型へと変化してしまったものだから、駅周辺は益々閑散とせざるを得なくなってきてしまった。 |
上には駅周辺で減ってしまった事例ばかりを挙げたが、逆に増加したものがある。それは自転車である。これは我が家の近くの駅ばかりでは無く、何処でも普通に見られる現象となってしまったように思える。特に、都市部では、夥しい数の自転車が置かれている。恐らく通勤や通学のための自転車なのであろう。だが、戻って来た時に果たしてどれが自分の自転車なのかを探し出すのは大変だろうなと思ってしまう。 まだ、増えたものがある。それは、駐車場である。これもどこの駅周辺でも見られる。私も、3年間だけ駅から至近距離の月極駐車場を利用した事がある。我が家から60㎞程度の地の職場に勤務した時に、途中は電車で通勤し、下車した駅からは車を利用するためだった。その駐車場は、日中は殆どがら空き状態であったから、皆さん私と同じような通勤状態にあったと推測される。 もう一つ、増えたものがある。それは車での送迎である。朝夕の通勤・通学時間帯は駅周辺には車の列が出来る。朝は、送り届けると、そのままその車は走り去ってしまうが、夕方は、そうは行かない。目的の家族が下車するのが確認出来ないと、次の電車まで待たなければならないからだ。従って、長い車の列が出来ることになるんだ。特に悪天候の時や厳寒期には多く見られる現象である。 駅周辺で増えたものの最後として、私が高校生の頃に無かったものが新たに登場した。それはコンビニエンス・ストアだ。初めは、昔の駄菓子屋さんの現代版程度と横目で見ていたが、これが大きく異なっていた。もちろん、現代生活の中で日常的に必要な品々は販売されていることは言うまでも無いのだが、その店舗に入る人々の目的は様々である。電気料金の振り込みやら、銀行からの引き落としやら、或いは、必要書類のコピーやらと、とにかく多機能化が図られているのである。一人暮らしの人が、自分で欲しいと思う書物を通販で購入し、届け先を駅前のコンビニに指定し、そこで受け取り、自宅に帰るなどというパターンもある。昔の駄菓子屋さんとは大きな違いがあるのだった。 |
鉄道駅周辺の景観が変貌したと上には述べた。だが、子どもの頃から見慣れた鉄道では、まだまだ様々な変化があった。 先ず、乗車賃である。子どもの頃、隣の駅まで電車で行くので、電車賃を欲しいと親に告げると、決まって帰ってくるのは「街までくらい歩いて行きなさい!」という言葉だった。これは我が家ばかりでは無く、友達の家も同様であり、仕方なく、歩いて行ったものだった。隣の駅(街)までは距離にして3㎞程度であった。ところで、その頃の一区間の電車賃と言えば、大人は10円であり、子どもは5円だった。調べてみたところ、現在は一区間の乗車賃は140円である。これは意外に安いと言えなかろうか。昭和20年代から現在までにたったの14倍だ。鉄道で働く人々の給料は昭和20年代と比較して100倍以上になっていると想定されるからだ。加えて、上述のように貨物輸送の運賃収入は無くなっている。経営していたバス事業も廃してしてしまった。さらに、常連の高校生や大学生等の通学運賃にしても年々子どもや若者の数は減少の一途をたどっている。そして、車社会の普及は、通勤も自動車という人々も増加の一途をたどっている。果たして、鉄道会社は、輸送業務以外の事業からでも収入を拡大しているのだろうか? ところで、上に、大人は10円で、子どもは5円だったと述べた。その金額で、「切符」なるものを購入するのだった。当時の切符は、厚味のある、固い紙製だった。そして、大人と区別して、子どもの場合には、斜めに鋏が入るのだった。駅の切符売り場に並んで窓越しに自分の行く先を告げると、駅員が切符を出して金額を告げる。この頃、「往復切符」というものがあった。遠距離の場合には、当日を含めて4日間使用が可能だった。往復切符にすると幾らか割引があったと記憶している。現在も「往復切符」なるものは存在しているのだろうか?そして、改札口を通る時に、駅員に切符を渡すと奇妙な形状の鋏で切符の縁を切り落とすのだった。その鋏で切り落とす時に出来る部分の形状は駅毎に異なっているのだった。つまり、当該切符の発行駅名とその鋏の切り口とが合致していないと不正乗車が判明するというシステムになっているのだった。そこで、改札口には、切り落とされた切符の断片がたくさん散らばっていたものだった。 今では、駅員に向かって行く先を告げて切符を購入する等という行為は行わない。自販機から購入するのだ。何処の駅で乗り換えて何処で下車するかを決めれば、自動的に金額が出てくる。だが、そうした自販機から切符を購入するのも今では珍しくなっている。今では、プリペイド・タイプのカードを利用しており、乗車した区間分の金額がそのカードから引き落とされるようになっているようである。(というのは、私は、そのようなカードを一度も使用したことが無いのだ。冒頭に述べたように、1年間で1回程度しか電車に乗らない人間には、はっきりと無用なのだ。) 学生時代には定期券なるものがあった。社会人になって通勤にも使用したものだった。かなりの高額であり、一ヶ月、三ヶ月、半年等の定期券があったが、長期間になればなるほど割引率は高くなるが紛失した場合等を想定すると、あまり長期間の定期券を購入する事も無かった。果たして、今でも定期券なるものがあるのだろうか?現在大学に通学している孫に聞いてみたところ、今も定期券はあるが、紙製のカードでは無く、プラスティック製で、磁気でデータが記録されていると言うことだった。 |
上に切符について記述したが、この駄文をお読みの方々は、「チッキ」というものをご存じだろうか?もしご存じであれば、相当なご年配と言えよう。「チッキ」などという言葉は既に死語かと思いつつ、試みに『広辞苑』を開いてみたら、しっかりと掲載されていた。次に、それではワープロ・ソフトはカタカナ変換するかと打ち込んでみたところ、しっかりとカタカナに変換してくれていた。(因みに、私の使用しているワープロ・ソフトはジャストシステム社の「一太郎」である。) 「チッキ」というものは言ってみれば、人間の乗車賃としての切符では無く、荷物用の切符ということになる。私は、高校を卒業すると同時に、民間企業に就職している。その企業の独身寮に入寮するにあたり、両親が衣類や布団、そして日常生活に必要な細々としたものも入れた大きな布団袋なるものをその独身寮の最寄り駅まで送ってくれたのだった。その時に、両親からわたされたのが、チッキだった。当時は、どの駅にも必ず「手荷物預かり所」という札の下がった場所があった。そこへ向かって、チッキを見せると、自分の荷物が届いていれば、引換証となるのだった。チッキとは英語のcheckからの転訛であるという。当時の電車の最後尾には車掌室があり、同時に手荷物室も併設されていたのだ。人間同様に自分の荷物だけが乗車賃を払って目的の駅まで持ち主とは別々に向かうのだった。人間の出発よりも事前に送っておかないと、下車した駅で自分の送った荷物を受け取ることは出来なかった。特に、電車の乗り換えなどがある場合には、駅員の手で積み下ろしや積み替えの作業が行われるからだった。JRでは、このチッキなる制度は昭和61年(1986)に廃止されている。私の高校生の頃には、自家用車を乗り回せる人はそうは居なかったのだ。専ら自転車に頼っていた時代でもある。そうした時世にはこのチッキなる制度は誠に重宝な制度だった言えよう。今では、電車の車掌の乗る車輌に手荷物室はなく、駅構内にも手荷物預かり所の看板も見られなくなってしまっている。上に駅周辺から倉庫が消えたと述べた。その要因には車社会の普及を挙げた。今では、宅配便が一般化しているので、チッキなる制度も利用者が居なくなってしまったのでは無かろうかと思えるのだ。やはり、車社会の普及はこうした面でも鉄道輸送に影響を与えたとも言えよう。 |
鉄道では、まだまだ変化があった。線路に見られた枕木が見られなくなった。概して栗の木等を使用して横に並べて、その上に鉄製のレールを乗せるのだった。そして、レールを枕木に固定するために鉄製の犬釘と呼ばれた大型の釘が用いられていた。日本全国の枕木の量たるや膨大なものだったと思う。また、そうした作業も動力では無く、人力によるものだった。小中学校の登下校時に、枕木の交換作業をよく目にしていたからはっきりと記憶している。大変な作業であった。今は、枕木の代わりにモルタルの柱状の物体が置かれている。そして、犬釘では無く、ボルトとナットでレールが固定されている。 上に、駅構内も大きく様変わりをしたと述べたが、明らかに清潔的になったと言える。昔は、プラットフォームで電車を待つ人々が喫煙し、電車の到着直前にその煙草を線路に投げ捨てるものだから、線路には夥しい数の煙草の吸い殻が放置されていたのだった。しかも、近年の煙草は、吸い口にプラスティック製のフィルターがついているので、雨風や強い日光に曝されても、消えることは無く、そのまま残ってしまうのだった。はっきりとマナーのひどさがいつまでも残る結果となってしまったのだった。近年は、駅構内は全面禁煙と化したために、そうした投げ捨て行為もなくなり、見苦しい煙草の吸い殻も見られなくなっている。 |
上に、鉄道による貨車輸送が消えたと述べた。子どもの頃、登下校時に、電車以外に貨物列車の走る姿を何度も目にしている。小学生の頃には、貨物列車は蒸気機関車によって引かれていた。ただし、それを「蒸気機関車」であるとか「SL」等とは呼ぶことは無く、単に「機関車」と呼んでいたものだった。やがて、その蒸気機関車と電気機関車とが入り混じって走るようになった。そして、これまでの「機関車」という呼び名ではなく、「電気機関車」と呼んでいたものだった。また、パンタグラフを持たないジーゼル機関車も走るようになった。子どもの頃に面白がって貨車を見たのは、車輌の横に片仮名表記がんされており、「ワム」とか、「ツム」、「タキ」、「スユニ」等と書かれていたので、それが何を意味するかを知りたがったものだった。たとえば動物を専門に輸送する貨車には「ウ500」、穀物を運ぶホッパ車輌には「ホキ」、石炭を運ぶ車輌には「セラ」等音書かれていた。そして、車輌の横には、大きな文字で企業のトレードマークや企業名が書かれていることが多かった。電車よりも、貨車の方が、遙かに興味がわいたものだった。貨物輸送が鉄道から消えてしまった今では懐かしい思い出であり、今となっては目にすることの無くなってしまった光景でもある。 |
貨車ばかりでは無い、人間を乗せる車輌も大きく様変わりをしている。先ず、昔は「一等車」というものが存在した。私の住む地域を走る私鉄には無かったが、当時「国鉄」と呼ばれていた現在のJRには等級制があり、「一等車」は最上級車輌だった。やがて、昭和35年(1960)に「二等車」の実施により、「一等車」は「二等車」と併合されてしまった。そのほぼ10年後には等級制廃止となり、新たに現在も存続している「グリーン車」へと変わってしまっている。鉄道とは長いつきあいだったが、「一等車」も「二等車」にも一度もお世話になる機会を得られなかった。 当時の客車はと言えば、木製の固い椅子と背もたれであった。やがて、椅子の部分も背もたれの部分にもベルベット状の布が見られるようになって来た。 窓は上下に何段回かに上げ下ろしするタイプだった。その内側に現在で言えばブラインド様の木製の日除けが付いていた。蒸気機関車で走っていると、トンネルに入る直前には慌てて窓を閉めたものだった。煙が車内に入り込んできてしまうからだった。そして、トンネルを通過するとまた、新鮮な空気が欲しくて窓を開けるのだった。だが、カーブをしている線路の時には、窓を開けておくと嫌でも煙が入ってきたものだった。運悪しくお握り等を頬張っている時などには実に嫌な味がしたものだった。 高校生の頃には、電車に1時間ほど乗って通学した。その頃には、椅子の下にヒーターが設置され、冬場には暖房装置となってくれた。とても有り難かったものだが、面白い現象が生じた。あちこちからタクワンの匂いなどが漂い始めるのだ。つまり、お弁当箱が暖まって匂いが漂うことになったのだ。ある程度のご年配の方ならば、そんなご記憶を「お持ちのかたも居られるのでは無かろうか。 上には、高校卒業して直ぐに民間企業に就職した旨記述した。その企業は26歳の時に退職して、私は、27歳で大学へと進学をした。都内の大学であった。当時、日本は高度経済成長期の真っ只中であり、都内の電車の混雑ぶりは言葉には表現できないような状況であった。しかも、その「超」の文字が最初に来るほど満員の電車の中では、平気で喫煙している人々が居たのだから、まさに狂気の沙汰であった。当時は車内禁煙では無かったので、床には踏みにじられた煙草の吸い殻が散乱していたものだった。 その当時、ある新聞の投稿欄に面白い渡航記事が掲載されていた。当時の国鉄に対して、「快速電車」なるものがあるが、「快速」の「快」とは、「快い(こころよい)」という意味合いがあるが、この混雑ぶりでは、少しも「快く」無いという投稿内容だった。すると、国鉄からのそれに対する回答が寄せられた。「快速」の「快」も「速」も「速い」事を意味しているのであって、「快適さ」を強調したものではないという回答だった。確かにその通りであり、文句のつけようも無い回答だった。因みに、中国では「快快、来来!」と言えば「速くお出で!」と言うことになる。 |
昔、一度だけだが、夜行寝台という列車に乗ったことがある。鹿児島に出張した際に自宅まで列車で帰宅したのだった。狭い空間に閉じ込められて、寝心地もあまり良くないので、そろそろ小田原辺りまで来たかなとカーテンを開けてみると、未だ広島であったりもして、気の遠くなるような長い時間を列車の中で過ごさざるを得なかった。結局、何処にも途中下車することなく自宅まで戻ってきたのであったが、驚いたことに丸々23時間を要していた。これなら、飛行機にすれば良かったと後悔したものだった。だが、その長い夜行寝台車の中で、思い出したのは高校時代の修学旅行だった。当時は新幹線等という輸送機関は無く、東京から京都まで夜行列車で向かったのだった。4人掛けのボックス・シートで延々夜通し走ったものだった。誰もが、修学旅行と言うこともあり気分が高揚しており、話に夢中になっていたこともあり、加えて寝具もないし、その場所も無いこともあって、夜通し語り合って過ごしたものだった。お陰で、京都に到着してバスに乗り換えると、ガイドさんの説明に耳を傾けることも無く、市内の光景に目を走らせることも無く、一斉に眠ってしまった事になる。 |
随分以前のことであるが、話題が急変して恐縮だが、オーストラリアで電車で面白い経験をした。西オーストラリアの州都パースから電車でキャプテン・クックが初めてオーストラリア大陸に上陸したとして知られるフリーマントルという港町まで向かった。パースの駅構内で切符を自販機で購入し、日本の場合を想定して、駅構内で改札口を探した。ところが何処にも見当たらない。妻も私も大いに困惑をしてしまった。そこで、現地の人々の行動をじっくりと観察してみた。先ず、切符の自販機に向かう。切符を買う。その切符をポケットに入れる。目的の電車の乗り場に向かう。電車に乗るという順序だった。そこで、私たちもそのようにして電車に乗った。車中で考えたのは、購入した切符は下車駅で渡すか、車内で車掌に見せるかするのだろうと。だが、車中では車掌は回ってこなかった。下車駅でも切符の回収は行われなかった。これでは、切符を持っている人と持たない人の区別はどうするのだろうと考えたしまった。 ところが、電車を下車して、港にある博物館に入った時に、これまた同様のパターンだった。博物館の入り口には入場券を販売する自販機があった。当然そこで、二人分のチケットを購入した。やがて、入り口でそのチケットを確認する人物を探してみたが、駅と同様に、そうした役割の人物は存在しなかった。またしても、現地の人々の行動を観察することとなった。電車に乗るパターンと同じだった。チケットを購入した人々は迷わず館内に足を進めて居たのだった。 港には、大きな芝生でグリーン・カーペットになった広場があった。その横に、港に車で来た人のための広い駐車場があった。入り口に、コインを投入する器械があった。見ていると、到着した人はいったん停車してその器械にコインを投入していた。だが、我が国の駐車場と大きく異なる点があった。我が国の場合には、入り口に大きな車止め用のバーが設置されてあり、コインを投入すると、そのバーが上に上がり車が通過できるというのが一般的な方式だ。だが、現地では、そのバーは見当たらなかった。つまり、コインを投入しなくても車を進めることは可能と言うことになる。 電車にしても、博物館にしても、駐車場にしても、お金を支払わなくても利用が可能と言うことになってしまう。その夜に、以前現地にホームスティしていた頃のホスト・ファミリィと夕食を共にした。その時に、自分が奇異に感じた点を聞いてみた。私には想像も付かない答えが返ってきた。そして、それはとても納得の出来る説明でもあった。 「もちろん、誰だって無賃乗車は出来る、無料で博物館に入館も出来るし、駐車場も利用できるヨ。でもね、皆が皆、お金を払わなかったら、鉄道会社は倒産してしまう。他も同様だ。もし、鉄道会社が倒産してしまって電車が走らなくなってしまったら困るのは自分たちだ。結局は、自分たちに返ってくるこになるのだ。たとえば、コインを持たずに駐車場に入ることもある。そうした場合には、車を降りてから買い物をした時に出来た釣り銭で支払えば良いし、次に来た時に2回分のコインを投入すれば済むことだヨ。」 とあっさり述べたのだった。 帰国して思ったのは、上のような発想が日本人に定着するだろうかということだった。オーストラリア方式は、未だに日本には制度化されてはいない。やはり国民性の違いなのだろう。 |
もう一つ、オーストラリアの電車で奇異に感じた事がある。電車に乗っていると、中学生か高校生程度の若者が5、6人ある駅で乗車してきた。その中の二人は、自転車をそのまま車内に持ち込んでいた。我が国は見慣れない光景である。持ち込んだ人間も、それを目にしている車内の乗客も、誰もが違和感の無い表情をしている。つまり当たり前の光景なのだろう。 若者達は、電車が走り出すと、かなり空席が目立っていたにもかかわらず、床に直接座り込んで楽しそうに語り合っていた。この行為にも私は違和感を感じた。その後、我が国でも、路上や店頭に若者が座り込む光景を多く目にするようになった。その延長として、電車の中でも座り込む姿を目にするようになった。だが、オーストラリアの場合、我が国のケースとは異なる要因を持っていた。社会で懸命にに働く人々のために若者は座席に腰を下ろすな。そうしたいならば大人分の料金を支払えと車内に書いてあるというのだ。その文言を私は自分の目で確認はしていない。しかし、若者は、誰も空席を目指すことはしなかったのは確かだ。 |
もう一つだけ外国の事例を述べてみたい。今度はカナダの事例だ。 カナディアン・ロッキーを目指した時に、大陸横断鉄道に乗車した。快適な列車だった。この列車でも、驚くことを車掌から聞かされた。カナダでは、この列車の座席数以上の人数を乗車させると法律で罰せられるというのだ。私は、自分の耳を疑ってしまった。我が国の通勤ラッシュの混雑ぶりを思うと、とても想像の付かない言葉だったからである。 バンフの街で、貨物列車が停車していた。そのつながれた貨車の多さに驚いた。現地の人にどの程度の貨車が走るものなのかと聞いてみた。現地の人は、一度数えたことがあるけれど、150まで数えたところで止めてしまったから、もっと多く走るのだろうということだった。その長さを想像が付くだろうか? 東部地区のモントリオールで地下鉄に乗ったことがある。 モントリオール・ジャズ・フェスティヴァルを見学した時に利用したのだった。 カナダは、御案内のように寒い国だ。雪も多い。そこで、何処のご家庭でも、地下室を持っている。地上よりも面積を広く地下室にしている。風も入ること無く温かいというのだ。しかも、暖房効果も良いという。都市部のご家庭では、地下室に別の入り口を設けて貸事務所にしているようなケースも珍しくない。ローレンシャン高原近くにお住まいの知人宅の地下室を見学させていただいたことがある。その広さにはびっくりしたものだった。一般のご家庭でも普通に地下室を有効活用している程だから、都市部では、これまた、商業的に有効な施設がたくさん設置されている。たとえば、ショッピングモールやら遊園地等も地下にある。そうした施設のそのまた下を地下鉄が走るのだ。だから、地下鉄の駅までは、かなり地下深くまで降りなければならなかった。特に、冬場には、地上に出ずに様々な目的を果たすには、地下鉄が有効な移動手段ということになるのだ。アメリカの地下鉄には私用で乗りたいとはとても思えないが、カナダの地下鉄はそんな不安感もなく、穏やかであった。 |
また日本の鉄道の回想に戻るが、昔の車輌には、トイレが決まってついていた。今では、長距離の列車や私鉄の場合、特急電車でもないとトイレは付いていないと言うことになる。 電車の種類も増えて、1時間あたりの列車の本数も大分殖えた。各駅停車とか準急電車、快速電車、特急電車等と種類が分かれ、下車する駅に応じて、乗る電車を選んだり、途中で乗り換えたりする必要も出てきた。 高校生の頃には、目の前を高速で走り去る特急電車を見て、いつかはあんな電車に乗れるような生活を出来るがあるのだろうかと思って過ごしていたものだった。やがて、実際にその特急電車に乗って見ると、快適だったし、何よりも丁度1時間で都内まで行けるのだ。加えて、車内から電話をかけたりも出来る。私の場合、平素から携帯電話を持たない生活をしているものだから、これは有り難かった。もう滅多に都内に向かうような事は無くなってしまったが、時折、美術展などを観に行く時等は、専ら往きも帰りも特急電車を利用するようになってしまった。 |
鉄道に関してはまだまだたくさんの思い出があるが、長くなるので、この辺りでタイピング・ストップとしたい。毎回中途半端な終わり方で恐縮ながら、年寄りなものだから、すっかり疲れてしまったのです。 |
蛇足:まるで関係のないおまけ 今回は、今は亡きアメリカのジャズイストであるジミー・スミスのオルガンを聴きながらのタイピングだった。ジャズの世界でオルガンを楽器として定着させたのはやはり彼の奏功といえよう。彼の両手、両足を使ったこれまでに無い演奏スタイルは、50年代から60年代には、ブルーノートやヴァーブから次々とアルバムが出され、一躍脚光を浴びたものだった。ブルースやソウルなどのジャンルにも大きな影響をもたらしたオルガン奏者である。彼がこの夜を去ってから、早いもので、もう7年も経過してしまった。ピアノは鍵盤を叩いて音を出すが、オルガンは鍵盤に触れて音を出す。元々振り出しがジミーの場合ピアニストだっただけにその辺りのテクニックは十分に心得ており、オルガンの持ち味を十分に引き出してファンキーなジャズ・プレイでオーディアンスを魅了したものだた。今回の音源はCD。 |
H.25.06.08 |