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触覚について
 長いこと書物を開く度に苛立ちを覚えながら過ごしている。特に辞書類のような薄い紙を使用している書物の場合には、特に苛立ちが激しくなる。自分の開きたい頁が中々開けないのだ。原因は、指の表面がまるでプラスティックのように平滑になってしまっているからだ。15年ほど前に、市内の皮膚科の病院で診察して貰ったところ、皮膚表面の角質層が摩耗してしまっているからだという。医師からは、スプレー剤と塗り薬とを渡された。そして、昔、よく使った、海綿に水を含ませておき、お札等を数える時に使用する方式や指サックの使用などは辞めるようにと言われてしまった。一日に、何度も辞書類を開くものだから、つい医師から処方された薬品に手を伸ばすことなく書物を開こうとしてしまう。その都度苛立ちを覚える事になるのである。毎朝届く新聞にしても、自分の読みたい頁を中々開けず、困惑することしきりである。思えば、長いことこの指にもお世話になったのだから、それも仕方が無いかとも自分で自分に言い聞かせて宥めている毎日である。
 上述の指の感覚では、何も書物に限っている訳ではない。紙幣を数える場合にも同様である。額の大きい金額を現金で支払う時に、どうしても手早く数えることが出来ない。相手の目の前で、不器用な仕草で、一枚一枚重ねながら、それも、2枚重なっていないかを確認しながら数えると言うことになる。待っている相手の場合、私以上に苛立つことだろうと思うが、他に方法がないのだ。
 薄いポリ袋等を開けようとする時にも、中々開けずに困惑する。たとえば、それがスーパー等のお店の中だったりした場合には、大勢の人々がいる前で、自分の指を舐めるような仕草は出来ない。大いに困る。
 上に紙幣を数える時のことを述べたが、オーストラリアの紙幣では、大いに違和感を感じたものだった。オーストラリアの紙幣は、紙ではなく、プラスティック製なのだ。私自身の指の表面がつるつるとしている上に、紙幣そのものもつるつるとしている。したがって、それを手早く数枚数えるというのは、中々困難な作業であった。
 日常的に、色々と指先を使用する。たとえば、コピーをしようとして、用紙を取り出す時に、1枚ではなく、2枚取り出してしまった時には、やはり、違和感が伴う。そして、調べてみると、やはり、2枚重なっていたりする。これは、永年の経験が違和感を感じさせるのかも知れない。
 私は、職業生活の始まりは電気技術者だった。設計の仕事に入る前には、現場で色々と教えられた。先ず最初に学ぶことは、電線の種類だった。電線の種類には大きく分けて「単線」と「撚り線」の2種類がある。それぞれの太さに応じて最大許容電流の数値が決められるのである。したがって、用途に応じて電線を選ばなければならない。
 単線の場合は、1本の銅線の太さ、つまり直径で区別される。たとえば、2㎜、とか、3.2㎜というようにである。慣れない内は、目で見ても、この両者の識別が出来ない。だが、面白いことに、目ではなく、指の感触が両者を区別してくれるようになるのだった。銅線の場合、可塑性があるから、容易に折り曲げることが出来る。その時に感触で分かるということになるのだ。また、一定の長さ毎に、丸めて束になっているのだが、当然、両者は、重さが異なってくることになる。この「重さ」というものも、やはり、手から脳に情報が伝達されるのであって、他の感覚器官が成す技ではない。
 撚り線の場合には、単線と相違して、太さが直径ではなく、面積で表される。現場の人々は、「2スケ」等と呼んでいたが、正確には「2平方㎜」という事になる。しかも、複数の細い線が撚り合わさっており、その合計の面積が「2平方」ということになるのだ。まるで、電線と関係の無い職業生活を送っている方々は、2平方㎜という面積がどの程度の大きさなのか想像できるだろうか?実際に描くことは出来るだろうか?もちろん、円の面積が分かっているならば、大人ならば、直径は計算で引き出せるであろう。ただ、計算することなく、目で見ただけで、これは2平方㎜であり、こちらは3.5平方㎜であると区別が出来るだろうか。やはり、こうした区別も慣れてくると、目ではなく、手が判断してくれる事になるのだった。
 電気技術者が用いるゲージの中で「ギャップ・ゲージ」というものがある。これは、モーターのローター(回転子)とステイター(固定子)との間隔(隙間)がどの程度なのかを測定するゲージである。このゲージを両者の間に、スチール製の細長いゲージを差し込むのだ。そして、その隙間が何㎜であったかを計測するのだが、1㎜以下の場合、肉眼では分からない。この場合も、自分が手にした薄い鉄片の厚味を指の感覚が教えてくれる事になる。もちろん、ゲージには、その厚味が刻印されているのだが、先ず、自分で凡そどの程度の厚味かを見当をつけて、実際に刻印された数字を見ると、予想通りであったりしたものだった。これなども指から得た情報を脳に送り、その後に目で数値を確認した事になる。
 まだまだ手或いは皮膚から脳に情報を伝えてくれるものがある。「温度」や「湿度」もそうだと言えよう。たとえば、工場で、モーター等が必要以上の負荷がかかったりした場合には、本体の温度が異常に高くなる。したがって、点検時に、手で触れてみる。余計な話ではあるが、電気技術者は、そうした場合に、安全を期して、掌の部分をモーターに当てるのではなく、手の甲の側を当てて温度を見る。感電を予防するためである。温度を手で確かめて、異常に高温である場合には、今度は、工具のドライバーなどの先端部をモーターにあてて、グリップの部分を耳に当てて回転音に異常が無いかを確認する事になる。異音が聞こえれば、処置に取りかかることになる。とにかく、手に限らず皮膚から得る情報というものは、他の感覚器官からは得られない情報が脳に伝達されることになるのだ。
 大分前の話だが、学生に、これまで一度も海というものを見たことのない人に、海とはこういう所だということを正確に伝えるにはどうしたら良いか?と尋ねて見たことがある。色々と反応があったが、最終的には、大型スクリーンで動画を見せるのが確実だという結論に落ち着こうとした時に、一人の学生が、動画には、潮の香りがないので、それを正確には伝えられないと指摘した。そこで、私は、日本の海の場合には、確かに潮の香りが漂ってくるが、世界の海は必ずしもそうとは限らない、具体的には、ハワイの海などはそれがないと述べてみた。すると、別の学生が、海辺に立っていると、頰に風を受ける感覚を感じることが出来るが、動画では、風の動きを画面の中から目で見ることが出来るが、皮膚に感じる感触までは伝えられないのではなかろうかと指摘した。結局は、実際には、一度も海を見たことのない人を海辺に連れて行くことが一番正確に伝えられるのではないかという結論で落ち着いた。もちろん、その通りであるが、私は、その日の講義の中で、映像の持つ機能について、優れている点、欠けている点についてを伝えるのが本来の目的であった。
 現在も、それが続けて実施されているか、否かは不詳だが、現在の文部科学省が文部省と称していた頃、「全国野外活動指導者講習会」というものが毎年行われていた。開催地は毎年各都道府県が持ち回りで、参加者は、各都道府県から1~3名程度参加するのだった。最終日の前日に、一日がかりのレースが行われる。「速さ」と途中で出された課題に対する解答の「正答率」との合算により、順位が決定するのだった。そして、最終日の朝、宿泊施設の壁面に順位結果が張り出されるのだった。私も、何回か参加した経験がある。
 レースの種目は毎年変わりないが、途中で出される課題は、開催地に応じた内容となっている。
 ある年、面白い課題が出た。たとえば、木の枝や草に数字の書かれた荷札が付いており、数字毎に植物名を記述する。この場合は、葉姿や、葉序、葉の形状、有毛・無毛、その他を先ずは確認する。次に、指で触れてみて、平滑なのか、ざらつき感はあるか、茎は丸いか、四角いか等を確認する。場合によっては匂いも確かめることになる。この課題の場合には、植物を得意とする参加者と苦手な参加者とでは大きな差が出てくることになる。 次に、ある場所につくと、ここで野鳥の存在を確認し、その名前を記述せよ等という課題が出る。樹木の生い茂った山の中でもあり、とても目では確認出来ない。そこで、バード・コールなる一種の楽器(?)を用いることになる。木製で小さな円筒状の中に金属の軸が付いている。その金属片を回しながら、円筒状の木部を擦ると「キュキュッ!」とか「「チュル、チュル!」と言った音が出る。すると、鳥たちは、テリトリー意識が強いから、「ここは、私のテリトリーだ!」言わんばかりに、余計な鳥が入り込んだかと思い込んで鳴き声を発するのだ。姿は見なくても、それが何鳥なのかを知ることが出来る。この場合は、耳からの情報を頼りにする以外にない。
 次に、川の岸辺で、ここで川幅を目測せよという課題が出たりする。この場合には、ハンカチでも良いし、紙片でも良いから、とにかく45度の角度を作り、対岸の大木等を目標にして、岸辺を歩き、45度の位置になる場所で、歩数から川幅を割り出すことが出来る。
 と、まア数々の課題が出されるのだが、その中で、どうしても探り出すことの出来なかった課題が二つあった。その一つは、小さな谷川の水の流れの前に課題が提示してあり、「現在の水温は何度か?」と書かれてあった。これには参った!山中を歩き回り、汗ばんだ状態で、せせらぎの中に手を入れると、如何にも冷たく感じたのだった。その夜、参加者の誰もがあの課題ばかりは困惑したと告げていた。水温を測定できる温度計等誰一人持参してはいなかったからだ。結局誰もが実際の温度よりも大分低く感じてしまったことになる。
 もう一つは、山中のある場所で、径20㎝程度の丸い石があり、その横に課題が書かれていた。「この石の重さを記述せよ。」と。これにも降参だった。日頃から、重さに対する感覚を得る経験を積んでいなかったからだ。この課題の場合には、正答する参加者と正答できなかった参加者とが大きく分かれてしまった。
 この「水温」と「重量」の課題は予想外であり、他の課題が人間の様々な感覚器官を用いて解答を引き出したが、手から脳への情報がまるで来なかったということになる。出題者に脱帽したい思いであった。
 最後に懐かしい思い出話である。子どもの頃、両親が勤めから帰宅する前に、夕飯の準備をした。夏場は専らうどんを打った。というと聞こえが良いのだが、実際は、うどん粉に水を加えて、団子状にしてこねるのだ。ある固さになるまでこねる。それまでの経験で、この固さなら大丈夫という段回で、うどんを作る器械にいれ、先ずは薄く延ばし、次にそれを長い紐状になるように器械に入れるのだった。すると立派な手打ちうどんが仕上がるのだった。本格的な麺棒等は用いることはなかった。先日、あるホームセンターで、子どもの頃と同じ形式のうどん製造器を目にしたが、とても懐かしい思いがしたものだった。このうどんを打つ時に団子状にした塊の固さ加減はやはり、手から脳への重要な情報だった。
 もう一つ、以前、このコーナーでも記述したが、中学生の頃、篭編みのアルバイトをしたものだった。自宅の裏には竹林があり、マダケがたくさん生えていた。それを鉈で割って、更に細く棒状になった竹に鉈を入れて、薄い竹片を紐状にするのだった。そして、それを篭の仕上がり部分である縁の部分に巻いて行くのであったが、この場合にも、手の感触が大事だった。あまり薄いと強く引っ張ると切れてしまう。逆に厚味がありすぎると、今度は巻き付けた時に折れてしまうのだった。一々厚味をゲージで測定したりはしなかった。頼りは、手の感触だけである。
 これは私に限った事例なのかも知れないが、年を取るにつれ、出来るだけ軽い衣服を求めるようになってきてしまった。若い頃のように、デザインや価格等にこだわることなく、とにかく、軽いことと、機能性の2点だけを重視するようになってしまった。ある年、新聞の広告に出ていた通信販売のブルゾンを購入してみた。それはシルクのブルゾンだった。着用してみると、シンプルなデザインではあったが、とにかく、肌触りが良い。そして、とにかく軽いのだった。薄い生地なのに、信じられない程保温性に優れていた。軽いので、着ていることを忘れる程である。価格もシルクでありながら、化繊のブルゾンと同等の価格であり、特に高価という印象は無かった。それ以降、肌着や下着類からシャツ、セーターやマフラー等もシルクを買い求めるようになってしまった。どうやら、私が気に入った要素は、軽さや低価格という点ばかりでは無く、「肌触り」にもあったようである。初めて購入したのは10年以上も前のことであるが、毎年、その通販会社から購入している。ブルゾンの場合には、3シーズン愛用している。時には、長時間エアコンの効いた空間に過ご差ざるを得ない時にも着用してる。旅行に出る時も、バッグに詰めても少しもかさばらないからだ。
 それ以降というもの、化繊の衣類を着用すると、違和感を感じるようになってしまった。コットンやウール類の場合には、あまり違和感を感じる事も無く、何処か昔懐かしい思いもするので親しめる。
 そこで、衣服を購入する時に、先ず、手で触れて、その感触を確かめる。これは馴染めるなとか、これは馴染めないな等と肌の感触から衣服を選ぶようになってしまっている。
 
 私の場合には、触覚に関しては、あまりたくさんの経験は無い。しかし、世の中には、理屈ではなく、手の感触を頼りにして様々な創作活動をしたり、演奏をしたりしている人がたくさん存在する筈であることは予測は出来ても、自分に経験の無い事柄までは記述には及べ無いと言うことになる。
 蛇足:まるで関係のないおまけ                          
 今日は如何にも秋らしい爽やかで穏やかな日だった。この秋空に似合う楽器は何だろう?と考えた結果、リー・オスカーのハーモニカを聴くことにした。リー・オスカーは、1948年にデンマークのコペンハーゲンで生まれている。18歳の時に、ハーモニカをポケットに入れてアメリカに渡っている。彼は、頼るつてもなく、貧しい日々を送りながら、ハーモニカだけを持って、ストリート・ミュージシャンの生活からスタートしている。やがて、アメリカやカナダを放浪した後に、あの『朝日のあたる家』で大ヒットを放ったアニマルズのエリック・バードンが、グループを解散して後に出遭ったことが大きな転機となったと言っても過言ではないだろう。やがて、今では、ジャズ・ハーモニカの世界では知らない人はいないほどの大きな存在となっている。彼のハーモニカは、哀調があるから、やはりブルースがよく似合う。華やかさはないが、哀調ばかりではなく、幾分おどけた音色も聞かせてくれる。今回の音源は、外付けのハードディスクに収録されたMP3からで、東京公演の記念盤Lee Oskar Harmonicsである。やはり、今回はこの選択は正解だったと自分で自分に言ったものだった。
 H.25.09.11