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写真:撮るのも、撮られるのも不得手
 カメラを持ち歩いると決まって言われることがある。
 「カメラがご趣味なのですか?」と。
 そんな言葉をかけられると返答に困ってしまう。人生70年以上も超えた私は、自分がカメラは苦手であることを十分に承知しているからだ。だから、
 「えっ?はァ・・・。」
と、毎回曖昧な返事を返すしか無い。情けない話だ。
 とにかく、私の場合、同じカメラを使って、同じ対象物をとらえても、どうしてこのように差が出来てしまうのだろうと思えるほど、ひどい写真ばかりである。
 唐突な話題からで恐縮である、そして真偽の程も定かでは無いのだが、次のような話を物の本で読んだ記憶がある。
 ある若手の画家が、フランス印象派の代表とも言うべきモネの許を訪ねたという。その時にモネは概略次のようなことを彼に伝えたという。
 「良い絵を描くために必要なのは、良い絵の具や絵筆では無く、また、技術でもなく、しっかりと対象を捉える目が無ければいけない。」
 かく言うモネはひどい近眼だったということなのだが。とにかく、自分の目でとらえたものをどのように画像として表すかということは、技術なのだろうが、それ以前に、対象物をしっかりと見据えて、記憶することが肝要とモネは言ったというのである。
 その言葉に対して、私は、幾つか思い当たることがある。
 まず、現役時代に、ある地方TV局の番組を担当したことがある。ある教育番組の謂わばプロデューサーとしての役割と言うことになる。私の側から、番組のディレクターに、タイトル名と制作の目的とを伝えると、後日、ディレクターから、シナリオと呼べるほどではないにしても、簡単な絵コンテが提出されるのだった。映像の流れとコメントとがそこには記述されているのだが、台詞に相当する部分はしっかりと目を通すのだが、その上段に描かれている簡単なイラストを私はあまり興味深く見ることは無かった。つまり、文字ばかりを追って、画像部分には思いが及んでいなかったのだ。そして、毎回思うことは、果たしてこれで目的をしっかりと伝えられる番組になるのだろうかという疑問だった。しかし、私以外のTVクルーは、その絵コンテで、ディレクターがどのような番組を制作しようとしているかを理解できているようで、それぞれ自分の役割を果たしている。やがて、編集の段階になると、確かに立派な番組として既に出来上がっていることを知らされるのであった。そこでは、担当のディレクターは、「言語」ではなく、「映像」で自分の考えを表現していたのだった。上述の絵コンテは、自分の頭の中にある映像の流れを「絵」と「文字」で表現したことになる。だが、私の場合には、その「映像」そのものを「言語」つまり「文字」で表現してもらわないと、イメージが浮かんで来なかったのだ。「メディア・リテラシー」という言葉があるが、私は、どうやらそのメディア・リテラシーの中でも「映像リテラシー」に欠けているということを番組が仕上がった時点で思い知らされたものだった。
 上述の仕事の関係から、全国ビデオ作品コンクールの審査委員という恐れ多い仕事を仰せつかってしまったことがある。当方としては、自分には上述のように「映像リテラシー」がかけていることを充分に承知しているだけに固辞したのだったが、主催者の側としては、私の過去の肩書きを利用したかったらしく、押し切られてしまった。引き受けてはみたものの、実際の審査の際には、作品の流ればかりを追っていて、何故、その場面でそのような画像が用いられたかとか、どうしてそのような角度からカメラを向けたのかと言った点には思いが走らなかった。審査の集計の段階で、各審査委員の採点結果がボードに一覧表のような型式で書き出される。複数の審査項目のそれぞれに、どの審査委員はどのようなポイントを与えているかが一目瞭然となる。私の部分だけ、他の人と異なるポイントが示されていることが明白になる。結局は、自分の能力不足を分かっているだけに、ほんの数年で辞退させて貰った次第である。 
 上述のような次第で、写真は苦手である。だが、私には絵が描けない。よくよく思い出してみると、たくさんの知人達の中で、見事な写真を撮る人たちは、文字も美しく、絵も見事だ。私は、ひどい悪筆である。上述のモネの話ではないが、写真に限らず、文字も、絵も映像も、そのすべてがある一定の「形」を持っている。その形をしっかりと受け止めて、見る人にそれを正確に伝えることができるということは一つの能力である。私の場合、例えば、文字の場合、形ではなく、それに込められた意味にばかりこだわりを感じてしまっているようなのだ。だから、たとえば、写真を撮るにしても、自分一人で見るためならばまだしも、『GKZ植物事典』に掲載するとなると、目的は他人に当該植物がどのような植物であるかを伝える手段として用いることになるのだから、自分一人が納得しても何の用も足さないと言うことになる。しかも、昔のフィルム写真と違って、今のカメラはデジカメであるから、撮影直後に、写り具合をその場で確認出来る機能が備わっている。だが、何事にも詰めの甘い性格の持ち主である私の場合、その確認作業も行わない。シャッターを押したら、それで用事が済んだ気持ちになってしまうのだ。撮影場所が自宅周辺ならば、撮影状体が悪かった場合には、もう一度足を運ぶことも可能だが、遠方の地であったりもすると、それもままならないと言うことになる。植物の写真の場合、時期がずれてしまうと、また、来年まで待たなければならないと言うことにもなる。
 そのような次第で、手当たり次第に撮った写真を掲載しているものだから、忌憚のない意見を述べてくれる知人は私のH/Pを見て、
「相変わらず、ひどい写真を掲載したままだネ。」
と伝えてきたりもする。
 どうも、私の場合、写真そのもの、或いはカメラそのものというよりも主たる関心事は「植物」なのだ。だから、「やっとこの植物に出会えた!」という喜びが先に走ってしまい何の打算も加えることなく、ビュー・ファインダーの中に目的の植物が見えれば、迷うことなく瞬時にシャッターを押してしまうのだ。シャッターを押せば写真というものは撮れているはずだとという確信を持っている訳ではない。これまでに何度もがっかりした写真に出会っているから、それは承知している。だが、先ず最初に、対象を自分の目で捉えるという作業がない。また、その写真を用いて自分以外の人々に伝えるために用いるのだという主たる目的もすっかり脳裏から離れてしまっているのだ。
 上に、文字も絵も映像も形を持っていると述べた。自分で撮ってきた山野草が何という植物かを図鑑で調べようとしてぱらぱらと見開いていると、自分が探し求めている植物の姿・形・微妙な色合い等が脳裏から消えてしまっていることが多い。どうやら、私の場合、文字で書かれていないと記憶出来ない人間のようなのだ。しかし、どんなに精密に文字で表現しても、絵や写真以上には及ばないことは百も承知しているのだが・・・。
 ある年、国営ひたち海浜公園に出かけた事がある。丁度チューリップが見事だった。現地に着いてみると、立派な一眼レフに口径の太い立派なレンズをつけた人々がたくさん撮影をしており、しかもしっかりと三脚を据えて撮影に臨んでいる。その光景を目にして私は「入念」という言葉が脳裏をよぎったものだった。学んだことは、私の場合、その「入念さ」に欠けているということになる。私も人並みに三脚も持っている。それも何時の間にか複数集まってしまった。そればかりか一脚もあるのだ。だが、滅多に持ち出すことはない。チューリップを撮影するに三脚を用いる・・・それはカメラを使い込んでいる御仁達には至極当然のことなのだろうが、日頃から、肩にカメラのストラップをかけて、散歩の途中に目に留まった植物を撮影する私の場合、三脚など邪魔になるばかりなのだ。どうやら、「写真を撮る」ことを目的としている人々と、「植物観察」を目的としている私の場合とでは、自ずとその動機も異なれば、方法や手段もことなるということになるのだろうか?
 以前、福島県の三春の滝桜を見に行ったことがある。運良く丁度満開だった。気を良くして、今度は、岐阜県の根尾谷の淡墨桜を見学に出かけてみた。平年の平均から、丁度良い日を選んで出掛けて見たが、その年は、例年よりも2、3週間ほど開花が遅れていた。結局、葉もない、花も咲いてないまま鎮座している巨大な淡墨桜の写真を撮ってはきたものの、やはり消化不良の感を免れ得ない。もう一度出掛けるには、我が家からはあまりにも遠方である。植物の場合、開花情報等を綿密に確認する要があるものとしみじみ思った次第である。 
 植物の撮影ですら上述のような程度だから、立派なカメラを手にしても、風景等は滅多に撮ることは無い。植物で言えば、群落状況の写真等もその範疇に入る。対象物が多すぎると、私の目は困惑してしまって、一体どの方向のどの辺りにカメラを向けたら良いのかさっぱり分からなくなってしまうのだ。挙げ句の果てに、自分がその光景の何に感動しているのかすら分からなくなってしまうのだ。そんな次第だから、レンズの向きを変えては何度もシャッターを切る。とにかく大きな空間の一部分を切り取る、抜き出す、そんな作業は私には至難の業なのである。
 晩秋から、山野草が観察出来なくなる頃には、野鳥たちが里に下りてくる。それもとても身近な場所にやってきてくれる。やはり、カメラを向けたくなる。だが、生き物というのは、少しもじっとしていてくれない。そこで、こちらは、植物撮影以上に慌ててシャッターを押してしまう。早春の頃になると、私の散歩コースが沼の畔であるために、カワセミの撮影に向けて三脚を構えた人々がたくさん登場する。そして、じっと待ち続け、お目当てのカワセミが飛来してくると、誰もが、レリースにかけた親指に力を入れてシャッターを押している。私は思う。「あれはカワセミを撮っているのか、それともカワセミを主役に仕立てて、「瞬間」とか「刹那」を表現しているではなかろうか?」と。私の住む街には、ハクチョウが飛来する。あのハクチョウがテイクオフする瞬間や着水する瞬間は実に見事な光景だ。何度もカメラを向けるのだが、未だに納得出来る写真を撮れた試しはない。
 野鳥に限らず、昆虫や他の生き物も、とても撮影出来ない。
 生き物でその程度であるから、人間はなおのこと撮影出来ない。何しろ、人間の顔の売り物は表情だからだ。被写体となっている人物の人柄を彷彿させるような表情を捉えて写さないと、後にご本人もがっかりなさるだろう。だが、私の場合、ビューファインダーの中にその人物の姿や顔が見られれば、ただそれだけで安心してシャッターを押してしまうのだ。だから、相手に失望感やがっかりをあたえないためにも人間にカメラを向けないようにしている。
 写真を撮るのが苦手なことは上に述べたが、逆に撮られる側に回ることも大いに苦手である。以前勤務した職場では、歴代の代表者の写真が掲載される慣習があった。私も数カ所の職場に自分の顔写真を掲示して頂いている。あるとき、後輩の職員が私の写真が掲示してある職場の代表となったことがある。彼は、同じ職場の代表になった旨の葉書を寄せてきて、「毎日、怖そうなお顔に見下ろされながら職務に従事しております。」としたためてきた。確かに、私の顔写真は、今にも小言でも言い出しかねないような表情であることは想像が付く。私の場合、カメラを向けられると、口を真一文字に結んでカメラを凝視してしまうからなのだ。穏やかな笑みを含んだような表情でも残せれば良いのだが、無理に顔を作ろうとすると、薄笑いをしているようなまるで品のない表情になってしまうのだった。
 冒頭に、TV番組のプロデューサーを担当したと述べた。その関係で、リポーター役のアナウンサーをオーディションで決めるのだが、毎回感心させられたものだった。応募してくる女性達の全てが、与えられたコメントに応じた表情を見せながら演技をしていたからだ。彼女たちは、自分が、現在どのような表情をしているかがどうやら分かっているようだった。しかも、暗い話題や、哀しい話題の場合には、レンズよりも幾分目線を下げて、逆に明るい話題や嬉しい話題の場合には、レンズよりも目線を上げてと、目を見開いたり、伏し目がちとなったりと臨機応変に表情を変えてしまうのだった。いつも思うことなのだが、TVのコマーシャル等に登場するプロの役者さん達は、自分がどのような表情をカメラに向けているかが分かっているのだなと思えるのだ。
 そんな私が、プロデューサーとしての役割ではなく、別のプロデューサーの担当する番組に出演させられたことが何度かあった。つまり、何度か、私の顔がTVで放映されたことがあると言うことになる。自分でも番組制作を担当しているのだから、そのプロセスはよく分かっている。しかし、実際に、カメラの前に立たされて、AD(アシスタントディレクター)が、「ハイッ、Q!」などと大声で叫んで台本を丸めたものを振り下ろしたところで、私は、すっかり困惑をしてしまい話すタイミングが遅れてしまって何度もNGを出してしまったりもしたものだった。それに、日頃から、人々の表情を見ながら、話をする習慣がついているものだから、無味乾燥なカメラをじっと見つめても、自分の話が受け容れられているのか、その逆なのかを計り知ることが出来ず、困惑は深まるばかりであった。後日、オン・エアーされた番組を見ても、道に迷ったエトランジェのような表情で、自分の考えを述べている自分自身を見て、これでは、視聴者もさぞかしがっかりなさるだろうなとしみじみ思った次第である。だから、家族にも、自分の出た番組を知らせることすらなかった始末である。見て欲しくなかったからだ。今も、収録番組のビデオが局から届けられ保存しているが、二度と見たくないと、書斎の奥にしまい込まれたままである。
 ある年、某新聞社から出されている月刊誌が私を取材に来たことがある。それは我が家の書斎で行われたのだったが、取材記者との対応は容易であったが、随行したカメラマンがカメラを向けると、一瞬にして私の顔はこわばってしまうのを自分でも感じていた。それでもカメラマンは、取材記者と私との対話の間に邪魔にならない位置から何枚もの写真を撮影していた。やがて、雑誌が発売になった時に、本当にこれが自分の表情なのかと疑いたくなるような穏やかな笑みを浮かべている私の写真が掲載されていた。さすがはプロと脱帽の境地に至ったものである。
 ある年、カナダの小学校と中学校の女性教師が3人我が家に訪れたことがある。一度日本の温泉を体験してみたいというので、妻と一緒に温泉に向かった。入浴後、浴衣を着てはしゃぎながら食膳に向かう3人にカメラを向けたが、その中の一人の表情がどれも芳しくない。そこで、その旨を3人に伝えると、リーダー格の一人が次のような言葉を発したのには驚いたものだった。
 「○○!折角Mr.GKZが写真を撮ってくれるというのに、しっかりしなさいよ。」
というのでした。
 するとも一人の女性教師も言いました。
 「そうよ。自分の顔を作るのは自分の責任なのよ。」
と。
 これにはびっくりした。写真を撮る側ではなく、撮られる側に責任があるという発想は私にはなかったからだ。肝心の女性教師は、
 「済みませんでした。もう一度お願いします。」
といって満面に笑みを浮かべた表情をこちらに向けたのだった。
 そう言えば、欧米に出かけた際に、カメラを向けると、誰もが必ず、写真用の顔を向けてきたものだった。目だけを見ても、それが笑顔である事が分かる。だが、何よりも、綺麗な歯並びをを見せているのだ。つまり、口を開いている。欧米の知人達と一緒に現地で撮った写真を見ると、誰もが口を開いて歯を見せていた。そして、私一人だけが口を結んでいて、何だか不機嫌そうにも見えてくるのだった。 
 とにもかくにも、写真は、撮るのも、撮られるのも、私は不得手なのだ。これから、カメラの撮影技術を学ぼうというには、もう遅すぎよう。また、今から、鏡を見ながら、自分で自分の表情を仕上げるのも遅すぎるように思う。時折、カメラを向けられると、欧米の知人達のことを思い出して口を開いて、歯を出した写真を撮ってもらうこともある。だが、仕上がりを見ると、やはり、どう見ても作り笑いをしているような、とにかく不自然な表情である。写真を撮る、撮られる、どちらもしっかりとしたトレーニングが必要なのだなと思った次第である。果たして、やがて、私が死んだら、葬儀会場にはどのような写真が掲示されるのだろうか?
 蛇足:まるで関係のないおまけ                          
 今回は、昔のピアニストの演奏を聴きながらタイピングした。一人目はワルター・ギーゼキングで、曲目はグリーグの「ピアノ協奏曲イ短調 作品16」で、1944年の収録である。オーケストラはロベルト・ヘーガー指揮するベルリンフィルである。もう一人は、アルフレッド・コルトーだ。曲目はシューマンの「ピアノ協奏曲イ短調 作品54」である。オーケストラは、ランドン・ドナルド指揮するロンドン・フィルである。収録は1934年である。どちらも音源はCDである。半世紀以上も前の演奏をCDで聴けるとは何と有り難いことか。どちらの演奏も、今も生彩を失うことは少しも無い。折角なので、ヘッドフォンではなく、スピーカーからの音で聴いてみた。全部で5台のスピーカーで、音量もあまり控えずに流して聴いてみた。すっかり満足の気分である。それにしても、ギーゼキングの場合、ピアニストであることは、誰もが知っているが、彼が作曲家だったことはあまり知られていないようだ。もっと異色なのは、彼はアマチュアではあれ、立派な蝶類研究者でもあったということもあまり知られていないようである。
 H.24.10.13