←トップ頁へ

マルチリンガルな人々
 日本で生まれ、日本で生活している場合には、殊更に外国語を必要とすることはなさそうである。ただし、日本語の中にも、方言というものがあり、理解に苦しむことがあると言える。しかし、教育の普及した現代社会では、或いは、教育ばかりではなく、マスコミの影響というものも大きく影響しているとも言えるのだが、とにかく国語の教科書に書かれているような言葉遣いをしていれば、相手に自分の意志は伝えられるし、また、逆に相手の言わんとしている事柄をくみ取ることも可能である。
 だが、これが、外国語となると話は別である。先ず、平素から、外国語に接していないと、どうしても相手の言葉を聞き取ることが出来ない。外国に行って、しみじみと戸惑うのはそのことである。
 ところが、此の世には、複数の言語を巧みに使い分けて生きている人々も多い。しかも、努力して、複数の言語を遣い分けているのではなく、極めて自然にそうしている人々がいるのである。
 知人の一人のJ氏は、かつてはクルド系トルコ人であったが、現在は、オーストラリアに永住している。一家は、トルコ在住の頃には、トルコ人から何かと迫害を受けたのでオーストラリアに移住したのだそうだ。J氏は次のような話をしてくれた。ご両親は全く英語が話せないという。そこでご夫婦で会話を交わす時には、クルド語で語り合うのだという。しかし、J氏を含め、トルコの学校で育った子ども達は、クルド語よりもトルコ語の方が理解しやすいという。そこで、家族が揃った時に家庭内での会話はトルコ語になるのだという。しかし、ご両親が居ない間での兄弟姉妹間の会話では英語が用いられるという。別段努力してそうしているというのでは無く、T.P.O.に応じて自然にそうなってしまうのだという。お互いの意志を通わせ合うためには、そうしなければならないのだという。一つの家庭の中でクルド語、トルコ語、英語が日常的に交わされていることになる。
 J氏に、英語を少しも理解しないご両親は、オーストラリアでの生活は大変だろうと尋ねてみたが、特に困惑する様子も見せずに普通に生活をしている旨の返事が返って来たものだった。
 もう一人のオーストラリア人K氏の事例をご披露しよう。
 中国系のマレーシア人だったが、現在は、上述のJ氏同様にオーストラリアに在住している。K氏の場合、日本の大学を卒業しておられる。しかも奥様は日本人である。職業は、現在、オーストラリアの大学で日本語を教えている。したがって、日本語にはとにかく詳しい御仁である。ある日、現地での彼の授業が行われている教室で、彼が「十回」と板書し、それに<じっかい>と読み仮名をつけた場面があった。私は、奇異感を持って、授業終了後に、彼に、「十回」は<じゅっかい>ではなかろうかと指摘してみた。すると、かれはニコリと笑顔を見せて、我が国の文化庁から出された「常用漢字表」を開いて見せた。そこには、「十回(じっかい)」とあったのだ。
 「ご覧のように、十はジッと読みますが、ジュツという読みはありません。」
というのである。これには恐れ入った。日本人である私が、外国人であるK氏に見事に間違いを指摘されてしまったのだった。帰国して、周囲の人々に「十回」に読み仮名を書いて貰うと、大半が<じゅっかいと>と表記していた。(ちなみに、最新の常用漢字表の備考欄には<ジュッとも>と添え書きがある。)私は、十(じゅう)の音便であるから、当然、<ジュッカイ>であろうと思って過ごして来た。オーストラリアにゆかなければ、そして、K氏と巡り会わなければ、未だに「十回(ジュッカイ)」で過ごし続けてきたものと思われるのだ。
 ところで、そのK氏が、我が家にホームスティしたことがある。ある日、彼が、聞き慣れない言語で電話をしていた。電話の済んだ時に、私は、先刻の電話は何語であったのかを尋ねてみた。すると、中国語であるという。私は、大学時代に中国語を学んだことがある旨伝え、それでいながら、少しも理解できなかった旨伝えると、中国語とは言っても広東語であるという。そして、自分は、生まれはマレーシアであり、現在、家族や兄弟もマレーシアに住んでいるが祖先は中国人であるというような内容を綺麗な発音の北京語で語ってくれた。ここでまたしてもK氏を見直さざるを得なかった。K氏とは、その後も電話や手紙のやりとりをしたものだったが、とにかく達筆であった。私よりも幾分10歳ほど年下でもあったので、彼は、丁寧な敬語を用いた文章でもあり、毎度、こちらが日本語を学ばせていただいたようなものだった。
 K氏の場合は、中国語(広東語・北京語)、マレーシア語、日本語、英語を相手に応じて遣い分けているのだった。
 現在、アメリカの大学でイタリア文学を教えている知人がいる。彼女(以下H女史という。)の生まれはベトナムである。ベトナム戦争当時、戦争を逃れて、ボート・ピープルとして隣国のマレーシアに渡り、高校生の頃にイタリアに渡り、その後、カナダに移住している。今も、彼女のご両親並びにご家族はカナダで生活をしておられる。話題が逸れてしまって恐縮であるが、カナダを訪れた際に、彼女がホテルまで逢いに来てくれた。そして、家族が是非逢いたいと言っているので、二日後の昼食を共に出来ないかと申し出た。その時には、私達夫婦だけでなく、妹夫婦も同行していたのだったが、宜しければご一緒願えないかという。H女史と妻とは以前から顔見知りだったし、彼女が日本に滞在していた頃、一緒に温泉旅行などにも行っているので、その場で快諾した。妹夫婦も、知り合いが増えるのは嬉しいから是非一緒に行きたいとのことだった。場所は、カナダのバンクーバーだった。当日、H女史とそのご両親とがホテルまで車で迎えに来てくれた。多分、今もそうなのだろうと思うが、当時、バンクーバー市内は、肌の色も、髪の色も、目の色も、とにかく日本人と同様な人々で溢れていた。香港が中国に返還される際に、それを嫌った香港に生活する中国人が随分カナダに移住をしたからということだった。H女史とそのご家族は、私達一行にも違和感が無いようにと、ある中華レストランのワン・フロアーを予約してくれていた。だが、それにしても、ワン・フロアーとは随分広すぎると思っていたら、次々と彼女の身内の方々がそれぞれ家族ぐるみで押し寄せてきた。たちまちそのフロアの空席は無くなってしまった。彼女は、日本に3年間ほど滞在し、帰国する頃には、日常生活には不自由ないほどの日本語は話せるようになっていた。その彼女が、次々と到着する身内を私達に紹介し、自分とどのような関係にあるかをも説明してくれたのだった。
 我が国で、5月の五月晴れのような日には、「今日は良い日ですね。」等と交わすことがあるが、それを、ご存じと思うが、英語では、”It's a loverly day!"と表現することがある。彼女が、日本に滞在したときに、彼女なりに日本語にそれを直訳したらしく、「今日は、可愛い日ですね。」と言った時には、思わず苦笑したものだった。しかし、彼女が上述の通り、「家族が一緒に食事をしたいと言っている。」と申し出た時には、私は、「家族」、つまりfamilyの意味を取り違えていたようだ。私の頭の中では、「家族」と言えば、精々5、6人程度と想定していたが、H女史の発したfamilyとは、どうやら「一族郎党」であったらしい。
 さて、再び、話題をマルチリンガルに戻そう。上述の中華レストランに集まったH女史のFamilyの話す言語だったが、様々だった。彼女は、全員に、私達に話しかけるときには、英語で話すようにと伝えたが、集まった人々同士が会話を交わす時には、それぞれ思い思いの言語を遣っていた。元々カナダという国は、英語とフランス語とが公用語に指定されている。だから、駅の列車の発着時刻表なども両言語で表記されている。(因みに、下段にモントリオール駅構内の列車発着表を掲載してみたので参照されたい。)だが、フランス語が一般的に用いられているのは、たとえばケベック・シティやモントリオール等の東部地区である。今、話題にしてる舞台は、等しくカナダとはいえ、バンクーバーであり、太平洋に面した西海岸地域なのである。そこで、ふと思い起こしたのは、ベトナムの歴史だった。一時期フランスの支配下にあり、その後は、アメリカの支配下にという歴史を持っている。だから、ベトナムの人々が、フランス語や英語を話しても不思議はないようだ。その点では、カナダに移住したH女史のfamilyは言語面ではさほどの苦労はしないで済んだのでは無かろうかと思った。
 彼女は、多民族国家である、アメリカの大学で教壇に立っているが、ベトナム語、マレーシア語、イタリア語、フランス語、英語、そして日本語を理解できるので、様々な母国語を持つ学生にも対応が可能なのでは無かろうか。
モントリオール駅構内で↑
 上には、カナダ西部地区での話題だったが、逆に、東部に地区の事例を幾つか挙げてみたい。
 先ず、モントリオールに在住するB氏家族の場合は次のようである。B氏は、父親がイタリア人で、母親がギリシャ人である。T夫人の場合は、父親がフランス人で、母親がエジプト人である。そのお二人の間に生まれたのが私達家族の知人であるJ女史である。モントリオールでは、英語系の大学とフランス語系の大学とがあり、彼女はフランス語系の大学を卒業している。T氏は、イタリアで技術者として過ごしていた。奥様は結婚前はエジプトで学校の先生をしていたという。そもそもこのお二人が出会った時の共通語は何語だったのだろうかと思ってしまう。そしてそのお二人から生まれたJ女史の場合、何語で育てられたのだろうと思ってしまう。
 もう一人、等しくモントリオールに在住するL女史の場合、カナダの大学に勤務しているが、母国はポーランドである。現在は、カナダに移住してカナダ国民として過ごしている。彼女は、休日には、カナダに滞在している日本人家族に英語を教えたりもしているのだが、英仏語に加えて母国語のポーランド語を話すことになる。
 逆の事例も挙げてみたい。私がホームスティをしていた時のホストであったT氏はオーストラリア西部の都市パースの高校の先生だった。彼は、面白いことを私に告げたことがある。
 「私は、3つの言語を話せるんだ!」と。
 その内容を聞いてみて苦笑せざるを得なかった。彼の可能な言語とは、英語、米語そしてオーストラリア語であるというのである。日本人からすれば、どれも英語ではないかということになるが、これが実際には微妙に違うのだ。基本的には、オーストラリアは、米語よりも英語に忠実と言えよう。具体的な事例を挙げてみれば、ガソリンは米語ではgasolineであるが、英語ではpetrolである。オーストラリアでは、後者を用いる。だが、オーストラリアの場合、独特な発音形式があるのだ。英米語で<ei>と発音される部分が、スペルはそのままなのだが、<ai>と発音されるのだ。たとえば、gameの場合は<ガイム>となる。dayは<ダイ>となる。たとえば、「今日は休日なので、○○に行ってきます。」等というと、彼らは「Have a good day!」という。「楽しんできてネ。」というような意味合いだが、耳に聞こえてくるのは、「ハヴァ グッ ダイ!」となる。何だか、「良い死に方をしろヨ!」とでも言われているようにも聞こえてしまうのだ。ホストのT氏はラグビーの選手であるので、海外によく出かける。彼の言わんとするところは、イギリスに行けば英語を、アメリカでは米語を、そしてオーストラリアではオーストラリア語を話すことができると言うことのようである。
 もう一つは、ハワイのホノルルに住むN氏の事例だ。彼のお母さん(Sさん)はハワイ大学に勤務している。N氏のご両親は、どちらも日系ハワイ人である。N氏は、日系6世ということである。N氏のお父さんは日本語を話せないという。お母さんは、日本語での読み書きが十分出来る。そのお二人の間に生まれたN氏は日本語を理解できなかった。ということは、N氏の場合、家庭内では英語で育ったと推測できる。
 上には、たくさんの言語を理解する人々の事例を挙げたが、日常的に多言語を用いなければならない人々は、そうしなければ自分の意志を相手に理解して貰えないからという必然的な理由があったればこそなのではないかと言えよう。また、異なる言語環境の中で過ごしていれば否応なくその土地での言語に浸ってしまうのではなかろうかとおもうのだ。卑近な事例で恐縮だが、オーストラリアで過ごしていたときに、自分の夢が英語だったことに、思わずびっくりしたものだった。英語で夢をみなければならない必然性などない。英語圏で生活をしていたために自然にそうなってしまったということにもなろう。
 外国語を学ぶ上で、上のような必然性のない環境の中で過ごしている場合には、やはり、努力と積み重ねと繰り返しとが要求される。そのためには膨大な時間を要することになる。しかし、せっかくそれなりに外国語を読み書きできるようになったとしても、日常的に目にし、耳にしていないと、それが急減するのは見事に早い。私の場合、中国語は、文字を見れば、何とか理解は出来るが、それを読めと言われたら、もう諦める以外に無い。中国語には、「四声」といって、同じ母音でも4種類の発音の仕方があるのだ。それを間違えるとまるで異なった意味となってしまう。現在の生活の中で、中国を見聞きする環境に無いだけに、聞いても分からない、言葉を発することもできないということになる。それでいながら、漢字表記されていれば理解できるということになる。
 蛇足:まるで関係のないおまけ                          
 今回は、久しぶりに、アントニオ・カルロス・ジョビンを聞きながらタイピングした。所謂ボサノヴァの創出者である。彼が編み出したボサノヴァは、色々なジャンルに大きく影響している。特に、ジャズの世界では様々なジャズイスト達が自分の演奏に用いている。しかし、やはり、ギターを爪弾きながら、囁くように歌うボサノヴァが良い。彼は1994年の暮れにあの世へと旅立ってしまったが、彼の死後、リオ・デ・ジャネイロのガレオン国際空港は「アントニオ・カルロスジョビン空港」と名前を変えている。そのきっかけともなった「ジェット機のサンバ」は、彼を偲ぶにはもってこいの曲では無かろうか。
 H.23.09.01