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筆記用具あれこれ
 私は、終戦直後に小学校に入学した。敗戦後の日本はとにかく貧しく、物資が何もかも不足していた時代だった。入学前に、文字の学習をさせられた記憶がある。筆記用具は、今では目にすることも無くなってしまった蝋石というものだった。当時、紙は極端に不足していて、紙の上でなくても文字を書いたり消したり出来るものはないかと思案した末に、両親が選んだのは蝋石だった。紙の代わりになったのはスレート版だった。そして、消しゴムの代わりに布が与えられた。スレート版の上に書いて、布でそれを消すという方法だった。黒地に白い文字が浮かび上がることになる。蝋石は、書く度に先端を巧く回すと徐々に先端が尖って来て鉛筆の先のようになるのだった。今の世であれば、コンクリートの上に書くことも可能だろう。しかし田舎に住んでいたので、当時は、右も左も、ご近所は庭と畑ばかりだったのだ。蝋石は、その当時、子ども達の集まる駄菓子屋さんに行くと販売されていた。学校に入学して、先生がチョーク(当時は「白墨」と云ったものだ)で板書しているのを見た時に、入学前に自分が行った方法と同様なことを大人がやっているのでとても親しめたものだった。だが、恐る恐る白墨なるものを手にしてみると、蝋石とは比較にならない程の軽さだった。また、とても軟らかい感じを受けたものだった。私のスレート版と比較すると、学校の黒板はとにかく大きいと圧倒されたものだった。当時の黒板は文字通りの黒板だった。つまり、黒色だったのだ。今では、学校で用いられている黒板は、名前こそ「黒板」とは云いながら実際は緑色をしている。それでも、未だに「緑板」という言葉を目にしたこともなければ、耳にしたこともない。そして、中学校の英語の時間には、黒板はBlack boadと学んだものだった。
 それはそれとして、入学前に使用していた蝋石で黒板に文字を書いてみたくなり、ポケットに入れて登校したことがある。休み時間に、早速黒板に向かい試してみた。当時の黒板は、これまた文字通り「黒い板」だったのだ。近寄ってよく見ると、何枚もの板が横に貼り付けてあるのが分かった。もっと近づいて見ると、木目模様が浮き出ていた。その木製の黒板の上に蝋石で文字を書いてみると、白墨のようにくっきりと文字が浮かび上がることはなかった。自宅のスレート版の場合には、くっきりと文字が見えるのに、どうも妙だ。そこで、今度は、力を込めて書いてみた。すると文字の濃さはさほど変化はなかったが、黒板が文字の跡を残して凹んでしまったのには、子どもながらに、これはしくじったと思ったものだった。慌てて黒板消しで消してみたが、巧く消えてはくれなかった。そこで、濡れ雑巾で消してみたが、効果はあまり変わらなかった。それより何より、文字の部分が凹んでしまった点については修復のしようがなかった。次の時間に、先生がやってくると、早速、その凹んだ部分が先生の目に留まってしまった。放課後に、二度と蝋石で黒板に文字を書かないようにと諭されてしまった。子どもながらに、蝋石は万能ではなく、相性があるのだなということを学んだ次第であった。
 やがて、数年後に、小学校の遠足で、電車に乗って、埼玉県の長瀞に出かけたことがあった。駅前の土産物屋さんの店頭に大小様々な蝋石が売られているのを目にしてとても懐かしく思ったものだった。
 大人になってから、すっかり蝋石のことなど忘れてしまっていたが、ある時、鉄工所を訪ねた際に、鉄板の上に線や数字が書かれてあるのを見た時に、これは間違いなく蝋石で書かれたものだと確信した。そして、蝋石が未だに実用化されていることに、妙な安堵感を覚えたものだった。
 とにかく、私が初めて手にした筆記用具と云えば蝋石だったのだ。
 小学校に入学すると、両親が鉛筆を買ってくれた。当時、筆記用具には次のような物が必要不可欠であった。鉛筆、消しゴム、そして鉛筆を削るためのナイフ、鉛筆に被せるキャップ、そして下敷きだった。また、当然のことだが、それらを入れる容器、所謂「筆入れ」も必要とされた。当時は、現在のようにプラスティック製品が主流ではなかった。唯一のプラスティック製品と云えば、下敷きに使用したセルロイドだけだった。その後、筆入れもセルロイド製品が出回るようになったが、何と申しても、セルロイドには折れやすい、そして火に弱いという欠点があった。そこで、鉛筆のキャップは金属製だった。筆入れ(筆は入っていなかったのに、何故か筆入れと呼ばれた)は木製が多かった。
 当時の筆記用具関連で特筆に値する存在は、何と申しても「肥後之守」と呼ばれたナイフであろう。当時はナイフ等とは云わず「小刀」と呼んでいた。もちろん、鉛筆を削るためのものであったが、当時の子ども達は、鉛筆を削ること以外にもこの小刀を器用に使って様々に活用したものだった。肥後之守は、折りたたみ式のナイフで、使用しない時には、柄の部分に刃の部分を収納出来きるようになっていた。今風に表現すれば、簡易式小型ジャック・ナイフとでも申せようか。今日の学校では、刃物を登校時に持参するのは御法度とされているが、当時は、学習するにも、遊びにも、子ども達にとっては生活必需品だったのである。しかも、男の子も、女の子も、、小刀を巧みに使用して鉛筆を削ったものだった。その鉛筆の削り方にも性格が良く表れていた。綺麗な円錐形に近いほどに削り挙げて行く子ども、逆に、典型的な多角錐形的な削り方をする子ども、名前の点けようのないような荒削りをするものと様々だった。学年が進行すると、誰かが、鉛筆の両端を削るようになった。これは便利だった。鉛筆の芯が折れてしまった時に、上下を代えて持ち直せば、そのまま使用できるからだ。特にテストの時などには、悠長に鉛筆を削って楽しんでもいられないので、この方式が流行したものだった。やがて、赤と青が半分ずつの鉛筆を使うようになると、小学校時代のように、両端から削ることを少しも不思議に思わなくなった。鉛筆が短くなると、持てなくなるし、削りにくくもなった。そんな時のために、ホルダーとキャップを兼ねた文房具が登場した。これを使えば、長さがほんの2〜3p程度の鉛筆でも実用が可能となったのである。すると、今度は、誰が、一番短い鉛筆を使っているかと云うことが子ども達の間で競われるようになった。器用な子どもは、ほんの1p程度にまでなった鉛筆を上手に削っていたものだった。傍から見ると、小さな独楽のようにも見えたものだった。
 鉛筆に、HBと書かれていることを知ったのは、恐らく中学校に入ってからのことのように思う。誰かが、Hとか、2Hという鉛筆を使い始め、小さな字でノートを取り出してからのことだった。Hや2Hの鉛筆の方が芯が硬いということで、皆が使い始めたものだった。私は、生来の悪筆のため、文字を書くという作業そのものが得意ではなかったので、皆の真似をして2Hなる鉛筆を使用しようとは思わなかったが、鉛筆には色々と種類があるのだなということをその後に知ったのだった。更に、中学校では、美術の時間に2Bや4B等という鉛筆を使用するようになった。
 大人になってから、電気技術者の端くれとして企業に勤務した時代に、新設プラントの設計等を手がける際に、製図なる作業を行うようになった。電気工学を学んでいた頃に、製図という技法を学んだが、その頃は、ケント紙の上に烏口(からすぐち)と呼ばれた製図用の特殊なペンで書くという手法だったが、私が、企業に勤務する頃には、既に、トレーシング・ペーパーの上に鉛筆で製図する手法へと変化していた。青写真を焼くのではなく、コピー・マシーンが登場したからでもあった。その作業を行うにあたって、芯を細く削っても折れにくい4H以上の鉛筆が用いられるようになった。その頃、そうした製図技法の変化に対応するかのように、三菱鉛筆から6B〜9Hまでの鉛筆が生産発売されたのだった。商品名は「三菱 Uni」だった。その後、トンボ鉛筆でも同様の鉛筆を「Tombo Mono」の商品名で発売している。どちらも、当時は(或いは今もそうなのかもしれないが)鉛筆界のブランド品であった。しかも、、プラスティック製の鉛筆ケースに消しゴムまでが入っていて、鉛筆が1ダース入ったセットが販売され、製図を行っていた人々は誰もがその鉛筆ケース、つまり筆入れを使用していたものだった。
 逆に、製図以外の一般の筆記には、私は、ほとんどBの鉛筆を使用するようになっていた。芯が軟らかいので、指に力を入れなくても容易に筆記が可能だったからだ。
 中学生の頃だったろうか、あまり記憶が定かではないのだが、ボールペンが登場している。しかし、今日使用しているボールペンとは幾分異なる存在である。インクが違うのだ。うっかりすると、インクが漏れてべっとりとしてしまうのだ。そうした時には、文房具屋さんに行くと、もちろん有料ではあるが、インクを補給してくれたのだった。初めてボールペンなる文明の利器を手に入れて、生意気にも日記などをつけはじめた。お正月から初めて3月頃に、1月のページを開くと、驚いたことに、インクが紙の裏面にまで浸透してしまい、両面に筆記していたものだから、両面から浸透を繰り返し、中に何が書かれているかが、まるで判別出来ない事態と化していた。これでは記録の意味がないということで、そのボールペンからは誰もが離れていってしまった。しかも、その当時のボールペンは、今日のそれよりも遙かに太字だった記憶がある。いずれにしても、インクに問題があったようで、やがて、文房具屋さんにも見られなくなってしまった。
 その後、再び、ボールペンが登場するようになった時に、私達の世代は、上述のようにボールペンに対しては厭な経験をしてきているだけに、好んで手を出そうとはしなかったものだった。今日では、何も彼もがボールペンでの筆記が主流になっているが、その当時には、正式な文書は万年筆で記述するべきであるといった不文律が存在したのであった。つまり、ボールペンでの筆記は亜流とみなされ、メモ書き等専用というイメージでしかなかった。しかし、何時の間にか、ボールペンは主流へと飛躍してしまっている。一つには、複写の関係もあろう。万年筆では複写は無理である。加えて、万年筆のようにインクの補給が不要ということにつきよう。一説には、ボールペンの普及には、戦争が大きく影響しているという。戦地にまでインクを持ち歩かなくても済むという理由からという。また、万年筆用のインクをこぼしたり、万年筆が不調のために大事な書類を思いもかけず汚してしまった等という経験をお持ちの御仁も多かろうと推測されるが、そうしたアクシデントからもボールペンは解放してくれたのだった。
 今では、無意識にボールペンを使用しているが、この筆記用具は不思議な特徴がたくさんあるのだ。たとえば、1本100円程度のものでも、数千円もするようなものでも、書き心地が同じなのだ。これは万年筆とは大きな違いである。メーカーやペン先の形状、使用されている金の純度等によって、万年筆は書き心地が異なったし、記述された文字そのものも微妙な異なりが表れたものだった。高価なボールペンの場合、デザインや握り心地が異なるだけのことでしかないようである。
 また、何よりも、ボールペンの利点は、インク切れがないということだろう。これまで、インクが無くなるまでボールペンを使い切った経験はそれほどない。1本のボールペンで相当長い期間使用可能である。これは万年筆がどんなに頑張ってもかなわない利点であろう。万年筆の場合、こまめにインクの補給が必要とされるからだ。インクの無い場所でインクが切れてしまった経験をお持ちの御仁も多いのではなかろうか。
 更に、上にも述べたが、かなりの筆圧を加えることができるために、複数枚の複写伝票等の記述には最適なのである。この点でも、万年筆には不可能な機能をボールペンが持つということになろう。万年筆のペン先に無理な筆圧を加えるとペン先が割れてしまうのだ。
 最後に、万年筆用のインクで書類や、書物、衣服等を汚してしまったという経験を持つ人は多いと思われるが、ボールペンのインクで必要外に汚れを作ってしまったという経験をあまり聴くことはない。つまり、ボールペンは、一度購入すれば、インクが無くなるまで手入れを要することがないということだろう。
 上には、鉛筆からボールペンに話が飛んでしまったが、実際的には、その両者の間に万年筆及びペンが存した。
 今は亡き私の父は、戦前から愛用した万年筆をとても大切にしていた。実は、私は、それを壊してしまったのだった。このときばかりは、大変なことをしてしまったと自分の不注意を恥じ入ったものだった。もし、私が壊さなかったら、恐らく父は一生その万年筆を愛用したことだろうと思う。戦前から父が愛用した万年筆は黒いパイロット社製だった。やはり、万年筆は黒が格調高いと思ってしまうのは、父の万年筆の記憶が残っているからだろう。父の万年筆は、ポンプ式であって、たとえは悪いが子どもの玩具の水鉄砲のような形式であった。万年筆をインク瓶の中に入れて、ホルダーの末端の部分(つまり、ペンとは反対側)を手前に引くとインクがタンク内に吸い上げられる方式であった。万年筆は、長いことこの方式のものが続いたものだった。その後、ゴム製のスポイトがタンクの部分に取り付けられるようになった。ポンプ式に比べて随分楽になったが、インク切れという煩わしさから解放されることはなかった。次に登場したのは、カートリッジ・タイプだった。この方式が登場することによって、スペア・インクさえ持参すればインク切れが生じても困ることはなくなったように思う。
 万年筆には、いくつかの思い出がある。先ずは、高校生になった時に、両親が買ってくれたものだった。とても嬉しかった。自分自身が何やら大人に近づいたような感じを持ったものだった。この万年筆は、今も大切に保存されている。
 次に、学生時代にある懸賞論文に応募したところ、入選し、副賞にパーカーの万年筆を頂戴したことがある。パーカーと云えば、衣服に挿すと、留め金の部分が金色の矢の形をした部分が見える。当時は、ワイシャツの胸のポケットに万年筆を挿したりしたものだったが、他人のそれを見ても一目でそれがパーカーの万年筆であることが分かったものだった。ただ、高級品だったので、学生の身分ではなかなか買える代物ではなかった。謂わば憧れの万年筆であった。その憧れの万年筆が副賞とあって、とても喜んだものだった。早速、誇らしげにワイシャツの胸ポケットに挿して大学に出かけたものだった。満員の電車を降りて、大学に到着した時には、何と悲しいことにその万年筆は私の胸には無かった。あまり腹立たしいかったので、当時の運輸大臣(現在では国交大臣に相当)に手紙を書いた。あの国鉄(現在のJR.)の混みようは何とかならないかと書いて送ったのだった。そして、件の万年筆がたった一日で無くなってしまったことも書き添えたのだった。すると驚いたことに、運輸大臣からご返事を頂戴したのだ。そして、別便で万年筆を送ったので受領して欲しいと書き添えてあったのだ。何だか、自分の万年筆の管理が悪かったのを棚に上げて、国鉄の混雑が原因であるかのような文面を、腹立ち紛れに運輸大臣に八つ当たりしまったようで後味の悪い結果となってしまったが、同じパーカーの万年筆が届いた時にはやはりとても嬉しかった。因みに、その後、その運輸大臣は我が国の総理大臣になっている。現在もご存命であることを申し添えたい。
 もう一つ、万年筆の思い出がある。学生時代に、アルバイト代金が入った時点で、小説家がよく用いるというホルダーの部分が直径3p以上あるとても太い万年筆を購入したことがある。当時も卒業後も、何かと原稿用紙に向かって筆記していたものだが、何だが文筆家にでもなったかのような気分を楽しんだものだった。万年筆ばかりが立派でも、書いている内容が稚拙なままで一向に進歩の見られないままにであった。
 最後に、またしてもパーカーの万年筆である。私がある役職に就いた時に、他人からお祝いにと頂戴したものであった。黒い皮のケースに入ったもので、私の名前が万年筆のキャップ部分に刻印されていた。金属製のとても重たい万年筆だった。頂戴して10年ほど経過した頃、私は手術のために数ヶ月入院生活を余儀なくされた。その時に、その万年筆を私は病室に持ち込んでいたのだった。上述の皮のケースの中には、万年筆以外に、等しくパーカーのシャープペンシル、ボールペンも添えた3本セットになっていたので、ケースごと持ち込んでしまったのだった。だが、退院した時に、自宅で病院で使用した品々を整理していたところ、その万年筆がなくなっていることに気づいた。私とパーカーの万年筆は相性が悪いのだろうかと非常に落胆したものだった。実は、上に述べた手術の過程で、医師の手違いから必要外の臓器を複数摘出されてしまい、その報告を医師から受けた後は、しばらくは、すっかり落ち込んでしまい、生きる希望をまるで無くしてしまっていたのだった。しかし、その後、あるきっかけから、元の生活に戻るぞと心に決めて頑張り通した。無事に退院できた時に、自分で自分に対するご褒美として、デパートでパーカーの万年筆を購入することにした。紛失した物と同じ万年筆を買い、キャップに自分の名前も刻印して貰ったものだった。新しい万年筆を使い出して一ヶ月程経過した時点で、思いがけない場所から紛失したと思っていたパーカー万年筆が出てきた。病院で使っていた中で、ノートパソコンなどを入れたバッグに入っていたのだった。お陰で、同じ万年筆が2セット揃ってしまったことになる。
 上に万年筆について述べたが、Gペンと呼ばれる簡易的なペンがあった。インク瓶を手許において、筆記する時には、一度インクをペンにつけてから記述する。インクが無くなる度にインク瓶の中にペン先を入れるのだが、こちらは、卓上専用と云うことになる。インク瓶がポータブルではないからだ。ホルダー部分がとても長かった。これもやがて、万年筆に取って代わられるようになってしまった。今では、Gペンなどをつかっている人もいないのだろう。Gペンよりも前には、ガラス製のペンもあった。本来は、カーボン紙を間に入れた複写用のペンだったのかもしれないが、ペンと云うよりも筆のような形状をしていたものだった。
 恐らくレタリングの専門家等が用いた物と思われるが、ロットリング・ペンなるものもあった。線の太さによってペン先を替えるタイプのペンだった。ペンと云っても、ペン先はただのステンレス製の細い管だった。こちらも、製図等には重宝だったので随分利用したものだった。まだ、ケースに入ったまま、上述の烏口等と一緒に書斎の片隅で眠っている。
 筆記用具で風変わりの存在は何と云っても「鉄筆」であろう。現在のようにプリンターやコピーマシーンが普及を見る前には、印刷は専らガリ版印刷だった。鉄製の鑢(やすり)の上に蝋原紙を乗せて、その上を鉄筆で記述して行くのである。鉄筆の通った部分だけやすりでこすられて、蝋が消えてゆくので、そこにインクが通り、紙に印刷されるという方式であった。万年筆やボールペンとは相違して、指先でかなりの筆圧をかけてゆく筆記のあり方であった。慣れない内は、下に置かれた鑢の目で鉄筆が思うように走ってくれないことになる。慣れてくると蝋原紙が、方眼模様や原稿用紙模様になっているので、文字が同じ大きさになり、右上がりになったりもしないで済むようになったものである。このガリ版切りも随分お世話になった筆記用具の一種であった。今では、博物館行きの代物と化してしまったのかもしれない。
 学生時代に読んだ梅棹忠夫教授の『知的生産の技術』(岩波新書)からは随分影響を受けた。実際に買い求めてしまったものには、丸善から発売されていた「カナ文字・ローマ字タイプライター」とコクヨから発売されていた「情報カード」がある。後者は、随分長い間利用させていただいた。カードのサイズも様々であり、木製のカードケースもあり、携帯用のカードケースまであり、とにかく便利な存在だった。特に講演を依頼されたりした時にも、B6版のカードが大いに役立ったものだった。
 ところで、筆記用具としてのタイプライターであるが、こちらはあまり長持ちしなかった。タイプライターそのものに関しては、それ以前にレミントンの英文タイプライターに接していたので、操作の上では少しも違和感はなかった。ただ、打ち出すことが出来る文字が、平仮名とアルファベットと数字だけだったので、日本語の記録にはあまり向いていなかった。やはり、漢字が打てないと不自由なのだ。このタイプライターを使用してみて、今更ながらに、「漢字・仮名混じり文」という日本語の特殊な表記法の有り難さがしみじみと分かったものだった。特に、カナ文字ばかりの文章は読み難いのだ。それに、カナ文字ばかりの表記には、単語と単語とを切り離す、所謂「分かち書き」をしなければならないという煩雑さも伴うのだ。ただ、タイプライター利用の経験は、その後に登場するパソコン・キーボードのタイピングに大いに役立ったことは云うまでもない。
 上述のタイプライターに不十分さを感じたために、その後、結局は電動の和文タイプライターを購入することとなった。先ずは、自分で活字の書類を作成できるということには感激したものだった。自分の文面が初めて活字になったのは、中学生の時に、新聞紙上に掲載された時だった。自分の文章が活字として全国紙に掲載された時には信じられない思いがしたものだった。その感動から数十年して、今度は、自分で活字の書面を作成できるということに感激したものだった。それはそれとして、自宅で夜間に文書を作成していると、家族から嫌がられたものだった。かなり大きな音がしたからだった。自分でも、何やら内職でもしているようで可笑しかった。当時は、我が家の両隣が空き地であっただけに可能だった作業のように思える。その電動タイプも僅かな期間しか使用されなかった。その数年後にワープロなる文明の利器が登場したからだった。そしてやがてはパソコンへと変わっていったのだった。上述の和文タイプの場合、専門の印刷屋さん等が使用しているタイプライターと相違して、文字の大きさを変えることが出来なかったことも不満足であり、漢字の数も限られていた点でも不便さを感じたものだった。パソコンの場合には、文字の大きさ、フォント等を即座に変更できる。それよりも何よりも、和文タイプの場合、英文タイプやパソコンのような早さでは打てない。漢字を探さなければならないからだ。結局は、誰もがパソコンへと移行してしまったようである。
 以上、ほぼ時系列的に筆記用具を回想してみたが、まだまだ、シャープペンシルや蛍光ペン、マジックインク等も、それぞれ画期的な登場であったことは言うまでもない。また、ボールペン等でもそうだが、油性インクと水性インクの両者が登場したことも画期的な出来事だったと言えよう。万年筆は、今ではマイナーな存在であるが、ボールペンは、今後もまだまだ続くのではなかろうか。
 蛇足:まるで関係のないおまけ                          
 今回は、このところ雨ばっかり降っているので、チェロを聴いた。ヴィヴァルディの「チェロ・ソナタ 作品14」を聴きながらタイピングした。演奏はモーリス・ジャンドロン(VC)、ハンス・ランク(チェロ・コンティヌオ)、マリーケ・スミット・シビンガ(Cemb)である。音源はカセット・テープだった。
 H.22.03.25