←トップ頁へ

大分耳が遠くなってきて・・・
 私は、以前別のコーナーにも記したが、毎日の日課となっている散歩の際には必ずカメラを携行している。日替わりで、市内の城沼の周囲を一周、或いは多々良沼の周囲を一周しているのだ。距離にして5〜6q程度である。もちろん、主たる関心事は植物であるから、当然カメラは植物に向けられることとなる。ところが、晩秋から早春にかけては、カメラのビュー・ファインダーに入って来るものが異なってくる。植物の姿が乏しくなって来るのとは対照的にこの時季には野鳥が里に下りてくるようになるからだ。私の書斎は、北側に面しているのだが、いつもタイピングしているパソコンの置かれた机の向こう側には、窓ガラスを挟んで1m程度の位置にウメモドキの木が植えてある。秋も深まるにつれて、ヒヨドリ、シジュウカラ、ジョウビタキ等々と様々な野鳥が実を啄みにやってくる。机上には、いつもカメラが置かれているので、その都度、可愛らしい姿を捉えることとなる。この時季には、既に各種の落葉樹の葉が枝から離れてしまっているので、野鳥の姿がよく目に入るのだ。野鳥観察にはもってこいの季節ということになる。そして、上述のように、私の平素の散歩コースは水辺ということになる。毎年、冬場にはたくさんの白鳥たちが飛来して越冬するのだった。その白鳥もお目当ての一種ではあるが、もっと強く魅かれているのはカワセミである。あの背中のメタリック・ブルーが陽光を浴びて飛ぶ様はとにかく「美しい」の一語に尽きる。だが、カワセミは思いの外小さな野鳥であり、しかも飛ぶ速さも早い。冬場には、バードウォッチングを趣味にしている方々がたくさん水辺に集まってくる。専門家は、野鳥の生態に詳しいものだから、カワセミが飛来して来そうな場所に三脚をセットして、じっと待っている。野鳥に関しては、まるで門外漢の私の場合には、そんなことはしない。それに散歩の途上でもあり、三脚は邪魔になるばかりである。第一、本来的な目的は散歩することにあるのであって、じっと一箇所に留まっていたのでは運動量が補えないこととなってしまうのだ。だから、たまたまカワセミを目にした時にカメラを向けるということになる。散歩の途上、突然、妻が「カワセミ!」と言って、カメラを向け、シャッターの連写音を響かせている。その都度、私は、タイムラグを持ってカメラを水面に向けてカワセミを探すこととなる。既に遙か遠くまで飛び去っており、カメラをフォーカス・インするのは時遅しという状況となる。仕方が無いので。自分の目でしっかりと確認して、カワセミがどの木の上に留まるかを確認することとなる。そして、カワセミの留まっている木の方向に向かって忍び足で近づくしかない。そんなわけで、カワセミの飛んでいる姿を捉えることが出来ないということになる。そして、「カワセミ!」と叫んで、カメラを向けている妻を見ながら、どうして毎回カワセミの飛ぶ方向を見つけられるのか不思議に思うのだった。ある年、一度、妻にその疑問を投げかけてみた。すると、答えは簡単だった。「鳴き声ですヨ。」というのだった。そうか、そうだったのか!と納得したものだった。そして、自分自身の哀しい現実を認めざるを得なかった。これまでに何度もカワセミの姿は目にしてはいても、情けないことに、私は、カワセミの鳴き声というものを一度も聴いたことが無いのだった。つまり、聴力の衰えている私の耳には、その声が届いてこないのだった。妻には聞こえている自然界の「音」が私には聞こえないということは哀しい事実であることを悟らざるを得なかったことになる。
 上述の事例に限らず、私は、若い頃から、聴力が弱いことは自覚していたのだった。
 まだ、職業生活を送っていた頃、会議の席上等で、隣の席に座している仲間が、急に顔を私の耳に近づけて何やら、真剣な表情で、周囲に聞こえないようなひそひそ声で語りかけて来たりしたことが何度もあった。その都度、私は、多分、彼が、何かを私に伝えていることは判断出来ても、内容はまるで聞き取れなかった。だが、その場が会議の席上でもあり、大声で聞き返すのはやはり躊躇われ、失礼ながら、いつも顔を縦に振って頷きの姿勢を示してやり過ごしてきたものだった。すると、翌日に、その仲間から電話を頂戴し、依頼しておいた件については準備できているか等と問い合わせがを受けて、私は戸惑うばかりだった。何度もそんなことが続く内に、彼は、私が、「耳が遠い」或いは「忘れっぽい性格の持ち主」であると見抜き、メモ用紙に書いて手渡すようになったものだった。
 視力の場合は、たとえばこれまでに何度も検査が行われいる。たとえば、自動車の運転免許証の更新時等には毎回測定され、自分がどの程度の視力であるかを把握出来ていた。だが、あまり聴力の検査に関しては経験は少ない。そして、日常的に、たとえば、新聞や書物に目を通す際に、文字が読めない場合には、必要性に迫られて眼鏡という文明の利器に頼ることとなる。私の場合、老化による老眼である事が原因であり、印刷物以外の場合には、眼鏡は不要である。医師から渡されたた処方箋等も読めないと困るので必然的に眼鏡に頼ることになる。つまり、読めないと困るので眼鏡に手が伸びると言うことになる。
 ところが、「音」の場合、日常的にあまり切実に困るということは感じないのであった。だから、自分の聴力が随分衰えているという自覚も無く過ごして来たのだった。たとえば、電話の場合なども、今時の受話器には音量設定の機能が付いているので、少しも違和感なく対話をしてきたのだった。そこで視力の衰えを補ってくれる眼鏡のようなメディアを、これまで聴力に対しては必要感を感じなかったのだった。つい最近、老眼の度が進んでしまったので、眼鏡屋さんで新調したのだったが、その時に、補聴器も店頭に並べられており、何気なく覗いてみたところ、その価格があまりにも高額なので、試して見る気も起きなかったものだった。
 我が家は6人家族である。日中は、皆が勤めに出かけてしまうので、妻と二人だけである。私は、専ら書斎に籠もりっぱなしである。妻は午前中は、殆ど庭の手入れや家庭菜園で過ごし、午後は一人でTVを視聴している。ある日、ふと思ったのは、どんなに感動的なドラマであれ、面白いバラエティ番組であれ、一人で見ていては、つまり共感者が傍にいなければ面白くないのではなかろうかということだった。たとえば、寄席で落語を聴く場合と、たった一人でTVの画面に映し出される落語とでは大きな相違点がある。寄席の場合、その落語をこれまでに何度も聴いたことがあり、内容が分かっていても、周囲の人々が大声で笑ったりすると、意識するまでも無く、自分も声を上げて笑ってしまったりするものだ。或いは、スポーツの観戦にしても同様である。実際に、競技場で、観戦者の興奮したどよめきや歓声の渦中にいると、思わず、興奮してしまうものである。それは、臨場感の確かさという点も大いにあろうが、興奮しているのは自分だけでは無く、周囲の人々も同様に興奮しているという共感者の自分も一員であると言う点がそうさせるのではなかろうか。したがって、たった一人でTVを見ている妻は、さぞかし物足りないのではかろうかと気づき、お付き合いしないと申し訳ない無いなと思ったのだった。平素から、あまりTV視聴の習慣が無かったので、実際に、妻と一緒にTVを見ていると、先ずとにかく疲れてしまって、長くても1〜2時間が限度だった。TVの場合、編集者による計算されたシーケンス(時間的な配列による映像の流れ)について行くのに疲れてしまうのだ。しかし、それはともかくとして、平素、私がなぜ家族と一緒にTV視聴をしないかの原因がやっと分かった。映像ははっきりとみえているのだが、音声がまるで聞こえないのだ。TV画面の中で、出演者が口を動かしている様子を見ても、何を語っているかが理解できないと、TVの前に座す気持ちも起きなくなってしまうのだった。
 上述のように、妻と一緒にTVを見ようと心に決めた日には、音声がまるで聞こえないので、映像だけを目にしながら、想像力を逞しくしてじっと我慢をしたものだった。傍らの妻は、私には音声が聞こえないのだということが分かっていないので、音量はそのままと言うことになる。ある日、一人で留守番をしている時に、ニュースを見ていたが、自分に聞こえる音量設定にしていたら、帰宅した家族に、随分大音量である事を告げられてしまった。そこで、妻だけでは無く、家族と一緒にTVを見るための工夫が始まった。
 先ずは、難聴の方が使用するような耳にかける補聴器のようなタイプで、イヤフォンに相当する部分を耳の中に収納するタイプのものを通販で購入した。他人にもあまり気づかれることもなく、加えて聞こえる周波数領域は、どうやら人間の音声程度の周波数が強調されるようになっていたらしい。だが、2点ほど難点があった。私は、昔から、イヤフォン・タイプのものは、耳が塞がれてしまうのが嫌だったのだ。非常に違和感があった。そればかりでは無く、1個しか購入しなかったものだから、音声がその集音器を装着している側の耳と装着していない側の耳とでは、聞こえる音が異なるのだ。全ての音をモノラルで聴いているような違和感であった。平素からステレオ音楽を聴き続けてきていたので大いに違和感があって、今は、大事な会議等の時以外は使用してはいない。
 次に、デジタル・オーディオ・プレイヤー・タイプの集音器を購入してみた。今度は、TVの中の音声も十分に聞こえて快適だった。家族と一緒に笑ったり、嘆いたりを共感することが出来るようになった。だが、私には、2点ほど難点があった。自分の耳にTVの音声が快適に聞こえる程度に音量を設定すると、具合宜しく聞こえるのではあったが、周囲の家族の声も拡大されてしまうのだった。そもそもこれまでTVとは離れて過ごしていた生活が長かっただけに、平素はまるで無音に近い状況の中で生活をしてきたのだった。それだけに、エアコンの音も、換気扇の音も聞こえてくる。何より困るのは、家族の会話がまるで怒鳴り合っているように聞こえてしまうのだった。これにはうんざりだった。加えて、イヤフォン・タイプはやはり耳が塞がれて嫌だった。
 次に、TVの音声出力端子に発信器を接続して、ワイヤレスで受信機に飛ばすタイプのものを購入してみた。こちらは、受信機にスピーカーが内蔵されているのだが、別に外部出力用の端子が設けてあったので、そこにヘッドフォンのジャックを差し込んで音を取り出すようにしてみた。こうすれば、家族は好きな音量でTVを愉しむことが出来、私は私で、家族とは別に、自分に丁度良い音量で音声を聴くことが出来る。加えてヘッドフォンなので、耳が塞がれることも無く有り難い。ふと、その機器をセットしながら思い出したことがある。それは、現在のTVのようにチャンネルを選定するにリモコンで操作するのでは無く、直接TV受信機のフロント部分に装着されているチャンネル選定ダイヤルが付いていた頃には、イヤフォン用のジャックが2個ついていたのだ。1個は、そこにイヤフォンを差し込むと、スピーカーの音声は切れてしまう。もう1個は、TVを視聴しながら録音などを出来るように、外部出力用となっており、そこに接続してもTVのスピーカーが音声をカットする事は無かった。現在のTVの場合、TVのフロント部分には1個しか外部出力のジャックは付いていない。私のように耳の遠い人には、昔のように、TVのスピーカーを生かしたままヘッドフォンで聞こえたらどんなに助かるであろうと思った次第である。それはそれとして、このワイヤレス方式の受信機にも欠点があった。その受信機に問題があるのでは無く、ヘッドフォンに問題があったのだった。ヘッドフォンを付けてTVを見ていると、今度は、家族から話しかけられても聞き取れない。玄関のチャイムが鳴っても聞こえない。電話が鳴っても聞こえないのだ。だから、一人で留守番の時には、ヘッドフォンは使用できないということになる。何もかも巧い具合に行く訳には行かないものと教えられた気がしたものだった。
上述のデジタル・オーディオ・プレイヤー・タイプの集音器を持っていつもの日課である散歩に出かけたことがある。冬場に赤松林の中を歩いていると驚いた。何よりも、これまで肌で感じる寒さや、身体に受ける風力から、そして、木の枝の揺れ具合等から、世の中には風が強く吹いているのだなと言うことが分かってはいたが、この集音器を耳につけていると、風の音が聞こえたのだった。そればかりでは無い、木々の枝が擦れ合う音や木の葉が羽ばたくような音も聞こえた。遠くを走る電車の音、自動車の音、散歩する人々の靴音、そして何よりも野鳥たちの囀りが聞こえたのだった。その野鳥の声を頼りに目を向けると、そこにはヤマガラがいたり、コゲラが居たりと、とにかく楽しかった。今度は,冒頭に述べた妻の行動と同様に、鳴き声からカワセミの位置を判断出来るかなとも思えたものだった。世の中の人々は、このような自然の奏でる音の中で生活をしているのかとあらためて知らされた思いがしたものだった。
 それに気をよくして、同じ機器を耳に付けて自宅の庭をそぞろ歩いていると、我が家は最寄り駅まで5分程度の位置にあるものだから、踏切での列車通過を告げる警告音や道路を走る自動車の音、各種の工事の音などが聞こえてしまい、それまですっかり静かな生活に慣れてしまっていたから、随分と喧噪の世界に人々は生きているのだなと思ってしまったものだ。人々が活動する時には色々な音を出しているのだなとも思ったものだった。
 私は、上述のように耳が遠いのである。だが、あまり日常生活の中で耳が遠いことによる困難さを感じずに過ごして来たのだった。その原因は、どうやら音響機器にあるように思える。上には、平素、耳が遠いので平素は静寂な世界に生きているようなことを述べたが、実際的にはそれは嘘と言うことになる。一日の大半を自宅の書斎で過ごしている私の場合、いつも音楽を聴いているのだった。パソコンに向かっている時、読書をしている時、そんな時には、音楽を欠かすことは無いのだった。夜間はヘッドフォンで、日中はスピーカーからと使い分けながら音楽を楽しんでいるのだった。この両者から、自分としては音楽が普通に聞こえていると思って長いこと過ごして来たから、自分の聴力の衰えに気づかなかったということになる。
 ここで、大分飛躍してしまって恐縮だが、「耳」との関連で、音響機器の話題に入らせて頂きたい。
 まだ、高校生だった頃から、音響機器は大好きで、関連の書物を読み続け、アンプやスピーカーを自分で作って遊んだものだった。おまけに音楽大好き人間なものだから、CDやテープ類、レコード類がたくさん集まってしまった。このH/Pにも我が家の音源リストが掲載されているのだが、興味のある方は次のURLに示される入り口からお入りください。
 http://www.t-webcity.com/~plantdan/onngaku/music%20index.html
 私のこの部屋は、書斎であるから書物はたくさん収納されているが、加えて、パソコン関連と音響関連の機器が多数ランダムに置かれている。そのために、各種のコード類が複雑に這い回っている。しっかりと結束したりすれば見栄えが宜しいのだろうが、時々、接続機器を変えるものだから、乱雑なままになっている。
 ところで、この部屋には、随分たくさんのスピーカーが集まってしまった。一番メインのスピーカーは、高校生の頃からの夢であった三菱電機社製のダイヤトーン・スピーカーである。床上3.5m程度の位置に据え付けてある。両スピーカーの間隔は4m程度である。このスピーカーは、直接三菱電機社から購入し、据え付けも同社から見えて工事をしてくれたのだった。スピーカーの向きも、私が机に向かって作業する際に最適にステレオ感が得られるように向けられている。私にして見れば随分と高価な買い物であった。周波数特性は17〜24,000Hzである。工事に見えた三菱電機の技術者の方に、人間の耳には20000Hz以上等という高い周波数域は聞き取れないのでは無かろうかと尋ねたところ、たとえば、高音域を18.000Hzで押さえてしまった場合と、24,000Hzまで出力可能であるようにした場合とでは、すっきりとした高音域が味わえなくなってしまうからである旨の説明を受けてしまった。このスピーカーを設置した頃は、我が家の両隣は偶然にも空き地だった。それだけにこのスピーカーで十分に好きな音楽を堪能することが出来た。その後、やがて、両隣にも家屋が建てられたために、あまり大音量で音楽を楽しむことは出来なくなってしまった。ところで、このスピーカーの場合、確かに高音域は何とも言えない爽やかな音色を奏でてくれている。だが、低音域に物足りなさを感じてならなかった。低音域の響きが物足りない、つまり、ベースやドラムスの音が物足りないと、音楽のリズム感が乏しく感じてしまうのだった。原因は、このスピーカーが高所に設置されていることに因したようである。加えて、この部屋の床の構造に問題があった。この部屋の書棚は床上4m程度まで立ち上がっている。そこに収納されている書物の重さは大変な重量であることは、書斎を造る時点で既に想定されていた。そのために、床は、私の身長程度の厚味にモルタルで固め、その上に、湿気を地下から吸い上げることを遮断するためにフィルム・シートを貼り、その上に再びモルタルをのせ、それでは堅すぎるので、そして冷たさも感じることに感じることになってしまうので、床板を張り、その上にコルク板を張り、その上にフエルトを敷いて、最後にカーペットを敷いてある。音響に詳しい御仁ならば既にご理解のように、仮に、床上に、低音用のスピーカーを置いたとしても、共振して低音域を再現するための板材と地面からの空間が無いのである。そのために、高音域は満足できても低音域では、たとえばクラシック音楽での場合に、コントラバス等の低音域による音楽のテンポやリズム感覚が乏しくなってしまうのだった。パイプオルガンなどでは特にそう思えてしまうのだった。
 私が高校生の頃、つまり半世紀近くも前の頃には、大音量で十分な低音を出せるスピーカーとなると、とにかくスピーカーの口径が大きいことが求められたのだった。やがて、様々な技術革新により、スピーカーそのものの構造理論も変化をし、大分小型化されてきた。特に、パソコンの外付け用として、アンプ内蔵方式で小形のスピーカーがたくさん登場している。そこで、そうしたスピーカーならば机上にもおけるので、セットしてみると、驚いたことに、机の天板が共振して充分に低音域も楽しめるではないか。それ以来、デジカメ同様に次々と購入してしまった。音も確かであるのだが、価格も随分廉価である事も私には魅力であった。
 若い頃、音楽関係の雑誌を購読していたが、その中で、ある作家の書斎の写真が掲載されていた。時代小説を主に発表していた小説家の故五味康祐氏の書斎であった。五味氏は、当時、小説家としても著名であったが、「オーディオの神様」と異名を持つほどにマニアックな音楽愛好家であった。小説以外にも実際にオーディオ関連の評論も行っていた。その五味氏が、高音用のスピーカーは、天井に、低音用のスピーカーは床にそれぞれ設置すべきであると述べており、実際に五味氏の書斎ではそうなっていたのだった。上述のパソコン用のスピーカーを置いた机の天板が共振した時に、思わず五味氏を想起してしまったものだった。
 大分以前のことであるが、TVがアナログ放送からデジタル放送へと変革された際に、我が家でも所謂「地デジ」と呼ばれる電波を受信できるTVを購入した。かなり大型のTVである。そこで、これだけ大型の画面ならば、映画なども迫力のある音声で視聴したらさぞかし効果的であろうと考え、TV用のスピーカーを購入した。木製のキャビネットであり、その上に大型TVを乗せられるように出来ていた。早速、リヴィングルームのそのTVにセットして見た。すると、キャビネットの底面にある低音用のウーファー・スピーカーから出る音が床板に共振し、迫力のある音が出てきた。その時に、前述の我が家の書斎の場合には、そうした共振するだけの材質も構造もない点が問題であり、スピーカーに原因を求めるのは無理な注文と知ったものだった。それはそれとして、このTV用スピーカー・セットは、アンプ内蔵で、CD・DVDのデッキが搭載されており、SDカードからも音源を拾えるし、USB端子も標準装備されているので、願ったり適ったりであった。だが、家族には評判は芳しくなかった。というのは、最前から何度も述べているように、私は耳が遠いのである。私にとって快適な音量に設定すると、あまりにも大音量であり過ぎると顰蹙を買ってしまったのである。折角購入して、音も気に入っていただけに、勿体ないと考えて、書斎に引き取り、机上のデスクトップ型パソコンの台として用いてみた。各種のデジタル機器が接続出来る上に、外部入力端子もやはり標準装備されている。つまり、デジタル機器ばかりでは無く、アンプを経由してレコードやカセット・テープの音楽も楽しめる。今ではすっかり、それが本来TV用スピーカーであったことなど忘れてしまっているほどである。
 日常的にはあまりTV視聴はしないと上述した。だが、ラジオは良く聴く。概してFM放送ばかりを聴いている。特に音楽番組が多いからである。現在の携帯ラジオは随分小型に出来ている上に、価格もとても想像できないような安値で販売されている。毎日の日課である散歩には、カメラとラジオは必需品となってしまった。だが、何度も申しているようにイヤフォンが嫌いである。そこで、ヘッドフォンを使用することになるのだが、コードが煩わしい。そこで、チューナー内蔵のヘッドフォン・タイプのラジオを買い求めてみた。コードが不要なので、少しも煩わしさが無い。庭で、草取りする作業をしている時も、樹木の剪定作業をしている時にも、このヘッドフォン・ラジオが活躍してくれるようになった次第である。冬場などは、ヘッドフォン部分が防寒用の耳当ての役割も果たしてくれる。ただし、齢70を遙かに超した年寄りが、大きなヘッドフォンを頭に乗せて散歩などをしていると、やはり奇異感を隠し得ない表情で見つめられたりもしてしまうこととなるのだった。
 冒頭に述べたTVの音声をワイヤレスで飛ばして音声を聴けるのを思い出し、パソコンやアンプ、そしてオーディオ・セットから出る音楽もワイヤレスで楽しめないかと思いつき、家電量販店に出かけてみた。色々なメーカーからの商品が展示されていた。それぞれのスペックを読み、実際に視聴してみて、1セットを購入して見た。これも便利だった。これまでは、パソコンに向かいながらヘッドフォンを耳にあてていたのだったが、机から離れて書棚から書物を取り出したりする時にはその都度ヘッドフォンを外さなければならなかったのだが、今度は、そうした煩わしさが無くなったのだ。凡そ30m程度は電波が届くので、家屋のなかならば、何処にいても音楽が聴ける。庭に出ても聴ける。これは便利なものを手に入れたものと自分で自分を褒めてあげたい気分だった。
 とにもかくにも、絶えず音響機器のお世話になって、大好きな音楽を、自分に快適な音量で聞き流しながら過ごしているものだから、自分の聴力がすっかり衰えていることに少しも気づかずに過ごして来たことになるのだった。
 自分の意思を相手に伝える、或いは相手の意思を理解するためには、色々なメディアが介在することになる。視聴覚教育の理論では、人間の感覚器官、所謂「五感」の中でも、実際に学習情報を得るに用いているのは、視力が83%であり、聴力が11%であるという。つまり、「目」と「耳」から得る情報が94%にも達するというのだ。人間が言葉を発することが出来るようになるのは、先ず、親の話す言葉を聴いて真似することから始まるのであろう。だから、イギリスに生まれた子供は英語を英語を話すようになり、イタリアに生まれた育った子がイタリア語で話すようになるのは少しも不思議なことではない。未だ高校生だった頃、光文社から出されていたカッパブックスの中に岩田一男先生の『英語に強くなる本』という書を読んだ。その中で面白い記述があった。アメリカ人の子供と遊んで帰宅した日本人の子供が母親に告げるのだ。
 「母さん、アメリカの子供はね、「赤」のことは<ウレッ>と言うんだ。「白」は<ワイ>と言うんだヨ!」と。
 彼は、耳から学習したことになる。
 もう一つ、別の書(書名は忘れてしまった。)には次のような事が記述さっれていた。
 ハワイに日本から移民した人々は、
 「今、何時ですか?」
と尋ねる時には
 「掘った芋いじるな?」
と言えば良いと学んだという。実際に、ハワイで、その話を思い出したので、現地の人に
 「掘った芋いじるな?」
と聴いてみた。すると、相手は少しも躊躇うことも無く、壁の掛け時計を指さしたものだった。
 私たち年寄りが初めて英語というものを学んだ頃は、耳から学習するというよりも、文字から、つまり目を使って学習したことになる。かなり難しい文章も読解できたものだったが、英会話に関してはあまり重点が置かれていなかった。だから、中学・高校・大学と10年間も英語とお付き合いしても、外国に行くと英語が話せないと言うことになる。先ずは、自分の意思を伝える前に、相手の話す言葉の内容がまるで聞き取れていないのである。文字で示されると簡単な内容でも、実際にネイティヴな英語を聞かされると、まるで理解できないということになる。そこで、私の場合には、英語圏の国々に出かける時には、決まって機内でやることがある。機内で流されている映画を観るのだ。肘掛け部分にある言語設定を英語にして映画を観るのだ。映画館で洋画を見ると、画面の下か横の部分に日本語の翻訳文字が出てくるが、機内の映画の場合にはそれが無い。つまり、英語圏の人々の会話の在り方を感覚的に耳で訓練するのである。飛行機の中では、アナウンスもキャビンアテンダントの人々も文字で示すことは無い。音声会話で用を足さなければならないことになる。
 つまり、先ずは、人は、目で学習するよりも最初に耳から学習しているのでは無かろうか?
 人と人とのコミュニケーションが成立するには、一般的には、両者が共通の言語が話せる、聴いた言葉を理解できるというのが必要最小限の条件では無かろうか。昔、亡父が他界する直前に、喉に穴を開けられ、機械から送られて来る空気を体内に取り入れる方式が行われた。喉を使えないということは、声帯が機能しないということであり、父も大分困惑したようであるが、家族も父の意思を汲み取ることが出来ず大いに困惑したものだった。結局、父は、痛みがあっても、苦しくても、それを家族や医師に意思表示することも出来ずに、じっと耐える以外に無かったのだった。他界する数日前に、ベッドを起こしてあげると、手にした50音の書かれた文字盤の文字を一つ一つ指で辿りながら、
 「ア・カ・ギ・ヤ・マ・ガ・キ・レ・イ・ダ」
と意思表示したものだった。父の入院していた病院は前橋市内の病院であり、窓の外には赤城山が大きくそびえ立っており、丁度紅葉の時期でもあったのだった。
 父の最期の頃を思い起こすと、ふと現在の現在の自分がこれ以上聴力が衰えてしまったら、人とのコミュニケーションが取れなくなるという不安が大きく膨らんでくる。まるで聞こえなくなってしまったら、相手は、言葉では無く、文字を用いなければならなくなるのであろう。「話す」と「書く」とでは、速度も労力も大いに差があることになる。
 もう、これまでの人生の中で色々と学ぶことも出来たことであもあり、たくさんの経験や体験も出来た。だから、最期まで誰とも意思の疎通を欠かさずに好きな音楽を楽しみたいなと毎日思い続けている。
 
 蛇足:まるで関係のないおまけ                          
 今回は少しでも元気の出る声を聴きたいなと思って、アメリカの女性ヴォーカリストであるSarah Vaughanのヴォーカルを聞き流しながらタイピングした。サラ・ヴォーン、ビリー・ホリディ、エラ・フィッツジェラルドと言えば、やはり、アメリカジャズ界の大御所と言えよう。サラの音域は広く、声は太く、不遇な人生を送ったにしては陽気で明るい歌声だった。ジャズばかりではなく、ポップスやボサノバ等も歌い、ビートルズ・ナンバーもカヴァーしている。彼女が他界して間もなく四半世紀にもなろうとしている。死因は肺がんだったという。今回の音源はパソコンの外付けハードディスクに収められている彼女の歌声を拾い集めてみた。
 H.25.12.19