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灯りについて
 現在住んでいる家屋を建築する時、考えたことは、照明については、昔懐かしい電球にしようと思った。そして、その通りにしたのだった。
 その理由は、簡単である。その当時は、勤め先も、駅も、電車の中も、とにかく何処もかしこも照明と言えば殆ど蛍光灯ばかりであった。何処か冷たい感じのする蛍光灯の明かりにはすっかり慣れきってしまったので、昔のように暖かみの感じられる白熱電球にしたいと考えたのだった。
 家屋の建築が終わり、書斎以外はすべて電球となった。勤めを終えて帰宅すると、やっと世間のしがらみから解放されて自分の居場所に戻れたような気持ちになれたものだった。
 ただし、唯一、書斎だけは蛍光灯を設置せざるを得ない結果となってしまった。床面積に対して、蔵書の収容量を多くするためには、書棚を高くする以外になかった。そこで、唯一、書斎だけは吹き抜けにしたのだった。4m程度まで、部屋の四方を取り巻くように書棚が立ち上がっている。その場合、書棚の最下段も、最上段も書名を読み取れるようにするためには、白熱電球では工夫も必要であり、高さを変えて多数設置しなければならない。更に、書斎であるから、当然机もある。机上に置かれた書類や書物を最適な明るさで照明しなければならない。幸いなことに、吹き抜けにした関係で、机の真上の天井は屋根の裏面に相当し、当然水平ではなく、斜めになっている。その昔、電気工学を学んでいた頃、明るさというものは、光源に対してcosθに比例することを学んだのだった。つまり、90度の位置が最も明るいことになる。加えて距離の二乗に反比例する。仮に、パイプ・ペンダントやチェーン・ペンダントで照明器具を吊り下げて見た所で、机上の照明を最適に出来ても、光源の位置より上にある書棚の書物を照らすには不都合が生ずる。では、シーリングライトにした場合には、光源から遠く離れた書棚の最下段や床面は明るさが不足している。第一、天井に直接取り付けたとしたら、脚立や梯子を持ち込まないと電球の交換も出来ないと言うことになる。そこで、理に適っていたのが40w形の蛍光灯であった。40w形の蛍光灯の場合、蛍光管の長さが1m以上もある。それを上述のように斜めになった天井に直接取り付けると、どの高さに対しても、直角の光線を届けてくれるのだった。蛍光灯には、そうした利点もあると初めて実感したものだった。
 ところで、私が初めて目にしたのは、白熱電球だった。
 私は、都内で生まれ、幼児期は都内で過ごした。
 幼児期の思い出の中で、電球に関しては二つある。
 その一つは、当時は戦争中だったのだが、夜間に、突然大音声で
 「空襲警報発令!空襲警報発令!」
とアナウンスが響き渡り、その後には、これまた耳を塞ぎたくなるほどの大音声でサイレンがなるのだった。すると、母は、とっさに立ち上がって、頭に被っていた手拭いを取り、電球の笠の周囲をくるりと巻いてしまうのだった。すると、電球の真下だけが明るくなり、光が横方向に漏れなくなるのだった。これは、我が家ばかりでは無く、どの家も同様だったことは言うまでも無い。東京の空を飛び交う米軍の飛行機B29から爆弾を落とされないための自衛手段の一つだったのだ。
 電球に関するもう一つの思い出は、フィラメントが切れてしまった電球に靴下を被せて、その綻びを繕うのだ。これもどの家でも同様だったことは推測に易い。今なら、フィラメントの切れた電球は即処分されるであろうし、穴の開いた靴下も即座に処分されることだろう。だが、その当時の日本は、とにかく食料ばかりでは無く、各種の物資が不足しており、生活必需品は配給だったのだ。だから、切れた電球でも、穴の開いた靴下も、足袋も、とにかく再利用しなければならなかったのだった。
 東京での生活の中で、電化製品と言えば、照明とラジオだけだった。
 別のコーナーでも記述したことであるが、やがて、我が家は、空襲に遭い、跡形も無く焼け落ちてしまった。そこで、現在の家屋のある群馬まで転居したのだった。それも、都内から徒歩でこの地まで・・・。
 その群馬の家でも長いこと、電化製品と言えば、電球とラジオの二つだけだった。だから、家の中に、コンセント等というものは1箇所だけだった。それはラジオのためだけだった。やがて、終戦後数年を経て、父が電気コンロなるものを購入して来たものだった。その時に初めてコンセントがもう1箇所増えたことになる。
 私が小学生の頃、亡母はよく胃痛に悩まされた。夜間に苦しみ出すと、亡父が看病し、私は、決まってある仕事を仰せつかることになったものだった。我が家から500m程度離れた場所にある祖母の実家までお使いに行かされるのだ。その家は、祖母の兄弟姉妹の家であり、どの家も「本家」と読んでいた。その本家まで夜間に出かけ、父の従兄弟である「本家の小父さん」に起きて貰い、街のお医者さんまで自転車で迎えに行って貰うのだ。そして、小父さんは、我が家まで医師を連れてくれるのだった。
 この夜中のお使いは、当時の私にとって、正直言って出来ることなら御免被りたい用事であった。戦後間もない頃の田舎では、道路に街灯等というものは存在しなかったのだ。本家までお願いに向かうにあたり、私は、徒歩であり、懐中電灯のような文明の利器は無かった。我が家と本家との間には、出来れば避けて通りたい場所が2箇所ほどあった。先ずは、我が家から100m程度の位置に、鉄道の線路が通っており、当然踏み切りがあった。その踏切では、何度も飛び込み自殺があったのだった。そして、その踏切からまた100m程度行くと、お寺の外墓地の脇を通らなければならない。当時の埋葬は未だ土葬だった。現在のように火葬はされずに埋葬されたのだった。そのために、棺が腐植して、棺の埋葬されている場所に凹みが出来て、墓標が傾いていたりするのは普通だった。だから、子供の頃には、出来れば夜間でなくても出来れば避けて通りたい場所だったのだ。それでも、とにかく胃痛に悶え苦しむ母を早く楽にして上げたい一心で本家まで走った。本家の雨戸を叩き、中に灯りが点くと、本家の小父さんや小母さんが起きてくれたことが分かる。いつものように母が苦しんでいる旨伝え、いつものお医者さんまでお迎えをお願いしたのだった。すると、小父さんは、自転車に乗り我が家とは別方向へと走り出すのだった。従って、私は、真っ暗な夜道を再び走って帰宅したものだった。
 お医者さんが来て、いつものようにモルヒネなる注射を打たれると、母は穏やかな表情を見せて眠りにつくのだった。その母の落ち着いた寝顔を見て、父も私も、再び明日に備えて床につくのだった。
 「灯り」と関係ないが、あの頃のことを思い出す度に、本家の小父さんとそのお医者さんには感謝しきれない思いである。現代生活ならば、電話もあれば、車もある。そして救急車もある。だが、小父さんもお医者さんも当時は自転車だった。ただ、とにかくひたすら頭の下がるばかりである。
 その本家までの道も、今では、何カ所も街灯がつき、夜間にウォーキングをしている人もいるほどであり、更に、道路脇には、随所に自販機が設置されており、それも道路を照らしている。何度か飛び込み自殺のあった踏切には見事な明るさの水銀灯が点灯している。そして、その踏切の横には、片側には学習塾が、反対側にはコンビニが出来た。夜間でも暗さを感じることは少しも無い。将に「隔世の感」とはこのようなことかと思えるのだ。ほんの半世紀の間に随分変化したものと思う。
 小学生の頃、今では見ることのない催し物があった。それも夜間の学校で。校庭に大きな布を張って、スクリーンを設置し、夜間に映写会が行われたのだった。当時は、敗戦直後で、戦勝国である連合国の支配下に我が国はあった。占領政策の一環として、民主化促進プログラムが組まれた。その内の一つがナトコ映写機の貸し出しがあった。その映写機を各地に持ち込み、映写会を開いたのだった。夜間ならば、映写に相応しい映画館のような暗室は不要である。無料の映写会だったから皆で見に行ったものだった。椅子も無い校庭に腰を下ろし映画を鑑賞するのだった。あの催し物こそは、それが可能であったということは、周囲が如何に灯りが乏しかったかを物語ると言えよう。映画が終わって、帰宅する時には、真っ暗な道を友達と映画のシーンを思い起こしながら、感想を述べ合ったりもしたものだった。
 母の病気の事例や、夜間に開催された映写界については、当時、我が国の夜は如何に暗かったかを言いたかっただけのことである。
 大人になってから、何度か真っ暗な世界を経験したことがある。
 その一つは、山だ。若い頃は、休日は山歩きばかりしていた。特に縦走といって、尾根伝いに、山から山を越えて歩く時に、山中で野営をするのだが、夜間はとにかく真っ暗だった。焚き火の明かりだけが周囲を明るく照らすだけだった。ただ、眼下に人里の灯りが見えると、何故か安心できたのだった。山歩きでは、夏場は暑いので、夜間に歩くとそれが凌げると山の仲間から聞いて、何度も夜間に登ったものだった。私の場合は、当時埼玉県の秩父市の企業に就職していたので、秩父の山を良く歩いた。特に東京都との境に位置する雲取山の場合には、仲間もよく夜間に登ったものだった。涼しいことも一つの理由だが、他にも理由があった。雲取山に秩父側から登ると、前白岩山というピークがあり、それを超えるとまた、一旦急激に下りに入るのだ。折角雲取山の頂上を目指しているのに、あまり下ってしまうと、又、登りがきつくなる。その時に、夜間だと頂上が見えない。だから、「あんな上を目指すのか!」という落胆した気持ちにはならない。ただ暗いので、懐中電灯の明かりで足許を照らして黙々と歩くだけだった。そして頂上に着くと間もなく日の出も見られる。これも夜間に登る理由の一つだった。
 真っ暗な世界のもう一つの経験は海だった。一度、大阪から九州までフェリーで向かったことがある。瀬戸内海を航行するのだった。大阪を出て間もなく、神戸の街の灯りが見えた。その灯りから、街の賑わいを想像することが出来た。やがて、本四連絡橋の下を通過する時には、橋の灯りを下から見上げることが出来た。暫くベッドで休んだ後で、午前3時頃、デッキに出てみた。驚いたことに何も見えない真っ暗な世界だった。星明かり一つ無いデッキで一人佇んでいると、不気味さに襲われ、早々に船室に戻ってしまった。その時に、初めて、灯台というものが如何に重要な役割を有していることかをあらためて考えたものだった。
 話が飛躍するが、コロンブスにしても、ヴァスコ・ダ・ガマにしても、世界の海を初めて渡った人は凄いと思う。
 以前、オーストラリアの西部にあるインド洋に面したパースにホーム・ステイをしたことがある。ある日、海岸で、南十字星を見たことがある。始め、どんなに夜空を見つめても、私にはその星座を発見できなかった。現地の知人に教えられて初めて分かった。パースから見たその星座はとても小さく見えた。こんな小さな星座を頼りに自分の行くべき方向を定めていたかと思うと、とにかく恐れ入ってしまった。だが、思うに、毎日、星空が見えると限らない。それに、大海では、灯台の灯りも届かないであろう。如何に羅針盤なる計器が方向を示してくれたとしても、何一つ見えない真っ暗な世界を航行するとは、私の想像を超える至難の業としか言いようが無い。
  以前、人工衛星から撮影した日本列島の夜間の様子を示した写真を見たことがある。我が国は、南北に細長く白く光っていた。特に高速道路のあたりは定規で線を引いたかのように白い線になっていた。
 我が国では、広告のための看板が多い。夜間も見えるように照明が当てられる。
 以前オーストラリアでホームステイをしたと記述した。彼の地でも、我が国で良く目にする企業の広告を良く目にした。だが、少し郊外に出ると、全く広告用の看板を目にしなくなる。現地の知人その点について訪ねると、
 「ここは商業区域ではないので、広告用の看板は設置出来ない。」
と答えてくれた。
 我が国では、遠くから見えるようにと、山の上まで広告が目に入る。高速道路を走っていると、右にも左にも広告ばかりである。そして、夜間には、その広告が目に入るようにと照明が当てられているのだ。
 時折流される政府からの広報スポットCMの中に次のようなコメントがあった。
 「あなたが、今お使いのエネルギーは、本当は次の世代の人々が使うはずのものでは無いでしょうか?」
と。
 明るいと、夜間も安心出来るし安全も確保出来ることを知ってしまった私たちは、必要以上にエネルギーを消費しているのかも知れない。
 上に、南十字星について触れたが、以前、TVである流星群が夜空を飛び交うというニュースが流れた。その夜、自宅の前で、夜空を眺めたが、子どもの頃と相違して、周囲には目に入る照明が多すぎることに気づいた。そこで、車を走らせて、利根川の堤防まで車を走らせて河川敷で流星群を観察したことがある。その時、ふと思ったのは、こんな田舎でもそのような状況なのだから、東京では流星群の観察などはしにくいのではないかということだった。母が胃痛に悩んでいた頃に真っ暗な夜道を本家まで走った頃、校庭で映写会が開かれた頃、今ではそんな時代は昔々の物語なのかも知れない。
 数年前に、東北で大きな震災があった。大地震とそれによる原子力発電所の大事故である。その結果、「計画停電」なる耳慣れない言葉を耳にし、実際に停電が行われた。事前に、どの地域はどの時間帯に停電がなされると予告があったのだったが、とにかく、様々な面で支障を来したことは言うまでも無い。何よりも困ったのは夜間の照明であった。私たち現代人は、照明の恩恵に浴する結果、日常生活においても夜更かしに慣れすぎてしまっている。そうした生活習慣の中での計画停電である。暗ければ、じっとしているか、寝てしまえば良いのだが、平素は誰もが家庭内で何かと動き回っている時間帯なので、寝るようなことはせずに、様々な工夫をして室内を明るくしようと試みたのであった。
 戦後間もない頃、夏場に雷雨があると良く停電をしたものだった。この場合には、事前の予告も無く停電となるのだから、大いに困惑をしたものだった。特に食事中だったりした時には、大いに困惑をしたものだった。そんな時に、両親は少しも慌てずに、蝋燭を取り出して、マッチで火を点け、室内を明るくしたものだった。蝋燭の炎は風が吹くと揺らめいて一種独特のムードを醸し出したものだった。そう言えば、戦時中に、空襲時には、防空壕に難を逃れたがその時も蝋燭だった。ある日、運悪く蝋燭が燃え尽きてしまったことがある。すると、父が、先ずマッチで火を点け、細い枯れ枝にそれを移し、やがてもっと太い木の枝に移し、そして何やら探し出して来た。先ず、小皿、そしてその上に菜種油を注ぎ、台の上に置いた。そして、蝋燭の芯に用いられるような水糸を縄のように編んで、針金に巻き付けた。その水糸を先程の菜種油の入ったお皿の上に置き、油が沁み込んだ時点で火をつけた。まるで、平安朝の照明のようにも感じたものだが、その時に、父や母は物知りなのだなと思った次第である。だが、それらは、長い人生経験から得た生活の知恵だったのだろうと今では思って居る。
 上には、父が急場凌ぎに作った照明の思い出を記述したが、それと同様に、まるで電気を用いない照明があったことを思い出した。今では、すっかり見られなくなってしまったが、アセチレンランプ(Acetylene lamp)とか、カーバイドランプ(Carbide lamp)と呼ばれた照明があった。お祭などの際に露天商が路上にお店を出すが、現在は発電機を持ち込んで照明している。だが、私の子供の頃には、上記のアセチレン・ランプでの照明だった。炭化カルシウム(CaC)と水を反応させて発生したアセチレンを燃焼させて灯りを点すのだ。これは、一般家庭では行われることの無い照明方式で、当時の夜店にはお定まりの照明方式だった。電灯よりも強力な照度を得られ、かつては漁業にも用いられ、初期の自動車のヘッドライトもこの照明だったという。一種独特の匂いが周囲に漂ったものだった。今では目にすることも無い懐かしい照明である。このアセチレンガスでの照明の様子を思い起こすことの出来る御仁は、間違いなく私同様に高齢と言うことになろう。 
 私は、別の項でも何度も記述したが、初めて職業生活を送ったのは、ある企業での電気技術者としてであった。したがって、実際に産業界に臨んで、様々な照明の在り方を実体験することが出来た。照明用のランプも次々と新たなものが登場し、実用化されてきた。
 だが、前述した東北での大きな震災後、「省エネ」という言葉が巷間ではしきりに口にされるようになってきた。冒頭に述べたように、現在の我が家を建築する際には、書斎以外は全て昔懐かしい白熱電球による照明にしたのだった。だが、昔、電気工学を学んだ頃、白熱電球の場合、その電力使用量の僅か8%程度が光に変換されるだけであり、残りは熱に変わってしまうのだと知った。当時の学習では蛍光灯でも23%程度が光になるだけであると学んだように記憶している。「省エネ」がしきりに叫ばれる中、降って湧いたように登場したのがLEDランプである。電力使用量は圧倒的に少なくて済むのだ。そこで、我が家の照明器具を少しずつ、LEDの照明器具に取り替え始めた。特に有り難かったのは、従来の蛍光灯器具にそのまま装着できる点だった。ついに、昨年暮れに全ての照明はLEDに替えることが出来た。取り付けの工事は、元々電気屋上がりだから、自分で出来た。LEDの有り難い点は、電力消費量が少ないだけでは無く、遠目にも目立つと言うことである。最近の信号機は殆どこのLEDに替えられたので見易くなったと感じているのは私だけだろうか?更に、LEDの場合、遙かに寿命が長い点もありがたい。ただし、価格が高価である点だけは難点と言える。現在は過渡期でもあるので、やがてはもっと廉価の方向へと移行するのではないだろうか。
 毎月、電力会社から電気料金の請求書が届くが、例の東北の震災以降、電力消費量の同月の前年比が書き添えてある。照明器具を毎月LEDに替える毎に、数%ずつ電力使用量が減少していることが分かる。その分を次の世代に残して上げなければ・・・。
 誰読むでも無いこんな駄文を記述している今宵に何処かの高校生が、父親からLEDの電気スタンドを買い与えられ喜んでいたりして・・・。 
 蛇足:まるで関係のないおまけ                          
 今回は邪魔にならないBGMとしてThe Modern Jazz Quartetを選んで見た。申し分なかった。タイトルは、The Last Concert:TheModern Jazz Quartetである。1974年に正式解散したMJQのオーストラリア公演での内容を収録したCD2枚組のアルバムである。MJQは管楽器を用いることはなかった。ミルト・ジャクソンのヴァイブを中心にクールなジャズを展開してくれるバンドだ。全部で22曲収録されているが、どれもおなじみの曲ばかりだ。オープニングはSoftly as in a morningsunriseに始まり、エンディングはBag's Grooveだ。穏やかに、聞き入りそうになり、何度もタイピングを中止したことか。
 Feb. 6 2016